佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

グッバイレーニンの音楽にのせて

私が才能のある映画監督ならやってみたいこと。

それは、グッバイレーニン的な音楽にのせて、広池秋子の「オンリー達」を映画化すること。

「オンリー達」は、「基地そばの下宿のオバさんは見た!」のテイで書かれている小説(小説とはいえ、地元の老人の説によれば作者の実体験に近いとか。作者イコール米兵に部屋を貸している下宿のオバさん。米兵への部屋貸しは基地の街T市では珍しくなかった)。芥川賞候補にもなったそうですよ。

敗戦間もない頃、基地の街T市を舞台に、フェンスの中の豊かさを手にしようと右往左往する人たち。特に女性の場合は一攫千金を狙うために、身を挺して!のシーンも多い。映画化にあたっては、陰惨になったり、妙に美化したり、の方向に走りそう。そこをグッとこらえて、グッバイレーニンぐらいのバランスに持っていくのだ。

 

どうしても陰惨に生臭くなるのであれば、グランドブダペストホテルみたいに、おもちゃっぽい乗り物(ケーブルカーとか)などを用い、中和を試みたい。

 

その映画が完成しても、基地の存在のお陰で超リッチになった階層の要望で、ご当地では上映されないかもしれないけどね。

【連合国軍隊ニ限ル】銀座のキャバレー

 敗戦直後、日本人客が入れないキャバレー「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」が誕生しました。場所は銀座のど真ん中。今の「GINZA SIX」(元・銀座松坂屋)の地下です。“お洒落な銀座のヒストリー”にはまず出てこない施設ですが、関連画像をいくつかご紹介します。

銀座のど真ん中「オアシス オブ ギンザ(Oasis of Ginza)」

これはアメリカの雑誌『LIFE 』1945年12月3日号。この年の8月に敗戦で、12月にはもう「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」が記事になっている!女子の頬がツヤツヤです。

A JAP-SPONSORED DANCE  IS  GIVEN  AT " OASIS OF GINZA" HALL

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『LIFE』 1945年12月3日

▽ちなみにこれは上の写真と同じ号(「LIFE」 1945年12月3日号)に出ていた東京。息をしているのか心配になるレベルの寝姿で、「オアシスオブギンザ」とのギャップがすごい。

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『LIFE』1945年12月3日

特殊慰安施設協会の「オアシスオブギンザ」

 「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」とはいったいどのような施設なのでしょうか。高見順『敗戦日記』(中公文庫)より昭和20年11月部分を引用してみますね。

11月14日 松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下に R.A.A.とある。Recreation and Amusement Associationの略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。

「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が「地下二階までは行けるんですよ」

地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼り紙があった。(略)

下階から音楽が響いてくる。栄養失調の身体を汚い国民服に包んだ日本人の群れが、空腹をかかえてうろうろしている。楽しそうな音楽も一向に気分を引き立てないようである。

昭和20年11月14日といえば、敗戦から3ヶ月。栄養失調の日本人にとって下階からひびくサウンドは、よほどの音楽好きでもキツそうです。

高見順『敗戦日記』そのままの写真を見つけました(昭和20年11月/菊池俊吉撮影)。『敗戦日記』の

松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下に R.A.A.とある

は、ズバリこれでしょう。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)に加筆

▽拡大画像。R.A.A(特殊慰安施設協会=Recreation and Amusement Association)の文字が見えます。

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▽引きで見るとこんな感じ。右の方には『敗戦日記』にでてくる「浮世絵展」の看板があり、その上には松坂屋のマークも見えます。(昭和20年11月/菊池俊吉撮影)

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『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)

「オアシスオブギンザ」のオープンを素早く告知

そして、これは「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」がもうすぐできます!という告知看板。撮影は、戦前のモダンな銀座の写真で知られる師岡宏次です。焼け野原にサッと「OPENING SOON」の看板を立てる段取りの良さよ。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集より

▽看板拡大。MASTUZAKAYA  DEPT. (松坂屋百貨店)の文字が見える。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集より

▽『想い出の東京 師岡宏次写真集』のキャプション。「500人の日本人の踊り子」って…

ダンスホール開場」 銀座松坂屋の地下室が焼け残った。そこは進駐軍専用のダンスホールになり、焼け野原に看板が立った。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集

銀座が焼け野原なのに「Oasis Of Ginza」はオープンしていた

 敗戦直後「オアシス オブ ギンザ」がいち早くオープンした写真を見ると、「なるほど!銀座の復興はサクサクすすんでいたのだな」と、つい錯覚しそうになりますよね。

 ところが銀座はまだメチャクチャなのでした。たとえばこれは高見順『敗戦日記』と同時期(昭和20年11月)に撮影された銀座4丁目交差点。中央に和光、右に見えるのは黒コゲの銀座三越です。「オアシスオブギンザ」の開店がいかに素早いかがわかります。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)に加筆

【参考】焼けた歌舞伎座明治座は、再開するまでに5年もかかったんですよ。

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素早い“防波堤”の準備

 なぜ、街が壊滅状態なのに「オアシスオブギンザ」は素早くオープンしたのでしょうか?その理由が、小沢昭一のインタビュー集『色の道 商売往来』からうかがえます。この本は小沢昭一がRAA(特殊慰安施設協会)の創立メンバーから、各地に用意された“施設”について直接聞き出しているのです。

「 政府自体も大陸で身に覚えがありましょう。(略) 自分がやっていたことを、必ず向こうにもやられるだろうと想像した。」

なるほどね…

色の道商売往来―平身傾聴・裏街道戦後史 (ちくま文庫)

 以上、“お洒落な銀座のヒストリー”にはまず出てこない施設「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」を紹介しました。同様に、あまり知られていない銀座の施設として「東京温泉」があります。こちらもぜひあわせてご覧ください。

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獅子文六『青春怪談』の時代

お墓で恋をはぐくむ 「青春怪談」(獅子文六

 獅子文六の『青春怪談』(昭和29)が、ちくま文庫から復刊されましたね。山崎まどかさんの愛にあふれた解説が「ちくまweb」で読めます。その中で山崎さんは「青春怪談」の「胸がキュンとなるようなロケーション」として“向島百花園の萩のトンネル”をあげていらっしゃいました。

  私は、お花や庭園にうといので(笑)、キュンとするロケーションとして「多磨墓地」をおすすめしたい。

『青春怪談』では、多磨墓地に墓参にきた中年男女が偶然鉢合わせ、そこから恋が加速するんですよ。ではなぜ、よりによって「墓地」が恋の舞台なのでしょうか?その理由を考えてみたいと思います。

①『青春怪談』の多磨墓地は、裕福な時代が冷凍保存されているから

多磨墓地が恋愛の舞台になった理由の1つは、おそらくその贅沢さにあります。『青春怪談』の中で、多磨墓地は

日本が少しは裕福だった時代に、造られた墓地だけあって、規模が大きく、設計が行き届いていた

と説明されている。『青春怪談』の純情中年カップルは、戦前の恵まれた階級で育っているから、「日本が少しは裕福だった時代」につくられた施設と、相性がいいはずです。(当時の日本の“裕福さ”が何の上に成り立っていたかは、今はいったんおいておくとして。)

 「いやいや、“日本が少しは裕福だった時代を思わせる場所”なんて、ほかに沢山あるでしょう?墓である必要はないよね?」と思われるかもしれません。

 しかし、敗戦後しばらくの期間、都心の施設は、立派なら立派なほど進駐軍に接収されていました。当然、その周辺には豊かさの分け前を求める人々も群がります。

 つまり「立派な施設=ピリピリとした施設」みたいな傾向があったわけです。 『青春怪談』が書かれたのは昭和29年。敗戦から10年近くたったとはいえ、まだ接収されたままの場所(日比谷の宝塚劇場・築地の聖路加病院など)も残っていました。

 なまじ戦前を知っている中年にとって、敗戦後の都会は、なにかと雑音が多い場所だったことが考えられます。

▽たとえば、これは『青春怪談』より少し前の昭和27年、銀座4丁目交差点。右側のすすけた建物は「三越」。奥の「松屋」は接収されて「TOKYO PX」。画面手前には、進駐軍用の標識、とまあ、ゴチャついているわけです。Tokyo Ginza, 1952 | Photographer: Captain John Randolph Coup… | Flickr

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青山墓地ではなく、多磨墓地が選ばれた理由

 雑味の多い都心にくらべ、郊外の多磨墓地は戦後のゴタゴタを(比較的)連想させません。意外にも恋愛の舞台にぴったりといえるでしょう*1

一方、同じお墓でも青山墓地は、近隣施設が接収されていたからアウトでしょうねー。早川良一郎のエッセイ『散歩が仕事』によれば

戦後青山墓地ジープが駐車し、米兵と日本女性の密会場になっていた

そうですから。

②多磨墓地は“最新型”だったから

 昔のお墓は、ジメッとしてオバケが出そう。でも、多磨墓地はちがいます。日本初の公園墓地で、湿気もすくなめ。『青春怪談』に描かれた多磨墓地の様子はとっても明るいのです。

中央の大道路は、見上げるような赤松の林立と、鐘楼風の噴水塔が、墓地というより公園へきた印象を与えた

ヒロインの蝶子(アラフィフ)は、亡夫の墓参りをするときにに、多磨墓地の「大道路」を歩くのが大好きという設定なんです。

▽噴水を右に曲がると、蝶子さんの亡夫の墓があります。

 ▼平面図はこんな感じ。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282291-00より

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上書きされる前の東京で、青春を取り戻す

 現代人にとっての多磨墓地は、大正12年開園の伝統ある場所ですが、『青春怪談』の昭和29年からみれば、開演から約32年しかたっていません。 お若い方には想像しにくいかもしれませんが、中高年にとって30年前は、“つい最近”です。

『青春怪談』の純情中年カップルにしてみれば、多磨墓地は、“この間オープンしたばかりの、斬新な施設”といえるでしょう。

 『青春怪談』に登場する若者たちは、新橋や渋谷など、雑味の多い街を平気で歩くことができますが、戦前の都会を知っている中年はそうもいかないはず。自分たちが青春を過ごした街が、復興途中にヘンテコな上書きをされているのですから。獅子文六も敗戦後の東京を「田舎酌婦の化粧のよう」*2と嘆いているし。

そんなわけで、敗戦国の中年カップルにとって、戦前の豊かさを残した郊外墓地は、けっこう恋愛むきのロケーションだったりするのです。


 ▽美しい建造物に、変てこな上書きが加えられた例:有楽町「日劇

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▽「青春怪談」の書かれた昭和29年の聖路加病院には、まだ星条旗がひるがえっていました

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▽「青春怪談」が書かれた昭和29年、宝塚劇場はまだ接収されていました

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*1:厳密にいえば多磨墓地の周辺にも、接収された「調布飛行場」がありますが、墓参にはあまり影響がなかったと考えられます。

*2:昭和27年頃のエッセイ『復興見物』

万年筆

私は字を書くのが苦手です。だから手帖も使いません。

しかし万年筆なら、ある程度うまうく書けるのです。

うまい字が書けると生活の質があがる。

そして自分を愛せる感が高まるのです。

万年筆は高いものでなくてもOKです。

1,000円程度で買えるパイロットの「カクノ」(写真)や、ラミーでじゅうぶん。

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万年筆によって私自身のQOL(生活の質)がグッと上がったので、老母にパイロットの「カクノ」を与えてみました。

するとビックリ。

母は「万年筆使うの50年ぶり。」といいながら「カクノ」で、昔と変わらぬしっかりとした字と、正しい言葉使いの手紙を書いてよこしたのです。母は80歳代で体もかなり不自由です。しかし「書く」「言葉を選ぶ」という機能に関しては意外なほど好調なことが筆跡からうかがえました。

 

私は年寄り相手の窓口業務で、震える筆跡をたくさん見てきたから、母の字がしっかりしていることには余計に驚きましたね。

 

母は長いことウツなので、体調の悪い時はいかにも具合悪そうな小さな字をエンピツで書いていたのです。万年筆を使うことによって、自分がまだカッコいい字を書けることを発見したのでしょう。「笑顔を作ると幸せになるのさ」的な理論がありますが、のびのびした字が書ける自分はまだイケる!(同世代はどんどんあの世に行くけど!)と感じているのかもしれません。

あまり話し合わない親娘なので推測のみで書いてますが、たぶん合ってますよ。

 

 

向島の大倉喜八郎別邸・その後

 高見順「敗戦日誌」には、敗戦の年(昭和20年)10月1日の日記に、向島の大倉別邸(wiki)が、進駐軍慰安所になったという記載があります。 

十月一日
三木清が獄死した。殺されたのだ!
墨堤の大倉別邸が進駐軍慰安所になる。
一度暇を見て向島の移り変わりを見に行かねばなるまい。

 

墨堤の大倉別邸とは、大倉喜八郎別邸のこと。

 

参考画像:大倉喜八郎が、憧れの成功者だったことを示す漫画(昭和3年

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私は何年か前、墨堤の大倉別邸がなぜか千葉県の船橋に移築されているのをネットで知り、見に行ったものでした。

道路の向かいは「ららぽーと」、背景は団地群、といった環境の中、唐突に大倉別邸喜翁閣が立っていて違和感がすごかった!

大倉別邸は某ホテルの敷地内にあるのですが、この建物の由来を説明する掲示物等は無く、雨戸も閉められた状態なのです。こんなに立派な建物を説明する掲示物が無いなんて…やはり敗戦直後のアレコレがあるから、冷遇されているのかなって思っておりました。

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↑大倉別邸 

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↑隣接する団地

 

 

それから数年たち、ふと、墨田区の観光案内を見ていたらマップの中に「大倉喜八郎別邸跡」というのがドーン!と紹介されているじゃありませんか。写真はなく「財閥を築いた大倉喜八郎が、明治43年に建てた別荘。現在は千葉県船橋市に移築。と文章が記載されているだけですが。

 

大倉喜八郎別邸が、船橋で冷遇(?)されているのを見た私としては、【元々建っていた場所である向島】にも痕跡は残っているわけはない、と思い込んでいました。しかし観光マップに堂々と出ているとなれば話は違います。何かしら残っているはず。きっと区の石碑(文化の散歩道的な?)があったり、関連企業がこしらえた記念碑があるのかも?と予想していたのです。しかし、行ってみるとそれは大きく裏切られました。

 

解体前の倉庫の草ボーボーの植え込みに、経年劣化でほとんど読めない大倉喜八郎別邸跡」というプレートがあるだけ。かなり寂しい状況だったのです。しかもプレートを書いた主はその倉庫会社というテイになっていて、墨田区や大倉氏関連の企業が関わった形跡は無し。やはり敗戦時の出来事の余波が、堂々とした記念碑を作らせないのでしょうか。

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別邸跡に立つ倉庫の解体を示す看板

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参考資料1「色の道商売往来」より、小沢昭一と、RAA関係者の対談(昭和40年代)

[小沢] マッカーサーの名前が出ましたが、進駐軍の高官の接待、これもいろいろご苦労があったと思いますが・・・・

[鏑木] そのために大倉別邸を手に入れたわけです。大倉さんの別荘には、有名な陛下がおいでになった部屋がありますね。あの部屋に、マッカーサーをはじめホイットニー中将をの他をよんだわけです。

[小沢]そういうご連中にご婦人は・・・・

[鏑木]やっぱり施設の若いコです。

[小沢]と、GIのあとから司令官が抱くというわけですか。

[鏑木]そういう点、アメリカは平等ですな(笑

[小沢]しろうとのお嬢さんを世話しろなんて、おねだりはありませんでしたか。

[鏑木]おねだりもありました。ただ日本の女は毛唐崇拝の念が強いから、案外こっちは苦労しないで喜んでいきましたね。

[小沢]あのころ、RAAの女性の平均年齢はいくつくらいでしたか。

[鏑木]22.3でしょうね。

[小沢]その方達は今生きていれば、50近い。当時のカネで相当ためた女もいるでしょうね。

[鏑木]ためた女は少ないです。

[小沢]あれで稼いだ金ってどうしてたまらないんですかね。

[鏑木]やっぱり荒稼ぎというんでしょうね。地道な稼ぎ方じゃないから・・・・・。

 

参考資料2 墨田区図書館ニュースより抜粋

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東京湾のパノラマと、洲崎チェック☆

 幸田露伴の随筆に、初夏の晴れた日に東京湾を舟にのってボンヤリしていると、東京湾の周囲がぐるりと見渡せて「天の橋立の景色を夢にでも見るようである」といった心地になることが書かれていた。東京の近くにこんなに良い光景があるのを知らないなんてみんな人生損しているよッ!と云った口調である。

 

一部引用すると

すぐ鼻の先の芝から愛宕高輪品川鮫洲大森羽田の方まで、陸地のだんだんに薄くなって行って終に水天の間に消える。芝居の書割とでも云おうか又パノラマとでも云おうか何とも云いようの無い自然の画が、今日はとりわけいろ具合好く現れて、毎々の事ではあるが、人をして「平凡の妙」は至る所に在るものであるということを強く感ぜしめるのである。で、思わず知らずに又州崎の方を見ると、近い州崎の遊郭の青楼の屋根など異様な形をしたのが、霞んだ海面の彼方に、草紙の画の竜宮城かなんぞのように見えて(以下略)

 

 

洲崎は明治21年(1888)に根津から遊郭が移転したそうだから、この随筆が発表された明治39年には、出来てまだ十数年の歓楽街。「遊郭の青楼の屋根など異様な形」などは間近で見るとかなりキツいものがあったと想像されますが、海上から見るとウマい具合にソフトフォーカスがかかって「草紙の画の竜宮城かなんぞのように」見えるのですね。

 

下は昭和3年 現代漫画大観「日本巡り」より引用の画像。男性が東京湾巡りをするとやはり、洲崎方面に目がいってしまうもののようです。

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玉の井と京成バス

 

永井荷風玉の井ルポ「寺じまの記」(昭和11年)を読んでいたら、「京成乗合自動車」が出ていた。

「寺じまの記」によれば浅草から玉の井に行くには二通りあって、一つは「市営乗合自動車」、もう一つは「京成乗合自動車」。「市営」か「京成」かは、それぞれ車の横腹に明記してあり、永井荷風は「京成乗合自動車」をチョイスして玉の井へ向かうのです。

 

(そういえば、先日、激しく再開発された南千住を歩いていたら、やはり京成のミニバスと都営バスが交互に走っていて、さらにショッピングモールに入っているスーパーもリブレ京成で、「ああ、このあたりは京成の勢力圏なんだなあ」と思ったことでした。ちなみに南千住から橋を渡るとすぐ「鐘ヶ淵」。「鐘ヶ淵」のとなり駅が玉の井東向島です。)

 

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下の漫画は昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」。玉の井行きの乗合自動車が全盛であると書かれています。wikiによれば、「京成」が「昭和6年に、浅草を起点に玉ノ井・四ツ木・立石周辺に路線を有していた隅田乗合自動車を買収した」とあるので、この漫画が出版された昭和3年の段階では、乗合自動車は「京成」のものではなかったと思われます。

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