佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

駅弁売りが隠れる時代(宮脇俊三『時刻表昭和史』より)

戦時中の駅弁売り

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「浮かれているように、駅売駆け歩き」(宮尾しげを「現代漫画大観・川柳漫画」昭和3年より)

 

昭和3年の駅弁は、浮かれているような動作で売られていたのですね。

 しかし戦争が激しくなってくると、駅弁売りは柱の陰に隠れていたそうです。隠れる理由を以下、増補版 時刻表昭和史 (角川ソフィア文庫)より、引用します。

当時刻表の駅名の上に駅弁販売駅を示す「弁」のマークはついていても、売子の姿が見当たらないのである。

当時の駅弁売りは、声をあげてホームを行ったり来たりはしなかった。むしろ、人目につかぬよう待合室や柱の陰にひそんでいることが多かった。客に見つかると群がり集まってきて、われ先にと駅弁をつかみ、収拾がつかなくなるからであった。

それは商売というよりは建前としてやむをえず売らされている、という感じであった。事実そうであったろう。駅弁業者には米が特配されていたから、その権利を維持するためには、形ばかりでも駅頭で売らなければならないからであった。

そういう駅弁であったから、窓からではまず買えなかった。駅につくやいなや急いでホームに降りて、後ずさりする駅弁屋めがけて突進しなければならない。けれども一人旅ではそれはできなかった。その間に網棚の荷物を盗まれる心配があった。

 駅弁屋が後ずさり、って! みんながどれだけ殺気立っていたのか…

コロナ禍でマスクに群がった人

 新型コロナでマスクが不足していた時期に、"駅弁屋の後ずさり"を連想させるツイートを見かけました。舞台はコストコ

コストコ で、マスクをカートに入れている客を見かけた。スタッフにマスク売り場をたずねたら、奥の部屋からマスクをソッと渡された 

みたいなツイートです。現在そこはマスクが大量に入荷しているようで、とりあえず、めでたしめでたし。

いやはや、コロナ禍を体験したことによって、戦中のエピソードが臨場感をもってせまってくるようになりましたね… 

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若い女性の集団と「水兵さん」「在郷軍人さん」

昭和12年7月号のホームライフ 。この号は、若い女性の集団と「水兵さん」「在郷軍人さん」が一緒にうつっている特集が2つ。(この雑誌を何冊か持っていますが、その前の号までそういう特集は見かけませんでした。とにかく、お花がきれい・お庭がきれい・ハイキング楽しい、みたいな浮世離れした記事ばかり)

 

1つ目。大阪割烹学校の生徒達が、「軍艦生活」を体験する記事です。

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「36センチ巨砲を見上げる」

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まア、巨砲ね…!!(と言っているのかどうか…)

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軍艦気分を満喫した」

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水兵さんと一緒に食器洗い

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水兵さんからイカリの説明を聞く」

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2つ目。同じ号の別記事です。在郷軍人さん」から松竹少女歌劇が軍国的訓練を受けるというもの。

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男役の少女達なので背が高い。中央に在郷軍人さん」。

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ちなみに同じ号の巻頭特集は「近衛新内閣」でした。中央はヒットラーに扮した近衛公。説明文には、「和気あふるる新宰相の家」とあります。

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関東大震災前の地図で、タイムトラベル

大正7年(1918)の観光地図

f:id:NARASIGE:20200531184430j:plainこれは、大正7年(1918)の観光地図だそうです。

flickrより

築地市場がないのに、万世橋はある地図

はじめ見たとき「ああ、敗戦後に作られた進駐軍用の観光マップね」と思いました。しかし拡大してよく見ると「あれ、晴海がない!ん…?築地市場もない!勝どき橋もない…。?待って待って!これ、関東大震災前の地図だ!」と、びっくりしたものです。

 

この地図は「築地市場がない!」「万世橋駅がある!」など、当然あるはずのものが無かったり、今は無いものが現役だったりする。いろいろな「ある!」「無い!」を探して遊ぶと面白いですね。

 

そりゃあ、日本語の地図のほうが詳しいのでしょうけれど、日本語だと「牛込区」等の「区」の字が難しい「區」だったりして、とっつきにくい。でも、英字なら逆に読みやすいし、「オー、小石川ボタニカルガーデンーね!」と異国の旅人気分になれるのです。

新宿と新大久保 

拡大してみると、新宿が見切れそう!新宿、冷遇されてます。

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獅子文六のエッセイ「ちんちん電車」に、

新宿なぞは、市外であり、場末の代表であって、東京人は大久保のツツジでも見学する時でなければ、そんな線へ乗ることもなかったろう

とあるのを読んだ時は、「新宿が場末の代表って、言い過ぎじゃないかなあ」と思ったけれど、この地図の新宿の扱いをみれば納得です。そして新大久保にはちゃんと「大久保のツツジ」=「AZALEA  GARDEN」が載っている。

 東京駅周辺

東京駅構内に、JTBJapan Tourist Bureauオフィスが!

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 築地周辺

築地周辺。築地市場無し(まだ海軍の敷地)。勝どき橋無し。立教(セントポールスクール)と聖路加病院と、歌舞伎座はあり!

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この地図、flickrにログインすれば、かなり拡大できます。自粛期間中に、ぜひ無料の時間旅行を楽しんでください。

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ブルーインパルス、陸軍戸山学校軍楽隊

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小津映画と、ブルーインパルス

河野大臣とブルーインパルスについて、賛否両論が巻き起こっていましたね。

www.asahi.com

ブルーインパルス」で検索していたら、行進曲「ブルーインパルス」があることを知りました。作曲者・斎藤高順は、小津映画の音楽(「東京物語」「秋刀魚の味」など)を手がけていたとか。吹奏楽に縁のない私は、聞いてビックリ。東京物語の曲調と全然違う!

www.youtube.com

 

 軍楽隊は、東京大空襲の直後にもパレード していた!

行進曲「ブルーインパルス」の作曲者・斎藤高順は、芥川也寸志團伊玖磨と同じく陸軍戸山学校出身。その軍楽隊は、なんと東京大空襲の直後にも、人々を鼓舞するためにパレードをしていたのだとか!!

news every.-「ミンナが、生きやすく」より。

1945年3月10日、東京大空襲の日。

実はこの日は「陸軍記念日」で

軍楽隊は毎年恒例のパレードを都心で行う予定にしていました。

しかしその日の未明に、東京への大空襲があり、

下町を中心に東京は焼け野原となったのです。

果たしてこんな状況でパレードをしていいのか。

軍楽隊のメンバーは躊躇したといいます。

「とにかく陸軍省にお伺いを立てようと聞いてみたら、

『士気を鼓舞するためにやれ』という命令が下って。

パレードに出ると、道が消防の水でびしょびしょに濡れている

状態だったのを覚えています」


大空襲直後、町は焼け野原となりましたが、

軍楽隊は人々の沈んだ気持ちを鼓舞するために、

靖国神社を出発し、神田、日本橋、銀座など街なかを

3時間休むことなく行進しました。

「人々の沈んだ気持ちを鼓舞するため」って、音楽のパワーにも限界がありますよ!?と言いたくなります。

陸軍戸山学校音楽隊と「軍国のリズム」

ちなみに、こちらは手持ちの雑誌にあった陸軍戸山学校軍楽隊の記事(「ホームライフ」昭和12年11月号)。日中戦争勃発から間も無い頃なので、「軍国のリズム」というタイトルが“勇ましい・たのもしい”というニュアンスで使われています。

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時局下の緊張と興奮を美しい戦時交響曲に高めてゐる

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(音楽の力を重視しているといえば、マッドマックス。こちらの音楽隊も「時局下の緊張と興奮を美しい戦時交響曲に高めてゐる」のでしょうか?)

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伊勢丹の近くで軍楽隊がパレードしていた時代

私の母は幼い頃、陸軍戸山学校の近くに住んでいました。なので新宿伊勢丹近くで軍楽隊を見たんですよ。(戸山学校と伊勢丹は、すぐそば)。その記憶スケッチがこちら。裏面のメモには「軍隊が時々、月に一度位、ザックザックと通る。軍楽隊も交えて沢山の兵隊さんがパレードを行う。壮観なものだった」とありました。

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母は「画力がなくて」と嘆いていましたが、まあ雰囲気は伝わってきます(笑)

ピクニックat戸山ヶ原

そうそう、吉屋信子の短編『女の子』(小さき花々 /河出文庫収録)にも、陸軍戸山学校のある「戸山ヶ原」が登場していました。お嬢様2人が、お弁当を持って戸山ヶ原でピクニック。昭和10年に「少女の友」に掲載された作品です。

「あのね、あなた戸山ヶ原御存知?」

私は、その頃、毎日省線電車の窓から、戸山ヶ原を見て、学校へ通っていた、というのは、登校時間の省線は腰かけられた事なんか、決してなかったし、立っていればいやでも、窓から、その原っぱが見えるのだった。(略)

騎兵が、馬で松の木立の間を駆け廻る戸山ヶ原、塹壕を掘って、歩兵が演習していることもある。雪の降った朝は、物珍しそうに、スキーを持ち出して、そのゆるい傾斜で滑っている人影のある冬の戸山ヶ原、そして今頃の青草が萌えて、朝から、うらうらと陽がさし、陽炎が燃えて、まどろみたいような、春の戸山ヶ原。

 「陽炎が燃えて、まどろみたいような、春の戸山ヶ原」って、のどかですな。この作品は昭和10年。しかし、昭和12年日中戦争勃発後なら“歩兵の演習を眺めながらピクニック”なんて、まず無理でしょう。

それにしても、ピクニックの10年後、軍楽隊が焼け野原を行進することになるとはね…。

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特撮に出てくる本棚

昭和30年代の特撮に出てくる事務所の本棚や机が好きです。ほとんどが木製だから。現在ならスチールであるはずのオフィス家具が、当たり前のように木製なんですよね。

 

これは「美女と液体人間」(昭和33・1958)に出てくる研究室の本棚。ガラス戸と引き出し部分の組み合わせ。

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同じく「美女と液体人間」の警察の本棚。こちらもガラス戸と引き出しの組み合わせです。実は、この本棚と似た品をアンティーク屋で購入し、大喜びで使っています。

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おまけ。ファイルに注目!ライオン事務器の製品に見えます。コクヨじゃないんだ…。このファイルは今もよく見かける灰色のスチールキャビネットに入ってました。この時代のアスクル的なカタログがどうなっていたか知りたい!ライオン事務器の歴史資料室「ROUTE 1792」に行きたい!この画像は「怪獣大戦争」(昭和39・1964)から。f:id:NARASIGE:20200521113848j:plain

現在のライオン事務器フラットファイル。半世紀以上前からほとんど変わっていない?

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お金持ちと、多摩川

私は学生時代の数年間、稲田堤〜登戸エリアの駅を利用していました。しかしどの駅も完全に通過地点。10代の女子の夢を何ひとつ満たしてくれない場所だったのです。

 

しかし、獅子文六の小説を読んでいたら稲田堤・稲田登戸エリアが"金持ちの別荘地から見える風景"として登場するのでびっくり。私の狭い記憶では0.000001ミリも別荘感はなかったのですが…たとえば獅子文六の「楽天公子」(昭和11年雑誌連載)には「女猟銃家」の別荘と、稲田堤の桜が出てきます。有閑階級が、稲田堤の桜を対岸から眺めているのです。

車はいつか下高井戸を過ぎて、両側の麦畑の青い縞に、飛模様のような桃の花…エンジンの音でわからないが、雲雀もきっと啼いているにちがいない。やがて調布の少し前から、左へ曲がると、松林を廻らせた瀟洒な一劃があって、クリーム色の外壁が日に暖かいヴィラ風の洋館が見える。(略)別荘のことで、応接間というのではないが。15畳くらいの広い洋室へ通されると、ヴェランダを越して、目一杯に多摩河原が拡がり、稲田堤の端らしい桜花が、七分の綻びを見せている。

「いい景色ですなア」

「戸羽さんは景色より、こっちの方がいいンでしょう」と花子女史は女中の持ってきたウイスキーと炭酸を、眼でしめした。

 同じく獅子文六の「自由学校」には「稲田登戸」の別荘が登場します。敗戦から5年目に書かれた小説ということもあってか、「稲田登戸」の別荘の主はアメリカ育ちの茂木夫妻。彼らは占領下の日本で"事業"をおこし、景気の良い生活をしています。茂木夫妻の車は「外国人でなければ、目下、乗れないような」長い図体の車だし、「相模ゴルフ ・コースへラクに行ける」という理由で別荘を買っている。そんな別荘に、戦前は上流階級だった女性(戦後はミシンで内職)が、おっかなびっくり訪問するシーンがあります。以下引用しますね。

また英文学のお話なぞ、伺わせて頂きたく、今度の日曜、友人茂木君の稲田登戸別荘へ、お誘い申し上げます。11時に茂木君の車が渋谷駅前にお迎えに出るそうで、小生も同所で、その時刻にお待ち申し上げています。

 

車が、コンクリートの長い橋を渡る時に、カンカン照りの河原に、黒豆を播いたようなハダカや、浅い水の上のボートなどが、眺められた、それらは、少しも、涼しさを感じらさせず、そして貧乏くさい光景だった。駒子は、その人々と、同じ仲間である自分を、忘れた。(略)

 

「あの山の上なんですよ、茂木の家は…」辺見が左手のコンモリとした丘を指すために、身を寄せた。(略)もと、ドイツ人が建てた家だというが、どちらかといえば、英国風のコテージで、玄関の様子もさっぱりしていた。(略)すぐ、広間に出た。二つの大きな室が、サルーンとも、食堂ともつかず、打ち抜いて使われているらしかった。そこを通り抜けて、広いテラスへ出ると。眼の下に、河と鉄橋が見え、幅の広い風が吹き抜けていった。

「まア、いい景色…」

駒子は、思わず、つぶやいた。 

 

↓稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)については、こちらが詳しいです。

smtrc.jp

 

敗戦をはさんだ「楽天公子」と「自由学校」。いずれも別荘のウリは多摩川の光景なんですね。(また、古賀政男稲田堤へピクニックに行ったことが「丘を越えて」作曲のきっかけになったとか。かつての稲田堤は、イケている場所だったのでしょうか!!)

 

【オマケ】昭和4年発行のエッセイ漫画(凸凹放送局・池部 鈞)にも「稲田堤」を発見!なんと稲田堤が、日比谷公園や上野公園と同格で出ている〜。信じられません。

そして「新興花見風景」(獅子文六)では、軍需成金一家が「飛鳥山稲田堤もいいが、雑踏していけない。会社員などが泥酔して、醜態を演じるから不愉快だよ。」と、稲田堤を避けるシーンさえあります。ちょっと!私の知っている稲田堤とずいぶん違うんですけど!

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「稲田堤」と同じ章に、「日比谷公園」が!

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東京行進曲・モスコー行進曲

獅子文六の「浮世酒場」(昭和10年新青年」連載)には、シベリア帰りの男が酒場で、クレムリンやモスコーでの経験を虚実とりまぜて話すシーンがあります。以下引用。

「非常時どころか、ジャズで踊って、ウオッカで更けて、明けりゃ闘士の涙雨という、モスコー行進曲が大流行だ。ダンスときたら青年労働者は眼がないね。(略)まず、隗より始めよというので、スターリンからして、ダンスの稽古をしている。彼氏不器用でろくろくワンステップも出来ないが、タンゴが踊れるまで5ヶ年計画でやるそうだ。」 

この「ジャズで踊って、ウオッカで更けて、明けりゃ闘士の涙雨」のモトは「東京行進曲」の「ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの涙雨」なんでしょうね。私は東京行進曲にも、モスクワにも、すごく疎いので、きっとココが笑いどころなんだろうな、と想像することしか出来ませんが…!また、この男は「国境方面の緊張」についてこう語ります。

「いろいろ、面白い話もあるだろうが、まずは国境方面の緊張の工合は?」

「そりゃア、物凄くやっとるよ。奴等は万里の長城のカケラみたいなやつを、到るところで建造して、いざと云えばブッ放す勢いだ。飛行機はブーブー、タンクはガラガラ、実に景気がいい。歩騎十一軍団空軍四百機が集中しとるのだ。しかし我が軍の方は如何というと…」外套氏はここまで云いかけて、俄かに「円酔」の店内を見回しました。眼光ハヤブサのごとく鋭く光ったので、おでん鍋の前の主人が慌てて首を縮めました。

この「国境方面の緊張」「飛行機はブーブー、タンクはガラガラ」についての参考画像をネットで見つけました。日中戦争開始後の昭和12年秋の雑誌付録です。婦人雑誌の付録なので、おそらくお母さんが子供に見せるのでしょう。「一目でわかる支那事変と日ソ関係絵地図」f:id:NARASIGE:20200520113514p:plain

↓拡大画像。「飛行機はブーブー」……

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↓拡大画像。「タンクはガラガラ」……

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↓そしてソヴィエト連邦部分に描かれているトナカイとキツネ。この絵地図を担当した石田英助は、戦後の幼児向け雑誌にも可愛い絵を沢山描いている方なんですね。

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 絵地図を担当した石田英助の平時の絵。可愛すぎる。(「こども家の光」 昭和31年8月)

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