佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

朝日新聞社と分離派

今和次郎の「新版 大東京案内」(ちくま学芸文庫)上巻120ページに「数寄屋橋橋畔の朝日新聞が、モダアンな分離派の様式で建築され」とあります。

 

分離派って興味があるけどよくわからない。一番最初に分離派を知ったのは、「帰ってきたウルトラマン」基地のロケ場所にもなった「長沢浄水場」。エリンギ感の強い建物でした。とりあえず、いきなりカーブがあるのが分離派、という認識で生きていきます。以下が朝日新聞社屋の参考画像と説明文です。

日独防共協定の成立 

日本劇場の前に大きなナチスの旗が掲げられていて驚いた。急に世界の渦中にあることを感じた。朝日新聞社が背景で、特に印象的であった。(昭和11年)

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「想い出の東京 師岡宏次写真集」より、「日独防共協定の成立」

こちらを拝見すると、震災復興小公園も分離派なんですって。 

木場と、水上トイレと、アニイ

今和次郎の「新版 大東京案内」(ちくま学芸文庫)上巻155ページに江東区の或るエリアは見渡す限り材木だらけ、というようなことが書かれています。以下引用。

木場とは、現在に於いて、永代橋から洲崎に向かう電車通りの深川八幡前あたりから、洲崎終点までぐらいの左側一帯の地と水面を指すので、その地帯に入って眼に入るものは道路と水路と材木屋ばかり、しかも水路一面には見わたす限り材木が組まれている。

 

この文章が書かれたのは昭和4年頃。「地と水面」という書き方が現代はわかりにくいけど、材木は水面にありましたからね。実際、昭和の航空写真を見たとき、江東区はこわいくらい水路に材木が写っており「おやおや、たくさん材木があるこの広い敷地は、きっと木場公園だな!」と思ったらハズレで、それは同じく江東区猿江恩賜公園(元・貯木場)だった…ということもありました。

 

↓これは「木場」の参考イラスト。木場というと勇み肌のアニキだらけみたいなイメージがあるけど、その他の人々も水上でしっかり生活していたわけですなあ。左の赤丸の中をご覧ください。小さくアニキが描かれています。勇み肌の兄貴連については「屋号のついた肩当てが騎士(ナイト)の盾のように光彩をそえる」と説明されていますね。イラストの右の方では裸ん坊のこどもが放尿しています。

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昭和3年 現代漫画大観

上のイラストで勇み肌の兄貴のしている「屋号のついた肩当て」が気になっていましたが、先日「宇宙人東京に現る」(昭和31年1956)というSF映画を見ていたら、肩当てをしている人たちが一瞬出てきました。ナイトのようには見えませんが、素敵です。

 

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↓この写真は戦前ではなく、昭和47年の木場です。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集より

 

インドア派のための『地形を体感する午後』(5月20日・東京都国分寺)

本屋さんには、タモリの本やスリバチの本等、地形をテーマとした本が並んでいますね!私は地図が読むのが苦手な上、ゆるい傾斜を歩くとすぐ疲れてしまうタイプなので本当に憧れの世界です。

 

そこで、畳の部屋に座っているだけで自動的に地形が体感できる、都合の良い集いを開くことにしました!

なぜ畳の部屋でソレが可能かというと、明治末期〜昭和初期、国分寺の崖線沿いにお金持ち達が地形を生かす気まんまんで別荘をたてており、今回の集い「インドア派のための『地形を体感する午後』」は、そのうちの1つ殿ヶ谷戸庭園(旧岩崎邸)内の和室を借りて行うからです!

 

会場は途中入室退室可です。数分ほど見物したあと帰るもよし、読書・昼寝・園内散策でのんびり過ごしていただくのもOK。ご参加お待ちしてます。

 

日時:平成30年5月20日(日) 13時30分から16時(途中入室退室可)

場所:殿ヶ谷戸庭園「紅葉亭(こうようてい)」公式サイト

読書会という形で予約をとっています。

注意①:会場はデリケートな古い建造物のため、お子様の参加はご遠慮ください。

注意②:園内の起伏が激しいので、散策希望の方は滑りにくい靴でお越しください。

料金:庭園の入園料が150円かかります。

ご予約:不要

 

 

持ち物:ご自分用の飲み物(アルコール不可) 。もし皆さんに見せたい地形関係の本等があったらお持ちください。私も閲覧用に少し持っていきますー。

 

写真上方にちょっと見えるのが、会場の紅葉亭です。

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以下【参考資料】水と緑のひろば71号よりf:id:NARASIGE:20180425204040p:plain

 

国分寺の崖線沿いの別荘の例

日立中央研究所(旧今村邸)

三楽の森(旧前田邸)

はけの森美術館(旧小橋邸)

滄浪泉園(旧波田野邸)

はけの森美術館(旧小橋邸)

実篤公園(旧武者小路邸)

静嘉堂文庫(旧岩崎邸)

など!

 

 

グッバイレーニンの音楽にのせて

私が才能のある映画監督ならやってみたいこと。

それは、グッバイレーニン的な音楽にのせて、広池秋子の「オンリー達」を映画化すること。

「オンリー達」は、「基地そばの下宿のオバさんは見た!」のテイで書かれている小説(小説とはいえ、地元の老人の説によれば作者の実体験に近いとか。作者イコール米兵に部屋を貸している下宿のオバさん。米兵への部屋貸しは基地の街T市では珍しくなかった)。芥川賞候補にもなったそうですよ。

敗戦間もない頃、基地の街T市を舞台に、フェンスの中の豊かさを手にしようと右往左往する人たち。特に女性の場合は一攫千金を狙うために、身を挺して!のシーンも多い。映画化にあたっては、陰惨になったり、妙に美化したり、の方向に走りそう。そこをグッとこらえて、グッバイレーニンぐらいのバランスに持っていくのだ。

 

どうしても陰惨に生臭くなるのであれば、グランドブダペストホテルみたいに、おもちゃっぽい乗り物(ケーブルカーとか)などを用い、中和を試みたい。

 

その映画が完成しても、基地の存在のお陰で超リッチになった階層の要望で、ご当地では上映されないかもしれないけどね。

【連合国軍隊ニ限ル】銀座のキャバレー

 敗戦直後、日本人客が入れないキャバレー「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」が誕生しました。場所は銀座のど真ん中。今の「GINZA SIX」(元・銀座松坂屋)の地下です。“お洒落な銀座のヒストリー”にはまず出てこない施設ですが、関連画像をいくつかご紹介します。

銀座のど真ん中「オアシス オブ ギンザ(Oasis of Ginza)」

これはアメリカの雑誌『LIFE 』1945年12月3日号。この年の8月に敗戦で、12月にはもう「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」が記事になっている!女子の頬がツヤツヤです。

A JAP-SPONSORED DANCE  IS  GIVEN  AT " OASIS OF GINZA" HALL

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『LIFE』 1945年12月3日

▽ちなみにこれは上の写真と同じ号(「LIFE」 1945年12月3日号)に出ていた東京。息をしているのか心配になるレベルの寝姿で、「オアシスオブギンザ」とのギャップがすごい。

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『LIFE』1945年12月3日

特殊慰安施設協会の「オアシスオブギンザ」

 「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」とはいったいどのような施設なのでしょうか。高見順『敗戦日記』(中公文庫)より昭和20年11月部分を引用してみますね。

11月14日 松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下に R.A.A.とある。Recreation and Amusement Associationの略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。

「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が「地下二階までは行けるんですよ」

地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼り紙があった。(略)

下階から音楽が響いてくる。栄養失調の身体を汚い国民服に包んだ日本人の群れが、空腹をかかえてうろうろしている。楽しそうな音楽も一向に気分を引き立てないようである。

昭和20年11月14日といえば、敗戦から3ヶ月。栄養失調の日本人にとって下階からひびくサウンドは、よほどの音楽好きでもキツそうです。

高見順『敗戦日記』そのままの写真を見つけました(昭和20年11月/菊池俊吉撮影)。『敗戦日記』の

松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下に R.A.A.とある

は、ズバリこれでしょう。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)に加筆

▽拡大画像。R.A.A(特殊慰安施設協会=Recreation and Amusement Association)の文字が見えます。

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▽引きで見るとこんな感じ。右の方には『敗戦日記』にでてくる「浮世絵展」の看板があり、その上には松坂屋のマークも見えます。(昭和20年11月/菊池俊吉撮影)

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『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)

「オアシスオブギンザ」のオープンを素早く告知

そして、これは「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」がもうすぐできます!という告知看板。撮影は、戦前のモダンな銀座の写真で知られる師岡宏次です。焼け野原にサッと「OPENING SOON」の看板を立てる段取りの良さよ。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集より

▽看板拡大。MASTUZAKAYA  DEPT. (松坂屋百貨店)の文字が見える。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集より

▽『想い出の東京 師岡宏次写真集』のキャプション。「500人の日本人の踊り子」って…

ダンスホール開場」 銀座松坂屋の地下室が焼け残った。そこは進駐軍専用のダンスホールになり、焼け野原に看板が立った。

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「想い出の東京」 師岡宏次写真集

銀座が焼け野原なのに「Oasis Of Ginza」はオープンしていた

 敗戦直後「オアシス オブ ギンザ」がいち早くオープンした写真を見ると、「なるほど!銀座の復興はサクサクすすんでいたのだな」と、つい錯覚しそうになりますよね。

 ところが銀座はまだメチャクチャなのでした。たとえばこれは高見順『敗戦日記』と同時期(昭和20年11月)に撮影された銀座4丁目交差点。中央に和光、右に見えるのは黒コゲの銀座三越です。「オアシスオブギンザ」の開店がいかに素早いかがわかります。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)に加筆

【参考】焼けた歌舞伎座明治座は、再開するまでに5年もかかったんですよ。

narasige.hatenablog.com

素早い“防波堤”の準備

 なぜ、街が壊滅状態なのに「オアシスオブギンザ」は素早くオープンしたのでしょうか?その理由が、小沢昭一のインタビュー集『色の道 商売往来』からうかがえます。この本は小沢昭一がRAA(特殊慰安施設協会)の創立メンバーから、各地に用意された“施設”について直接聞き出しているのです。

「 政府自体も大陸で身に覚えがありましょう。(略) 自分がやっていたことを、必ず向こうにもやられるだろうと想像した。」

なるほどね…

色の道商売往来―平身傾聴・裏街道戦後史 (ちくま文庫)

 以上、“お洒落な銀座のヒストリー”にはまず出てこない施設「オアシスオブギンザ(Oasis of Ginza)」を紹介しました。同様に、あまり知られていない銀座の施設として「東京温泉」があります。こちらもぜひあわせてご覧ください。

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獅子文六『青春怪談』の時代

お墓で恋をはぐくむ 「青春怪談」(獅子文六

 獅子文六の『青春怪談』(昭和29)が、ちくま文庫から復刊されましたね。山崎まどかさんの愛にあふれた解説が「ちくまweb」で読めます。その中で山崎さんは「青春怪談」の「胸がキュンとなるようなロケーション」として“向島百花園の萩のトンネル”をあげていらっしゃいました。

  私は、お花や庭園にうといので(笑)、キュンとするロケーションとして「多磨墓地」をおすすめしたい。

『青春怪談』では、多磨墓地に墓参にきた中年男女が偶然鉢合わせ、そこから恋が加速するんですよ。ではなぜ、よりによって「墓地」が恋の舞台なのでしょうか?その理由を考えてみたいと思います。

①『青春怪談』の多磨墓地は、裕福な時代が冷凍保存されているから

多磨墓地が恋愛の舞台になった理由の1つは、おそらくその贅沢さにあります。『青春怪談』の中で、多磨墓地は

日本が少しは裕福だった時代に、造られた墓地だけあって、規模が大きく、設計が行き届いていた

と説明されている。『青春怪談』の純情中年カップルは、戦前の恵まれた階級で育っているから、「日本が少しは裕福だった時代」につくられた施設と、相性がいいはずです。(当時の日本の“裕福さ”が何の上に成り立っていたかは、今はいったんおいておくとして。)

 「いやいや、“日本が少しは裕福だった時代を思わせる場所”なんて、ほかに沢山あるでしょう?墓である必要はないよね?」と思われるかもしれません。

 しかし、敗戦後しばらくの期間、都心の施設は、立派なら立派なほど進駐軍に接収されていました。当然、その周辺には豊かさの分け前を求める人々も群がります。

 つまり「立派な施設=ピリピリとした施設」みたいな傾向があったわけです。 『青春怪談』が書かれたのは昭和29年。敗戦から10年近くたったとはいえ、まだ接収されたままの場所(日比谷の宝塚劇場・築地の聖路加病院など)も残っていました。

 なまじ戦前を知っている中年にとって、敗戦後の都会は、なにかと雑音が多い場所だったことが考えられます。

▽たとえば、これは『青春怪談』より少し前の昭和27年、銀座4丁目交差点。右側のすすけた建物は「三越」。奥の「松屋」は接収されて「TOKYO PX」。画面手前には、進駐軍用の標識、とまあ、ゴチャついているわけです。Tokyo Ginza, 1952 | Photographer: Captain John Randolph Coup… | Flickr

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青山墓地ではなく、多磨墓地が選ばれた理由

 雑味の多い都心にくらべ、郊外の多磨墓地は戦後のゴタゴタを(比較的)連想させません。意外にも恋愛の舞台にぴったりといえるでしょう*1

一方、同じお墓でも青山墓地は、近隣施設が接収されていたからアウトでしょうねー。早川良一郎のエッセイ『散歩が仕事』によれば

戦後青山墓地ジープが駐車し、米兵と日本女性の密会場になっていた

そうですから。

②多磨墓地は“最新型”だったから

 昔のお墓は、ジメッとしてオバケが出そう。でも、多磨墓地はちがいます。日本初の公園墓地で、湿気もすくなめ。『青春怪談』に描かれた多磨墓地の様子はとっても明るいのです。

中央の大道路は、見上げるような赤松の林立と、鐘楼風の噴水塔が、墓地というより公園へきた印象を与えた

ヒロインの蝶子(アラフィフ)は、亡夫の墓参りをするときにに、多磨墓地の「大道路」を歩くのが大好きという設定なんです。

▽噴水を右に曲がると、蝶子さんの亡夫の墓があります。

 ▼平面図はこんな感じ。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282291-00より

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上書きされる前の東京で、青春を取り戻す

 現代人にとっての多磨墓地は、大正12年開園の伝統ある場所ですが、『青春怪談』の昭和29年からみれば、開演から約32年しかたっていません。 お若い方には想像しにくいかもしれませんが、中高年にとって30年前は、“つい最近”です。

『青春怪談』の純情中年カップルにしてみれば、多磨墓地は、“この間オープンしたばかりの、斬新な施設”といえるでしょう。

 『青春怪談』に登場する若者たちは、新橋や渋谷など、雑味の多い街を平気で歩くことができますが、戦前の都会を知っている中年はそうもいかないはず。自分たちが青春を過ごした街が、復興途中にヘンテコな上書きをされているのですから。獅子文六も敗戦後の東京を「田舎酌婦の化粧のよう」*2と嘆いているし。

そんなわけで、敗戦国の中年カップルにとって、戦前の豊かさを残した郊外墓地は、けっこう恋愛むきのロケーションだったりするのです。


 ▽美しい建造物に、変てこな上書きが加えられた例:有楽町「日劇

narasige.hatenablog.com

▽「青春怪談」の書かれた昭和29年の聖路加病院には、まだ星条旗がひるがえっていました

narasige.hatenablog.com

▽「青春怪談」が書かれた昭和29年、宝塚劇場はまだ接収されていました

narasige.hatenablog.com

 

*1:厳密にいえば多磨墓地の周辺にも、接収された「調布飛行場」がありますが、墓参にはあまり影響がなかったと考えられます。

*2:昭和27年頃のエッセイ『復興見物』

万年筆

私は字を書くのが苦手です。だから手帖も使いません。

しかし万年筆なら、ある程度うまうく書けるのです。

うまい字が書けると生活の質があがる。

そして自分を愛せる感が高まるのです。

万年筆は高いものでなくてもOKです。

1,000円程度で買えるパイロットの「カクノ」(写真)や、ラミーでじゅうぶん。

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万年筆によって私自身のQOL(生活の質)がグッと上がったので、老母にパイロットの「カクノ」を与えてみました。

するとビックリ。

母は「万年筆使うの50年ぶり。」といいながら「カクノ」で、昔と変わらぬしっかりとした字と、正しい言葉使いの手紙を書いてよこしたのです。母は80歳代で体もかなり不自由です。しかし「書く」「言葉を選ぶ」という機能に関しては意外なほど好調なことが筆跡からうかがえました。

 

私は年寄り相手の窓口業務で、震える筆跡をたくさん見てきたから、母の字がしっかりしていることには余計に驚きましたね。

 

母は長いことウツなので、体調の悪い時はいかにも具合悪そうな小さな字をエンピツで書いていたのです。万年筆を使うことによって、自分がまだカッコいい字を書けることを発見したのでしょう。「笑顔を作ると幸せになるのさ」的な理論がありますが、のびのびした字が書ける自分はまだイケる!(同世代はどんどんあの世に行くけど!)と感じているのかもしれません。

あまり話し合わない親娘なので推測のみで書いてますが、たぶん合ってますよ。

 

 

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