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スクールバス 外から見るか?内から見るか?

敗戦から5年の昭和25年(1950)の「装苑」に、アメリカン・スクールのファッションを参考にしようという特集がありました。


敗戦国の国民にとって、戦勝国の少年少女の何気ない装いがどれだけ輝いて見えたかが、痛いほどわかる特集です。



この雑誌には同時に、当時の日本のオシャレ業界人の座談会も掲載されているのですが・・・

「純綿のものは正常なルートから入りません。」
「純綿のものなんかどこを探してもなかった。ヤミで買えばありますが」


って、オシャレ業界人の話題が、服のデザインだの着こなし云々ではなく、純綿がスゴイ!という話題になっているんですよね・・・・。


なんといっても昭和20年の宝くじの副賞が「純綿の生地」で、ないない尽くしの庶民が飛びついていた*1くらいですから。



スクールバスの胴体に、GHQの文字が見えます。



(これはflickrから拝借した数寄屋橋交差点の画像ですが、GHQの文字の入ったスクールバスが走っています。拡大画像はこちら


■さて、そんな時代の日本をアメリカンスクールのバスの内側から描いた文→□があります。


筆者は敗戦間もない日本でハーフとして生まれ、代々木のワシントンハイツの学校に通った女性。


彼女は、 GIと基地周辺歓楽街の女性の組み合わせから大量に生まれた、父親不明の「敗戦の落とし子」ではないものの、「基地の学校へ行くチョコレート色のバスの中で、自分の全身からも言葉からも日本風の痕跡をすべて消してしまおうと必死になっていた」そうです。


以下抜粋。

毎日、チョコレート色のバスが、基地外に住む子供たちを広々としたハイツに連れてきた。(中略)


バスの中でのおしゃべりには、大佐、中尉、少佐などの言葉がとびかったが、父がアメリカの軍属文官だった私には、いっこうにピンとこなかった。


でもその私にもまちがいなく理解できたのは、基地からメイド付きの清潔な家に帰るまでの途中の一帯は、バイキンのうようよしているところだという点だった。


サマー・スクールのころ、バスのタイヤがパンクして、うだる暑さのなかで待たされた時も、「この土地の(※「この土地」の部分に、ネイティヴというルビがふってあります)」水を飲むくらいならと、みんなじっと我慢したものだ。


いつもバスから降りる私を迎えにきてくれたのは、祖母だった。三メートルもない道路を横切れば、もう家の門だったのに。まぎれもなく「この土地の」女と、ひと目見ればわかる祖母が、これまたまぎれもない「この土地」ふうの家に、私の手を引いてかえろうと待っている。私はバス仲間にどう説明したのだろう。
メイド・・・・私のメイドよ、と。
それとも知らん顔で、バスが土埃の中に消えるのを待ってから、道を渡って、門をくぐったのか。

*1:昭和史戦後編 半藤一利 88頁