晴海で国際見本市

昭15年に幻の万博の予定地だった晴海は、終戦をはさみ、昭30年春に国際見本市会場(いまの有明ビックサイトみたいなもの)が出来ています。

……………
今書いてみてギョッとしたのですが、戦争で中断した幻の万博(昭和15年)から、モーターショーとか開かれちゃう国際見本市オープン(昭和30年)までわずか15年なんですね。この間、日本はまるで別の世界になっておるなあ。
……………

ところで三島由紀夫の「鏡子の家」には、国際見本市のきっかり1年前の晴海がでてきます。昭29年4月という設定。かつての晴海には日本人立ち入り禁止のエリアがありました。(関連話題・昭和28年に接収解除された晴海の小学校→□

見渡すかぎり平坦な荒野が青く、ひろい碁盤の目の舗装道路がこれを画していた。海風は頬をうった。俊吉は、米軍施設のはずれにある滑走路の、立ち入り禁止の札を目印に車をとめた。かなた米軍の宿舎のかたわらには数本のポプラが輝いていた。

で、この「立ち入り禁止の札」シーンから1年後に見本市が開かれ、2週間で46万5000人が訪れた……と。会場の工期はわずか4ヶ月だったそうです。(東京国際見本市協会 「40年のあゆみ」)

…ん??

国際見本市の時、晴海における「日本人立ち入り禁止」エリアは、どうなっていたのでしょう。すでに解決していたのでしょうか↓

1957年(昭和32年)、晴海高層アパートに入居した人の話しによると

ぼくはねえ、前川国男の建てたアパートに住んで、前川国男の建てた東京海上の社屋まで、毎日歩いて通っていたわけですよ。そうそう、セスナ機が通信筒を落とすと、アメリカ兵がさっとそれを広いあげて皇居前のGHQ本部へオートバイで運ぶ光景をよく見かけました。いや、その頃は講和条約のあとだからGHQという名前ではなかったかな。ISBN:4087470520

昭和32年でコレということは、昭和30年、見本市が開催されている時も、晴海の1部には「立ち入り禁止の札」があったり、飛行機が飛んでいたりしたのかなあ。


■ついでに、当時、晴海に住んでいた人達の座談会から抜粋。みなさん思い出すままにしゃべっているので正確な年はわからないのですが、大体、終戦から昭和30年前半にかけての話です。

昭和32年頃(1957)、店舗をはじめたときも、交差点の向こうは進駐軍がいまして、店から見ると、飛行機が降りてくるんです。アメリカの連絡機などです。



進駐軍が接収していまして、真ん中は滑走路になっていたんです。セスナみたいな小さな飛行機が年中あがったり、おりたりしていました。


晴海の、今の豊海よりのあの一角が、全部接収されていたんですね。日本倉庫のところにも(進駐軍が)いたし、3号地(※今の勝ちどき5.6丁目)にもいましたからすごかったですよ。


昭和20年代、今のホテル浦島のある交差点から東の方(春海橋の方)に向かって滑走路がありまして、アメリカ軍の連絡用の飛行機がよく来ていました。


晴海は畑ばかりでしたね。今の黎明橋を渡ってトリトンが出来ているあの界隈は、ずっと全部畑でしたからね。

中央区教育委員会中央区の昔を語る」平成13年の座談会より)

画像は、Japan trade fairで検索したら出てきたもの。ちょっと違うかもしれないけど、可愛いのでのせました。