佐藤いぬこのブログ

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明治座の復興と力道山

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歌舞伎座VS明治座の復興合戦

明治座歌舞伎座はどちらも空襲を受け、敗戦から5年は閉じていました。そして"どちらが先に再開できるか"を競っていたのだとか。明治座の復興にあたっては、意外にもデビュー前の「力道山」が活躍していたのです。私はそのエピソードを『多摩川の砂利採取と人びと』(立川市教育委員会)で知りました。今日はその時代についてご紹介しましょう。

ハーレーでガソリンを運ぶ力道山

明治座の復興にあたったのは人形町の「新田組」。その頃の力道山はレスラーとしてデビューする前で、新田組の「用心棒的存在」にすぎませんでした。

さて、空襲で壊れた建物の再開には大量の砂利が必要です。砂利は東京の西方(多摩川)でとれたものを、立川の砂利採取業者がせっせと「明治座」まで運んでいました。 なぜわざわざ立川の業者に頼んだのか?その理由を「新田組」の社長はこう語っています。

「東京中の砂利業者にお願いしたのだが全てけられてしまったのだよ、何しろ天下の歌舞伎座と競争するのだから」
(『多摩川の砂利採取と人びと』より)

ただし、凄まじくガソリンが不足している時代のこと、砂利を運ぶこと自体がメチャクチャ大変なのです。立川を出発したトラックはガス欠を繰り返し、いつも新宿あたりでエンコ。なかなか明治座中央区)までたどりつけません。
▽イメージ図を作ってみました。
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そんな時、「新田組」の用心棒・力道山が、オートバイでガソリン補給にかけつけるのです!

途中何度も、ガス欠をしたものであるが、その都度新田組に電話をかけて頼むと、力道山があの大きな体で単車のハーレーでかけつけて呉れたものである。サングラスをかけオートバイの後尾に5ガロン缶をつけて一目散に来てくれるのである。笑いながら「よく遠いところ来てくれた。もう少しだから頑張れよ」と運転手の肩をたたくのである。疲労もその瞬間ふっ飛んだ。

力道山の笑顔を見たトラック運転手は、どんなに心強かったことでしょう。(こんな時のガソリンの単位は、やっぱりガロンがいいなあ。)

力道山と立川基地とプロレス

力道山の活躍のおかげか、明治座歌舞伎座より1ヶ月早く昭和25年(1950)12月オープン。人形町の新田組は、世間から「たいしたものだ、あれだけ明治座を復興したんだ、ということで信用を得て」今度は立川基地の進駐軍の仕事を「うんと取った」。
すると、新田組の用心棒・力道山も、立川に現場監督としてやってくるわけです。

基地の仕事をとるたんびに、私のところから砂利、砂を入れたんだけど、そうするとその監督をするのが力道山なんですよ。それで進駐軍の兵隊がプロレスをやっているのを見ていて、「あんなことならおれの方が強いや」ということで、プロレスをはじめたわけだ。それで、基地の中でプロレスをやって、あれは元相撲取りで、暴れん坊だったから、アメちゃんがかかってきたって力道山にはかなわないわけだ。それでプロモーターが「じゃあアメリカに行って修行したらどうだ」ということになった。

力道山の誕生エピソードは諸説ありそうですね…。 しかし『多摩川の砂利採取と人びと』では、力道山誕生の場所=「立川基地」。私は戦後の復興をイメージする時に、いつもハーレイに乗った力道山を思い浮かべています。
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