佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

向島の大倉喜八郎別邸・その後

 高見順「敗戦日誌」には、敗戦の年(昭和20年)10月1日の日記に、向島の大倉別邸(wiki)が、進駐軍慰安所になったという記載があります。 

十月一日
三木清が獄死した。殺されたのだ!
墨堤の大倉別邸が進駐軍慰安所になる。
一度暇を見て向島の移り変わりを見に行かねばなるまい。

 

墨堤の大倉別邸とは、大倉喜八郎別邸のこと。

 

参考画像:大倉喜八郎が、憧れの成功者だったことを示す漫画(昭和3年

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私は何年か前、墨堤の大倉別邸がなぜか千葉県の船橋に移築されているのをネットで知り、見に行ったものでした。

道路の向かいは「ららぽーと」、背景は団地群、といった環境の中、唐突に大倉別邸喜翁閣が立っていて違和感がすごかった!

大倉別邸は某ホテルの敷地内にあるのですが、この建物の由来を説明する掲示物等は無く、雨戸も閉められた状態なのです。こんなに立派な建物を説明する掲示物が無いなんて…やはり敗戦直後のアレコレがあるから、冷遇されているのかなって思っておりました。

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↑大倉別邸 

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↑隣接する団地

 

 

それから数年たち、ふと、墨田区の観光案内を見ていたらマップの中に「大倉喜八郎別邸跡」というのがドーン!と紹介されているじゃありませんか。写真はなく「財閥を築いた大倉喜八郎が、明治43年に建てた別荘。現在は千葉県船橋市に移築。と文章が記載されているだけですが。

 

大倉喜八郎別邸が、船橋で冷遇(?)されているのを見た私としては、【元々建っていた場所である向島】にも痕跡は残っているわけはない、と思い込んでいました。しかし観光マップに堂々と出ているとなれば話は違います。何かしら残っているはず。きっと区の石碑(文化の散歩道的な?)があったり、関連企業がこしらえた記念碑があるのかも?と予想していたのです。しかし、行ってみるとそれは大きく裏切られました。

 

解体前の倉庫の草ボーボーの植え込みに、経年劣化でほとんど読めない大倉喜八郎別邸跡」というプレートがあるだけ。かなり寂しい状況だったのです。しかもプレートを書いた主はその倉庫会社というテイになっていて、墨田区や大倉氏関連の企業が関わった形跡は無し。やはり敗戦時の出来事の余波が、堂々とした記念碑を作らせないのでしょうか。

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別邸跡に立つ倉庫の解体を示す看板

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参考資料1「色の道商売往来」より、小沢昭一と、RAA関係者の対談(昭和40年代)

[小沢] マッカーサーの名前が出ましたが、進駐軍の高官の接待、これもいろいろご苦労があったと思いますが・・・・

[鏑木] そのために大倉別邸を手に入れたわけです。大倉さんの別荘には、有名な陛下がおいでになった部屋がありますね。あの部屋に、マッカーサーをはじめホイットニー中将をの他をよんだわけです。

[小沢]そういうご連中にご婦人は・・・・

[鏑木]やっぱり施設の若いコです。

[小沢]と、GIのあとから司令官が抱くというわけですか。

[鏑木]そういう点、アメリカは平等ですな(笑

[小沢]しろうとのお嬢さんを世話しろなんて、おねだりはありませんでしたか。

[鏑木]おねだりもありました。ただ日本の女は毛唐崇拝の念が強いから、案外こっちは苦労しないで喜んでいきましたね。

[小沢]あのころ、RAAの女性の平均年齢はいくつくらいでしたか。

[鏑木]22.3でしょうね。

[小沢]その方達は今生きていれば、50近い。当時のカネで相当ためた女もいるでしょうね。

[鏑木]ためた女は少ないです。

[小沢]あれで稼いだ金ってどうしてたまらないんですかね。

[鏑木]やっぱり荒稼ぎというんでしょうね。地道な稼ぎ方じゃないから・・・・・。

 

参考資料2 墨田区図書館ニュースより抜粋

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