昭和初期の漫画エッセイ*1を見ていたら、浦安について「深川の高橋から1時間で行けるところに、こんな東京臭のない漁師町がある」と書いてありました。
上のイラストが、その、東京臭のない浦安です。
深川の高橋って、今でいうと新宿線の森下か半蔵門線の清澄白河が最寄りになると思うのですが、地下鉄のない時代どうやって浦安にいっていたんだろう?
と調べてみたら、川を使って東へ東へと行っていたんですね!
川といっても人工の川、小名木川。
徳川家康が作ったという、思いっきりまっすぐに東西に伸びている川。
深川の高橋から浦安までの航路は、こちらのサイトに非常に詳しく出ていまして、「高橋〜扇橋〜小名木川橋〜進開橋〜丸八橋〜草屋〜西船堀〜南船堀〜宇喜田〜栗渡〜東船堀〜三角〜桑川〜新川口〜長島〜雷〜浦安〜一軒屋〜今井〜欠真間〜湊〜富士製紙前〜行徳」と行ったそうです。
以下は、浦安市のサイトより
大正8(1919)年、通運丸に代わって東京通船株式会社が経営する定期船が深川から就航するようになり、浦安の人はこの定期船を通船と呼びました。通船は行徳から浦安、葛西の発着所に寄港し、新川口から運河に入り高橋(現江東区高橋)の汽船発着所まで運行していました。
また、その後まもなく、葛飾汽船会社が葛飾丸という16、17トンの小型の定期船を使って、高橋・浦安間を昇降するようになり、通船とともに、東京方面へ通学する学生や行商に行く人に長く利用されましたが、乗合バスが発達してきたため、いずれも戦前に廃止されました。
昔の人のジョルダンには、水路で移動する最短コースが乗っていたかもしれません!
▪️芥川龍之介も水路ジョルダンの子だったと思う。
芥川は、水路沿いの両国高校出身(小名木川と平行している「竪川」のそばのエリート高校。竪川は今は高速道路で、高架下は錦糸町河内音頭の会場になってる)。「河童」という小説で、河童に、東京は堀がいっぱいあるから河童は楽に移動できますよー、みたいなことを言わせていました!
*1:「現代漫画大観 日本巡り」昭和3年