佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

海沿いの歓楽街

先日、江東区の中川船番所資料館に行きました。そこには江東区の面積がめまぐるしく増加する様子が展示されていました。内陸の市町村では見られない現象です。

 

江東区って江戸時代から埋め立てが続いているから、どんどん土地が増えていくんですよね。もともと海辺だった場所も、時代とともに内陸っぽい立場になっていく。そこで驚いたのが、一時期の「洲崎」(現在の東陽町)がかなりの海っぺり、ウォーターフロントにあったということ。

 

「洲崎」は、もともと本郷にあったのが教育上よろしくないというワケで移転したのは薄ぼんやり知っていたけど、こんな海っぺりに移されたと知らなかった。(そのあとはまた海沿いが埋め立てられるから「洲崎」もズンズン内陸になっていきます。)

 

「洲崎」が海っぺりだったことの微かな証拠として下の絵(昭和3年 現代漫画大観「日本巡り」より)をご覧ください。これは、東京湾をボートでめぐる悪ガキの心象風景とでもいうのでしょうか。ざっくりと海沿いの名所が描かれおり、台場」「越中島の商船校(現在の海洋大学)」「芝浦」「佃島などの地名が見えます。これらの土地は今でも水辺のイメージがあるけれど、ここでは「洲崎」も水辺グループに含まれている点に注目したい。

  

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さらに、この絵の右下には、品川も描かれています。品川も昔は海っぺりだったわけですが、この絵とあわせて、 獅子文六のエッセイに出てくる品川遊郭の描写を読むと、それがよくわかります。以下、抜粋

久しぶりに、品川終点にきてみると、どうも様子がちがう。いつの間にか、終点が品川国鉄駅前になっている。昔の終点は、八ツ山といって、もう1つ先の陸橋の近くだった。(中略)しかし、終点が八ツ山だったことは、おおいに意義を持ったのである。夜の乗客で八ツ山に降りる人の3割は、品川遊郭が目的だったろう。陸橋を渡れば、すぐ品川宿で、街道の両側に古風な娼家が軒を列べた。(中略)

私なぞは品行がよかったから、この宿(しゅく)へくるのは、「三徳」という夜明かしの小料理屋を愛用したためだった。今は、どこも、夜明かし流行だが、以前の東京は堅気だったから、終夜営業の店は遊郭内に限ったもので、従って、市内で飲み足らぬ場合は、「三徳」に足を運ぶのが常だった。そんな店が何軒かある中に、「三徳」のカニやアナゴは優秀であり、客扱いもサッパリしてた。座敷からすぐ海が見え、潮風が吹き込んだ。ある夏の夜、私は友人とここで飲んでいたら、夜が明けてしまった。房総の山から、日の出が見えた。

獅子文六全集15巻458頁 ちんちん電車「品川というところ」より)

 「品川で夜明かしすると、房総の山から日の出が見える」って、すごいですね。上の絵はデフォルメではなく、ある程度、写実的だったのだなあ。

 

このエッセイによると、ちんちん電車の終点「八ツ山」は品川遊郭の最寄り駅なんですね。ググると、八ツ山はゴジラの上陸に深く関わっている場所のようです。土地勘がないからわからないけど!

小塚原の処刑場

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明治時代、小塚原の刑場(現在の荒川区南千住2丁目)の役人たちが、嫌な気分を忘れるためにドンチャン騒ぎをしている絵です。(画像は昭和3年 現代漫画大観「明治大正史」より)

明治4年7月2日 武蔵國 小塚原が梟示者行刑場と定まったので、罪人を切ったり梟首(さらしくび)にする役人どもは殺人中毒にかかっているとはいえ、人間だから血も涙もあるので、嫌な気持ちがするから、時々慰安法として酒を飲むとか女に戯れるとかして遊んだものだ。それがいわゆる コツ貸座敷に変形して非常に繁盛したそうだ。


明治4年に小塚原が梟示者行刑場に指定されているけど、明治12年にはもう梟首(さらしくび)自体が廃止になっているんですね。下の漫画はカラスが「おいらのご馳走がなくなってひもじい」といっています。(画像は昭和3年 現代漫画大観「明治大正史」より)



明治時代って、西洋と足並みをそろえなくては!とか蛮族と思われるのはイヤ!みたいな気分があったと思うのですが、梟首(さらしくび)禁止のほか、仇討ちの禁止、裸体で歩くこと禁止、盆踊り禁止寺田寅彦によれば、かつて盆踊りは「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の遺習」だとして、公然とできなかった時代があった)とかいろいろ禁止があったみたい。

明治の遺物と、外輪船

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昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」より利根川の外輪船。


「外輪船」は昭和初期の段階で、すでにレトロ気分な乗り物だったみたいですよ。以下、漫画についている解説です。

大利根、香取 (千葉県)

霞ヶ浦大利根をうろつく交通機関が、明治文化の遺物、外輪船であることがなかなかに興味深いのである。この船、時々、浅瀬へ乗り上げて後押しされて動くこともある。時候の好い時は、屋上へ甲羅を干して名物ワカサギで一杯傾けながら、水郷を一目千里の間に収めて悠々自適するに都合の良い船である。津の守へ着くと大きな鳥居がある。香取神社裏参道で遥かの森が奥ゆかしい。


「屋上へ甲羅を干して名物ワカサギで一杯傾けながら」って、屋上はフリーなスペースだったのかしら。



「外輪船」をはじめてみたのは数年前、品川の物流博物館で。妙にバタ臭い、可愛い船じゃないですか。でも、明治って西洋の文化を直輸入するから、こんなものかな、と思っていた。


この船が、江東区小名木川を走っていたというのがなんだか信じられないけど、走っていたのだなあ。画像と文は品川の物流博物館より

小名木川を行く通運丸「東京小名木川 日本精製糖株式会社」明治時代

「運河・堀割に囲まれた江東地域は、江戸時代以降北関東・東北方面から江戸に入る玄関口として発展を遂げました。小名木川を抜け、新川を経由して江戸川、利根川に入る航路は、多くの船で賑わったことでしょう。そして、関東各地の河岸は江戸と水上交通によって結ばれ、人やものが交わる場所として重要な位置を占めることとなります。このような関東の水上交通にとって大きな転機となったのが川蒸気船でした。新たな交通手段の登場は、河岸やそれに携わる人たちに大きな影響を与えました。」

「外輪船」って「カーマはきまぐれ」のビデオに出なかったけ?と見返してみたら出ていませんでした。残念!

船で千葉の海水浴場へ

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これは昭和初期の千葉県の北條を描いた漫画(昭和3年・現代漫画大観「日本巡り」より)

絵の解説によると、千葉県の北條には「一高(現在の東京大学教養学部)、高等師範、その他多数の学校の水泳合宿所が軒を並べて」おり、霊岸島から船がつくと」先に合宿所にきていた学生達が友達を出迎えに船まで泳いでやってきたそうです。ポイントはこの船が霊岸島」から千葉にやってきているという点。「霊岸島」は、今の中央区の新川。現在の新川に港の機能はまったく感じられませんが、かつては"千葉にいくなら霊岸島だよね!"みたいな感じがあったらしい。


みちくさ学会のサイトより霊岸島の住所表示板。すごく難しそうな漢字です。
michikusa-ac.jp



獅子文六の随筆「ちんちん電車」にも霊岸島が出ていました。

昔、三崎や房州へ行くのに、東京から汽船に乗ったが、それは霊岸島というところで、港なんていうものはなかった。


同じく、獅子文六の小説「浮世酒場」(昭和10)にも霊岸島が登場します。こちらは霊岸島→大島。無断欠勤した女給さんを心配している会話です。

「して、一体どこへ行ってきたンだい。フラフラと霊岸島で切符を買って、大島へ行く気になったのではないかい。何でも相談に乗ってやるから、隠さずに云いなさい。」

この場合のフラフラと霊岸島で切符を買って、大島へというのは、当時、三原山で投身自殺があったからですね。


bunshun.jp

浮世絵と、昭和の東京オリンピックの間に。


江東区周辺を調べるのに、このカラーブックスが便利です。


浮世絵に描かれた光景を、昭和39年・東京オリンピック直前の東京と比べる本。


東京オリンピック直前のモノクロ写真の数々が、とっても、アレで、「古きよき昭和」とか言わせないキビシイ作りになっています。現在の私らはいろんな記憶が消えた時代に生きているから、好き勝手に江戸情緒ファンタジーを作れるけど、明治生まれの著者はそうもいかんのでしょう。


前書きには「江戸の香の残った東京は、大正12年の関東大震災ほとんど消えてしまい、その名残も昭和の大東亜戦争の戦災ですっかり消えた。その上、東京は今、オリンピック準備で大わらわである。明治大正はもとより昭和の昨日までの姿もなかなかつかめない状態である。」とあります。



例えば、浮世絵に描かれた小名木川の五本松の現在(というか昭和38年)。ふー。



五本松は大正時代に枯れてしまった。川筋にセメント工場があって、川から荷揚げする石灰や石灰の粉、それにセメントが飛散して、それをかぶって松が枯れたのだそうだ。川沿いののどかな道は、倉庫や工場があって通れなくなっている。」

著者の宮尾しげを氏(明治35年生まれ)は、すご〜く上手な漫画家(私のサイトでも何回かご紹介しました。)。この本には、残念ながら宮尾氏の漫画はありませんが、巻末の方にしみじみした地図はけっこう描いてます。

お灸とお釜

お灸といえば、せんねん灸を思いうかべる人も多いと思いますが、カマヤミニというブランドもあるんです。普通にドラッグストアで売ってます。

お釜と「もぐさ」

「カマヤミニ」って、カタカナで書いてあるから、漢字では「鎌谷」なのか「釜家」なのかわからなかった。で、最近、江東区の人工の川について調べていたら「釜屋堀」という言葉が出てきたんですよ。「釜屋堀」は小名木川横十間川の交差するあたり。

「釜屋堀」と「カマヤミニ」、関係あるのかしらと思ったら?と思ったら…、意外に関係あった。なんでも江戸時代、小名木川のほとりにお釜とか鋳物とかの産業が栄えてたんですって。人工の川は重い材料を運ぶのに適しているし、海路と違って天候の影響を受けないのが都合良いらしい。

そして、お釜を作っていた滋賀県由来の家が、滋賀の産物「もぐさ」を売ったことから「釜屋もぐさ」になったようなのです。以下、釜屋もぐさのwikiより引用

七左衛門・六右衛門は万治元年(1658年)に深川上大島町(現・江東区猿江二丁目16番地東側)に工場を構え、明治に至るまで鍋釜を作り続け、隆盛を誇ったが、一方の治左衛門は三代目が郷里の名産伊吹もぐさに目を付け、転業しこれを専門に扱うことで差別化を図った。まもなくこれが江戸市中で評判となって、大店に成長し、治左衛門は天明・明和の頃町名主を務めるまでになった。

牛乳屋さんのつくったドーナツ的な、お釜屋さんのつくったお灸……という感じなのかしら。ようしらんけど。
▽もぐさの袋の上の方にお釜のマークがある。

おまけ:化学肥料なら「釜屋堀」?

釜屋堀っていうと、なんだか、細〜い、時代劇のセットの川みたいなイメージだけど、昭和初期の写真をみると(土木学会サイトより)、意外にも工業の香りがプンプンですね!

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昭和3年小名木川工事,横十間川工事」

三井財閥を築き上げた益田孝の自伝にも、肥料の会社(東京人造肥料會社)を立ち上げるにあたって、やはり「深川の釜屋堀」に工場をつくった、と書いてあった!現在も釜屋堀公園には「化学肥料創業記念碑」があります。

また、渋沢栄一財団のサイトにも、「東京人造肥料株式会社本工場」といえば釜屋堀だよね、みたいな記述と、工場の煙モクモクの写真が。

東京府南葛飾郡大島村釜屋堀
人造肥料は直ちに『かまやぼり』なる語を聯想せしむ、思ふに東京深川釜屋敷なる東京人造肥料株式会社は本邦に於ける人造肥料の鼻祖にして、夙に人口に膾炙し、隠然全国人造肥料業の覇たるの観あればなり。



以上、お灸と、お釜の関係でした。
モグサは、ふわふわした軽いものですが、たどっていくと鋳物とか工場とか硬そうなエピソードににつながっていてビックリしました!

芥川龍之介と寺の引越し

芥川龍之介のエッセイ*1を読んでいたら、自分トコの寺が猿江江東区)から染井(豊島区)に移転したと書いてありました。


昔は本所の猿江にあった僕の家の菩提寺を思い出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も建っていたものである。(中略)この寺は  ー  慈眼寺という日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転している。(中略)が、あのじめじめとした猿江の墓地は未だに僕の記憶に残っている。

寺の引越しって、すごく大変そうじゃないですか。


猿江」といったら、まあ錦糸町だし、「染井」といったら山手線の巣鴨。距離あります。


どうして、わざわざ引っ越したのだろう。


それも、関東大震災より前に。


と調べてみたら〜


明治43年8月の大水害が原因で寺が引越したらしいのです。


明治43年8月の水害で関東地方が水浸しになり、翌明治44年、荒川放水路の大工事が決定されたそうですから、ハンパ無き被害だったのでしょう。国土交通省のサイトには「東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃」とあります。



○参考○
この漫画は、昭和初期の荒川放水路船堀橋付近*2。「船堀橋付近で鯉が釣れるので皆と同じように糸をたれていたが、あげてみると海老だ。」という文章がついていました。赤丸がエビです!

*1:芥川龍之介随筆集 岩波文庫

*2:昭和3年 現代漫画大観「日本巡り」より

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