佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

モボモガと村山貯水池

昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」より、村山貯水池付近を散策するモボとモガ。

 

Google マップ

 

 村山貯水池は、通称「多摩湖」。東村山音頭の「 庭先ゃ多摩湖 ♪」の「多摩湖」です。大正5年から昭和2年の間に建設されました。

 

地図で解明! 東京の鉄道発達史 (単行本)には、昭和13年西武鉄道が村山貯水池を日帰り可能な景勝地として大ブッシュしているパンフレットが掲載されています。パンフレットは、高田馬場からわずか30分!とうたっており、菊池寛による賛辞の言葉〝京都に行かなくたって村山貯水池で山紫水明気分が得られるよ(大意)〟を使って村山貯水池の良さをアピールしています。当時の西武は村山貯水池付近にお洒落な洋館ホテルも建てている。人造湖と洋館ホテルの組み合わせ。洋装のモボやモガはここに宿泊して、欧羅巴のどこかにいるつもりになれたのたかもしれません。

 

獅子文六の小説「カレーライス」では、さびれた洋食屋で働く若い男女が"今度の公休は一緒に村山貯水池へ行こう"と約束をしています。村山貯水池は、そういう階層のカップルでも手軽に行ける場所だったでしょう)

 

村山貯水池が登場する小説として大岡昇平の「武蔵野夫人」があります。村山貯水池脇のホテルで不倫カップルが、一線を越える・越えないで大騒ぎする話。この小説が発表されたのは、昭和25年です。西武が村山貯水池推しの派手なパンフレットを作ってからわずか12年後の話なのですが、その間に日本は敗戦を体験しました。湖畔のお洒落ホテルも、敗戦を経てすっかりさびれてしまった様子が描かれています。(この湖畔ホテルに限らず、戦前はモボモガの憧れであったモダン施設が、戦中に荒廃し負のオーラを放つというケースは「京王閣」「花月園」をはじめとして、かなり多かったのではないかしら。)

  

「武蔵野夫人」に出てくる村山貯水池の説明を読むと、冒頭の風刺漫画でモボとモガが軽薄そうに散歩している様子が、決して誇張ではなかったことがわかります。

この丘陵の懐は、つまり東京都の水道を賄う村山貯水池にほかならず、ちょうど富子の女学生時代にそれが竣工し、谷を埋めた人工の湖の景観が、東京市民ことに男女学生の興味を引いて、湖畔にいわゆるアベック休憩のホテルがあるのを彼女は知っていた。

文中に出てくる「富子」というのは、コケティッシュな発展家タイプの女性で、小説の中では30歳という設定です。西武のパンフレットが昭和13年に、村山貯水池を"身近な景勝地"として売り出していた時期は、まさに彼女の女学生時代に相当します。富子は女学生時代の記憶を元にして、村山貯水池のホテルに若い男を誘うのでした。

  

おまけ:村山貯水池には「狭山公園」が隣接しています。「狭山公園」も昭和13年の西武鉄道パンフレットで推している場所なんですね。そんな狭山公園ですが。かつては「アカハタまつり」の会場になっていたそうです。レッドアローとスターハウス: もうひとつの戦後思想史 (新潮文庫)には、西武鉄道が「アカハタまつり」の日程に合わせて新宿と池袋に特設切符売り場を設けていた歴史が書かれています。にもかかわらず西武の機関誌自体には「アカハタまつり」の記事はいっさい出ていないそうです。

 

幻の地下鉄

 

地図で解明! 東京の鉄道発達史 (単行本)を読んでいたら、大正に計画されていた幻の地下鉄路線が出ていた。

路線は以下の通り。

 

始発駅と終点の駅は、

 

築地→小村井

荏原町北千住

恵比寿→下板橋

渋谷→月島

角筈(現・西新宿)→砂町

池袋→大島

 

これを見て驚いた。

終点が、ほとんど東京の東側。しかも、かつての工場地帯。たぶん東京生まれの人も、「どこ?それ?」という地名が多いのでは。

 

昔の地下鉄って、繁華街と繁華街を結んだり、デパートの力で建物直結にしてみたりする浮かれたものだと思いこんでいたから、この地下鉄計画は意外だった。

 

(終点の1つである月島界隈は、今でこそ「古きよきエリア」みたいに思われているけど、もともと軍需工場の町だし。月島は私の生まれ故郷。幼い頃は廃工場で遊んだものじゃった)

 

しかし戦前の映画館が、銀座や浅草だけでなく、東京の東側に多かった点を考えると、かつては現代からは想像しにくい「盛り場」だの「お金を落としてくれる消費者層」の分布図があったのかも。なんで今の私達が昔を想像しにくいかというと、大工場地帯の跡地はその広大な敷地を生かして大公園・大団地群・ショッピングモール等に大変身しており、過去を感じさせないからだと思います。

 

narasige.hatenablog.com

獅子文六の小説によれば軍需工場の熟練工はかなり収入が多かったそうですよ。

 

narasige.hatenablog.com

 


 

 

 

荒川と桜草

 

昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」より、「赤羽」の図。

 

「渡し船で荒川を越えると桜草で有名な浮間ヶ原だ。草の中に桜草を取るなと書いた札が立っている。」

 

洋装のモボとモガが、桜草見物しています。あるいは密かに持ち帰ろうとしているかな?

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赤羽〜浮間ヶ原、荒川の改修で流れが変わっているから昭和3年の観光案内とは、様子

がかなり変わっているかも。

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浮間の桜草って、江戸時代から有名だったんですね。

浮間ヶ原の桜草とは?|北区観光ホームページ

しかし荒川周辺の環境変化で、桜草は衰退、と。

 

 

この付近に戸田斎場(民営の斎場火葬場)がありますが、出来た当時(昭和元年)は荒川が今とは違うところを流れていたそうです。

 

板橋にあるのに「戸田」斎場なのはなぜ?(wikiより)

板橋区内にありながら「戸田」と名乗っている理由は、1926年3月29日の設立当時は荒川が葬祭場よりも南側を流れており、葬祭場のある現在の舟渡4丁目が埼玉県戸田町(現在・戸田市)に所属していたためである。その後河川が改修され、1950年板橋区に編入された。戸田変電所が板橋区内にあるのも同じ理由である。

 

観劇にうっとり

私は「観劇で陶酔する」ことに憧れている。

いままでそういう経験が全くないからである。

獅子文六の「写真」(獅子文六全集第11巻)という短編に70歳近くなって観劇の喜びを発見する女教員の話があって、それがとてもイイ。

 

独身で通した女教員は、明治の女書生の生き残りで芝居に全く縁の無かった人。しかし退職後、教え子に誘われて歌舞伎を見に行き、すっかりはまってしまうのだ。役者の1人に激しく心惹かれ、芝居に通い詰め、ブロマイドを買い集め、湯飲みや手ぬぐいも彼のグッズを使う。教え子達は、その様子をあざわらって「お婆ちゃんの執心って、もの凄いものね。今まで、あンまりお慎みが過ぎた反動よ」「今更、気味が悪いわ」等、ヒドいことを言うのである。

 

しかし、女教員の心は、この上なく清らかでハッピーだった。

 

福助の顔、福助の姿、福助の声に接していれば、彼女の心は隅々まで明るく、愉しく、平和でありました。」

 

ああ〜、私もこういう境地になってみたい。

 

 

(↓中野サンプラザの側面に止まっていた、きよしさんのトラック。なんとなく眺めていたら年配女性に声をかけられ、トラックを背景に写真をとるよう頼まれた。)

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慰問あれこれ

 


Christina Aguilera - Candyman (Edit)

 

日本の場合、戦地に慰問というと内海桂子師匠が満州に巡業☆的なイメージですが、アメリカは派手そうですね。

 

クリスティーナ・アギレラ「キャンディマン」は第2次大戦中の設定。メイクが戦時中の看護婦さん募集ポスター(ボストンパブリックライブラリーより)に似てるー。チークくっきり、口紅くっきり。

 

↓なんだか化粧品の広告みたいだけれど、1944年のポスターです。日本でいうと昭和19年!

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しかし「キャンディマン」のビデオに出てくる兵士の皆さん、素朴な風貌の人をそろえているなあ。獅子文六のエッセイに、敗戦後の日本はみんな人相が悪くなり、温厚な表情の人はG・I(アメリカ兵)だけっていうのがありましたけど、そんな感じ?以下エッセイを引用。

温厚や寛容の相は、どこへ行っても見当たらなくなった。たまに、これは、珍しく好人物が歩いていると思うと、テキサスの山奥から出てきたらしいG・Iである。二た目と見られぬパンパンに腕をとられて、ニヤニヤしている顔つきこそ、ここに人ありの感を抱かせる。(昭和34年週刊文春

 

 

【関連話題】慰問といえば、アンドリューシスターズ。アンドリューシスターズ 第二次世界大戦中、慰問で活躍しました。


Andrews Sisters Boogie Woogie Bugle Boy

で、アンドリューシスターズをケイティペリー達がカバーしたもの↓。はじめはモノクロだけど途中でカラフルなショーに切り替わり、舞台の装飾が爆撃機星条旗になります。戦勝国ならではの舞台装飾ですねえ。最後にうつしだされる観客席には、スマホで舞台の撮影をこころみる迷彩服&坊主頭の青年達。


Katy Perry, Keri Hilson & Jennifer Nettles Boogie Woogie Bugle Boy

 

 

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海沿いの歓楽街

先日、江東区の中川船番所資料館に行きました。そこには江東区の面積がめまぐるしく増加する様子が展示されていました。内陸の市町村では見られない現象です。

 

江東区って江戸時代から埋め立てが続いているから、どんどん土地が増えていくんですよね。もともと海辺だった場所も、時代とともに内陸っぽい立場になっていく。そこで驚いたのが、一時期の「洲崎」(現在の東陽町)がかなりの海っぺり、ウォーターフロントにあったということ。

 

「洲崎」は、もともと本郷にあったのが教育上よろしくないというワケで移転したのは薄ぼんやり知っていたけど、こんな海っぺりに移されたと知らなかった。(そのあとはまた海沿いが埋め立てられるから「洲崎」もズンズン内陸になっていきます。)

 

「洲崎」が海っぺりだったことの微かな証拠として下の絵(昭和3年 現代漫画大観「日本巡り」より)をご覧ください。これは、東京湾をボートでめぐる悪ガキの心象風景とでもいうのでしょうか。ざっくりと海沿いの名所が描かれおり、台場」「越中島の商船校(現在の海洋大学)」「芝浦」「佃島などの地名が見えます。これらの土地は今でも水辺のイメージがあるけれど、ここでは「洲崎」も水辺グループに含まれている点に注目したい。

  

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さらに、この絵の右下には、品川も描かれています。品川も昔は海っぺりだったわけですが、この絵とあわせて、 獅子文六のエッセイに出てくる品川遊郭の描写を読むと、それがよくわかります。以下、抜粋

久しぶりに、品川終点にきてみると、どうも様子がちがう。いつの間にか、終点が品川国鉄駅前になっている。昔の終点は、八ツ山といって、もう1つ先の陸橋の近くだった。(中略)しかし、終点が八ツ山だったことは、おおいに意義を持ったのである。夜の乗客で八ツ山に降りる人の3割は、品川遊郭が目的だったろう。陸橋を渡れば、すぐ品川宿で、街道の両側に古風な娼家が軒を列べた。(中略)

私なぞは品行がよかったから、この宿(しゅく)へくるのは、「三徳」という夜明かしの小料理屋を愛用したためだった。今は、どこも、夜明かし流行だが、以前の東京は堅気だったから、終夜営業の店は遊郭内に限ったもので、従って、市内で飲み足らぬ場合は、「三徳」に足を運ぶのが常だった。そんな店が何軒かある中に、「三徳」のカニやアナゴは優秀であり、客扱いもサッパリしてた。座敷からすぐ海が見え、潮風が吹き込んだ。ある夏の夜、私は友人とここで飲んでいたら、夜が明けてしまった。房総の山から、日の出が見えた。

獅子文六全集15巻458頁 ちんちん電車「品川というところ」より)

 「品川で夜明かしすると、房総の山から日の出が見える」って、すごいですね。上の絵はデフォルメではなく、ある程度、写実的だったのだなあ。

 

このエッセイによると、ちんちん電車の終点「八ツ山」は品川遊郭の最寄り駅なんですね。ググると、八ツ山はゴジラの上陸に深く関わっている場所のようです。土地勘がないからわからないけど!

小塚原の処刑場

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明治時代、小塚原の刑場(現在の荒川区南千住2丁目)の役人たちが、嫌な気分を忘れるためにドンチャン騒ぎをしている絵です。(画像は昭和3年 現代漫画大観「明治大正史」より)

明治4年7月2日 武蔵國 小塚原が梟示者行刑場と定まったので、罪人を切ったり梟首(さらしくび)にする役人どもは殺人中毒にかかっているとはいえ、人間だから血も涙もあるので、嫌な気持ちがするから、時々慰安法として酒を飲むとか女に戯れるとかして遊んだものだ。それがいわゆる コツ貸座敷に変形して非常に繁盛したそうだ。


明治4年に小塚原が梟示者行刑場に指定されているけど、明治12年にはもう梟首(さらしくび)自体が廃止になっているんですね。下の漫画はカラスが「おいらのご馳走がなくなってひもじい」といっています。(画像は昭和3年 現代漫画大観「明治大正史」より)



明治時代って、西洋と足並みをそろえなくては!とか蛮族と思われるのはイヤ!みたいな気分があったと思うのですが、梟首(さらしくび)禁止のほか、仇討ちの禁止、裸体で歩くこと禁止、盆踊り禁止寺田寅彦によれば、かつて盆踊りは「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の遺習」だとして、公然とできなかった時代があった)とかいろいろ禁止があったみたい。

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