歌舞伎座vs明治座、力道山とガロン

敗戦間もない頃、明治座が復興する時に、力道山が活躍したという話*1を読みました。(歌舞伎座明治座は、復興の速さを競っていたらしい。)

明治座の復興にあたったのは、人形町の「組」……で、その頃の力道山(元相撲取り)は「組」の用心棒的存在でしかなかったそう。


明治座の復興にあたり大量の砂利が必要となったわけですが、その砂利は東京の西方、多摩川の河原で採れたものを、立川の砂利採取業者が明治座へせっせと運んでいました。



ただし、凄まじくガソリンが不足している時代です。砂利を積んで立川を出発したトラックは頻繁にガス欠を繰り返し、いつも四谷新宿あたりでエンコ。なかなか明治座の現場までたどりつけません。



そんな時、用心棒の力道山はオートバイ(ハーレイ)の後ろに5ガロン缶をつけ、一目散にガソリン補給にかけつけてくれたのだそうです。大きな体にサングラスをかけて、笑顔で。
この時の単位は、ガロン!がピッタリですよね−。よく知らないけど。(ガロンという単位の使い方については、ナンシー関「小さなスナック」の「なんでマイルやねん」の項参照)




その甲斐あってか、明治座歌舞伎座より1ヶ月早く昭和25年(1950)12月オープン!
人形町の「組」は世間から「たいしたものだ、あれだけ明治座を復興したんだ、ということで信用を得て」今度は立川基地の進駐軍の仕事を「うんと取った」。
したがって力道山も立川に来るようになった。
そして、そして‥‥

基地の仕事をとるたんびに、私のところから砂利、砂を入れたんだけど、そうするとその監督をするのが力道山なんですよ。
それで進駐軍の兵隊がプロレスをやっているのを見ていて、「あんなことならおれの方が強いや」ということで、プロレスをはじめたわけだ。それで、基地の中でプロレスをやって、あれは元相撲取りで、暴れん坊だったから、アメちゃんがかかってきたって力道山にはかなわないわけだ。それでプロモーターが「じゃあアメリカに行って修行したらどうだ」ということになった。

このあたりは諸説ありそうですが、とりあえずこの本ではこうなっていました。


(画像は、1953年、昭和28年の歌舞伎座【拡大画像】

*1:「多摩川の砂利採取と人びと」砂利業者の人の思い出話が、しゃべり言葉のままで載っている本。 http://www.city.tachikawa.tokyo.jp/jp/municipality/shuppan/01.html