佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

戦前/戦中の洋裁学校

東京都中央区が出している中央区の女性史」は、いろいろな立場の方の聞き取り集。とっても内容が濃いのです。その中から、洋裁学校(ドレスメーカー女学院)に通っていた秋元さんの話を紹介します。

街娼のドレスを縫う

日米開戦の年(昭和16)、秋元さんは「ドレスメーカー女学院」に入学しました。お嬢さま育ちの秋元さんですが、その時身につけた洋裁の技術で戦中戦後をのりきったのです。敗戦直後は「街娼」のドレスまで縫ったとか。

戦後は、銀座8丁目あたりにも、赤いハンカチか何かをぶらさげて、進駐軍相手の街娼をしてた人が住んでいたんですよ。昼でも松坂屋の近くに行くと3人くらい1人の男の人にくっついてダンスホールやキャバレーに行っていて。

 

ああ、ああいう人もいるんだなあって思いながら見ていました。ダンスホールに行くんだから明日までに縫ってほしいなんて言われて、洋服を夜中の2時3時まで縫いました。

 

注文は直接じゃなくて、第三者から頼まれるんです。でも、そういう人に着せるからって特別な思いはなかったですね。お金が欲しかった。夢中で縫いました。(「中央区の女性史」より"好きな洋裁で身を立てる")

松坂屋の近くに行くと3人くらい1人の男の人にくっついて」とサラッと言っていますが、実はここがポイント。松坂屋の地下には進駐軍用のダンスホールがあったのです。こちらの記事もあわせてご覧ください。

narasige.hatenablog.com

洋裁学校に布がなかった時代

秋元さんが洋裁学校に学んだ時期(昭和16〜17)は、物資不足でまともな授業を受けられませんでした。本当に気の毒なタイミング!

院長先生直々に仮縫いなんか教えてくださったんです。ですけど、布がないのに洋服作りましょうっておっしゃってもね。やっとそこら辺で買ってきて。あれ、昔でいうスフです仮縫いをしているとそこからどんどん破れてきちゃって。そんな思いをして、おしまいには紙でつくりました。新聞紙とか。


 ドレメで学んだのは1年半とはいっても、まともな授業ができたのは少なくて。学校のもののほかに軍人さんの服、ショートパンツを何十枚って割り当てられて縫いました。軍隊ですからね、1枚の糸の長さまで決まっていて、何月何日までに持って来いって。(略)

 

夜は電気をつけると焼夷弾を落とされちゃうからつけちゃいけないでしょ。だから電気をつけないで、暗い中縫ったんです。一番悲しかったのはね、服を運んで行った船が東京湾を出たとたんに潜水艦にやられて沈んでしまって、もう一度縫い直しって。実は、確か赤羽のほうの工場に兵隊さんの肩につける章を縫いに通いましたね。(「中央区の女性史」より"好きな洋裁で身を立てる")

“「スフ」は仮縫いの時にどんどん破れる”‥‥悲しいですね。

▽「スフ」については、こちらを。昭和13年頃は、まだ「スフ」をギャグに使う余裕がありました。
narasige.hatenablog.com

参考:華やかだった頃のドレスメーカー女学院

ここで戦前と戦中を比べてみましょう。昭和11年のドレスメーカー女学院を取り上げた記事です。秋元さんが入学するたった数年前のことですが、まだ布もたっぷり!生徒たちは「動くスタイルブック」として、華やかに紹されています。

自分の趣味から、また将来の自活の道にもと洋裁学校に通う娘さんの数が、近来急激に増加してきました。写真は東京目黒のドレスメーカー女学院の生徒さん達が、自裁の洋服を着て、めいめい趣味とデザインを誇る手軽な洋装のア・ラ・モード自裁自着の動くスタイル・ブックであります。

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「ホームライフ」(昭和11年8月)

わずか数年の差が、大きな違いになる時代。昭和11年に「動くスタイルブック」として輝いていた生徒たちは、まさか数年後の後輩が「新聞紙」を縫うハメになるとは夢にも思わなかったことでしょう。

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