佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

翼賛会の花森さん【大政翼賛会と花森安治】

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』大政翼賛会時代の花森安治

暮しの手帖」の花森安治

資生堂」の山名文夫

この2人がコラボしたら、ものすごく魅力的な“何か”が誕生するはずですよね、ふつうは。(現在、ふろしきが商品化されています→□

では、彼らのコラボ(?)が戦時中に行われると、何が生まれるのでしょうか。

それを知る手がかりになるのが、『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社)です。

「報道技術研究会」(報研)は 、デザイナー・コピーライターなどの制作集団で、「国家宣伝の高度化と総合化」を目指していました。この本から、【大政翼賛会花森安治】と、【報道技術研究会の山名文夫】の時代を垣間見ることができます。

「おねがひです。隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」

▽中はこんな感じ。「大政翼賛会 戦意昂揚ポスター(昭和18)企画構成・山名文夫」。有名な「隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」のポスターです。

この地球上から、米国旗と英国旗の影が一本もなくなるまで、撃って撃って撃ちのめすのだ 大政翼賛会

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社)に加筆

▽「報道技術研究会」会員の証言には、大政翼賛会の「花森さん」がたびたび登場します。たとえばこれは森永のデザイナーから「報道技術研究会」(報研)に入った方*1の思い出。

翼賛会にはそれからよく出かけた。花森さんは実においそがしかった。(略)最近は暮しの手帖で拝見するのであるが、当時からデザインやイラストもお上手で……

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社)に加筆

“敵愾心昂揚”

昭和19年10月、山名文夫花森安治の打合わせ@大政翼賛会

「謀略展」を変更して目下“敵愾心昂揚”一本にあらゆる宣伝を集中するということになり……

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社)に加筆

▽昭和20年6月、連日「花森氏」。

花森氏から情報局の最終的宣伝案——決戦攻勢宣伝案をきく。

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社)に加筆

昭和16年の報道技術研究会。中央に山名文夫前川国男

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社

……以上、『戦争と宣伝技術者』から、一部を紹介しました。ご存知のとおり、花森安治大政翼賛会時代について口を閉ざしていたので、“本人”による回想はありません。残念。

▽敗戦の年の花森安治山名文夫。ただの疲れ切った人に見えます。

山名文夫 1897‐1980』(gggブックス別冊3)に加筆

『戦争と宣伝技術者』のあとがきを引用します。

「報研の記録を本にしておこうではないか」という話が出た。それがようやく本書となったのである(略)。思い出は、報研とかかわり合った方々みんなに書いてもらいたかったが、そうもゆかなかった。 すでに故人となったひともおり、あまり前の事なので、ほとんど忘れてしまって書くことがないと断られてしまったひともいる。特に、前川国男花森安治林謙一、戸板康二、小野田政、江間章子などのみなさんには書いてもらいたかったのだが、果たせなかった。

花森安治

山名文夫

【わしづかみ力】のすごい人たちが、「敵愾心昂揚」や「戦意昂揚」にかかわっていた時代。

2023年が「新しい戦前」だとしたら、誰と誰がコラボするのでしょうか。

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*1:村上正夫

「わたしたちのヒットラー 総統と少女」【昭和17年の女性誌より】

「わたしたちのヒットラー 総統と少女」

「わたしたちのヒットラー」……びっくりするようなタイトルですが、今日は戦時中の『婦人画報』(昭和17年5月号)を紹介しましょう。

▽「ヒットラー総統の誕生日に花束を捧げるために、ひしめき合っている少女たち」。ドイツの少女たちが「ヒットラーを渇仰する」のはヒットラーの人間的な美しさの現れであろう」などと書かれています💦

婦人画報昭和17年5月号

▽このページは「わたしたちのヒットラー」を3回繰り返しています。催眠術ですか?

子供達はヒットラーが大好きだし、ヒットラーも子供達が大好きである。(略)「わたしたちのヒットラー少女たちは花束を作って総統に捧げる。すみれの様なやさしい花を…。

婦人画報昭和17年5月号

ヒットラーが、少女「スザンネちゃん」を山荘に連れていき、苺ミルクをご馳走したというエピソード。

1933年の夏であった。ベルヒテスガーデンの 群衆の前に総統は姿を現した。その時、丁度彼の前に小さな女の子が群衆の間をくぐり抜けてきて「今日は私の誕生日なのよ」と総統によびかけた。(略)「それではスザンネちゃん、何が一番好き?お誕生日のお祝いをして上げましょう」「私苺が大好きよ」そこで苺ミルクの御馳走が来た。彼女は沢山苺をたべて、帰りぎわに総統の首に背伸びをして可愛らしい接吻をした。

婦人画報昭和17年5月号

▽苺ミルクを食べたとされる「スザンネちゃん」は、BBCニュースのこの少女?記事には、「ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので」とありますが……う、うーん。

www.bbc.com

不思議な既視感

 なんと「わたしたちのヒットラー」の文中には、ハッキリ、記事の“目的”が書かれています。

人間ヒットラーの血のあたたかさを感じさせるに十分なる頁である。

しかし、誰がこの記事を手がけたのかわかりません。目次も、名前の部分が空欄だし。

ただ私は【キャンドルと手書き文字】のタイトルに、不思議な懐かしさを感じました。母がむかし定期購読していた『暮しの手帖』に、どことなく雰囲気が似ているからでしょうか…。

婦人画報昭和17年5月号に加筆

暮しの手帖社『すてきなあなたに』の表紙。

手書き文字が上手な「HIGさん」の謎

 ちなみに「わたしたちのヒットラー」と同じ号(『婦人画報昭和17年5月)には、「HIG」とサインのあるイラストがふんだんに使われています。

▽「HIG」のサインの例・その1。「季節の手帖」の手書き文字に注目。

婦人画報昭和17年5月号

▽「HIG」のサインの例・その2。一瞬、『暮しの手帖』かな?と思ってしまいますが、書き出しは「米英撃滅の日まで、一億火となるべきとき」なんです。

婦人画報昭和17年5月号

 手書き文字とカットが印象的な「HIG」さん。

目次にはカット担当として「HIG」さんらしき人物=「樋口渡」の名前があるけれど、いったい誰…?

巻頭に大政翼賛会のひらがなメッセージ

 そしてこの時期、『婦人画報』の巻頭には大政翼賛会のメッセージがカラーでドーンと!昭和17年、他の雑誌はどんどんみすぼらしくなっていくのに、カラー。(大政翼賛会といえば、花森安治大政翼賛会宣伝部でしたね)。

戦ひは長い。けれども、前途は明るいのです。どんなことがあつても、私たちはしつかりしませう。

婦人画報昭和17年4月号

……以上、「わたしたちのヒットラー 総統と少女」でした。ナゾにつつまれている記事ですが、とりあえずこの【わしづかみ力】をおぼえておきたいと思います。

きっと[新しい戦前]には、[宣伝の達人]が活躍するでしょうから。

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めでたさとキナ臭さと【昭和11年のお正月漫画から】

 あけましておめでとうごさいます。タモリの発言「新しい戦前」がTwitterで話題ですね。2023年はいったいどんな年になるのでしょうか。

 ちょうど手もとに昭和11年(1936)の冊子があります。大日本雄弁会講談社「富士」新年号の豪華附録『トテモ愉快な絵読本』昭和11年の新年といえば、翌月には二・二六事件が起こる、そんなお正月。

 新年号だけに人気漫画家が大集合しているけれど、いったいどういう気持ちで眺めたらいいのか戸惑ってしまいました。今日はその中から何点か紹介しましょう。

「日本に生まれたりゃこそ朝酒寝酒」

▽キュートな絵で知られる前川千帆→□が描くお正月。「日本に生まれたりゃこそ朝酒寝酒 何の苦もないふところ手」。まさかこの10年後、焼け野原が待っているとはね!

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

▽上の「日本に生まれたりゃこそ 朝酒寝酒」の次のページには、“靖国神社で、息子に手をあわせる親”の絵。1枚の紙の裏と表に、【朝酒】と【死】が印刷されているわけです。

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

▽『タンクタンクロー』の阪本牙城が描く幸せな風景。この幼児が大きくなるころは、疎開先で空腹を抱えるのか。

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

▽お屠蘇気分の新年号に、いきなり差し込まれる戦場。「やまと魂」というタイトルです。 

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

▽『トテモ愉快な絵読本』の巻頭カラーは、これでした。「咳一つ 聞えぬ中を 天皇旗」。

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

▽上の「咳一つ 聞えぬ中を 天皇旗」を描いた細木原青起は、数年後に「大東亜共栄会議」のイラストも描いていたようです(画像の左下に名前有)。人気漫画家や人気小説家であればあるほど、時代と無縁でいられなかったことでしょう。

▽扉に描かれていた詩「愉快に笑へ」(サトウ・ハチロー)。「どうで暮らすなら 笑うて暮らせ」。ぞッ。

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

 以上、昭和11年のお正月雑誌でした。この新年号の翌月には二・二六事件が起こり、翌年(昭和12)からは日中戦争が始まります

▽翌昭和12年、原宿に立派な「海軍館」が完成。 海軍思想の普及を目的とした施設で、子ども心をくすぐる仕掛け(ジオラマなど)が詰まっていました。

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物騒な銀座と、オシャレな広告塔

オシャレな広告塔は、いつからあった?

 ここ10年ほど、私の趣味は敗戦直後のカラー写真を見ることです。(進駐軍の子孫と思われる人たちが、[祖父が撮影したアジア]といったカテゴリーでネットにあげている。もちろん進駐軍が撮影する場所は限られているから、戦争の暗部はうつっていません)。

一連の写真で、以前からナゾだった点がありました。それは銀座に立っている「巴里の街角」みたいな広告塔。人々の服装は地味なのに、広告塔だけが妙にバブリーなんですよ。

▽銀座4丁目交差点の広告塔はこんな感じです。街ゆく人の装いが灰色なのに、広告塔だけ華やいでいる。

https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3165112785/

数寄屋橋にも同様の広告塔を発見。人が沢山いるのに、車が1台も走っていないことに注目!https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3168583931/

 この広告塔はいつ頃からあったのだろう?

ずっと気になっていましたが、先日ようやくわかりました。敗戦の翌年(昭和21)には、すでにできていたらしいのです。『中央区年表 占領と民主化篇』(中央区京橋図書館発行・昭和57)によれば、昭和21年に「京橋・銀座・数寄屋橋の歩道にジュラルミン製の円筒広告塔設置」とのこと。

 でも敗戦の翌年は、まだ「衣・食・住」が壊滅状態ですよね。つまり広告塔は【衣食足りて】→【広告塔が誕生】という順番を経ていないということ?!

▽『中央区年表 占領と民主化篇』より

中央区年表 占領と民主化篇』(中央区京橋図書館発行)

オシャレな広告塔の威力

 では、同じ場所でも広告塔が「写っている」のと「写っていない」で、写真の印象が全然違うケースをご紹介しましょう。

▽【オシャレな広告塔+焼け残った着物+焼け残ったビル】。妙に華やかで、つい「なんだ、戦争はたいしたことなかったのか」と錯覚をしてしまう写真です。進駐軍用の標識に書かれている「Z  AVE」は晴海通り、「5TH ST」は外堀通り

https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3165115501/

▽一方、これは上の写真とほぼ同じ場所・同時期に撮影されたもの(撮影者も同じ)。左の見切れた部分に広告塔があるはずです。広告塔がうつりこんでいないと、「敗戦国民が迎えたきびしい冬…」といった雰囲気ですよね。印象が大違い。https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3078420354/

 ちなみに、空襲で焼けた歌舞伎座明治座は、敗戦から5年は閉じていました。資材を運ぶガソリンも不足しているので、「敗戦→すぐに復興」とはいかないのです。でも広告塔ならば建物よりはサッと作れるだろうし、インスタントな“賑わいの創出”が期待できそう。

歌舞伎座明治座の復興エピソードはコチラ

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物騒すぎる銀座

 今回紹介した『中央区年表 占領と民主化篇』には、敗戦直後(昭和20-24)の混乱エピソードが目白押しで、とにかく銀座の治安の悪さに驚かされます。まず「衣・食・住」がグチャグチャだし、やれ強盗だ、やれ殺人だ、飛び降りだ、と、かなり物騒なのです。そのせいか、この本ではあの「下山事件」(昭和24)でさえアッサリした扱い。

下山国鉄総裁、乗用車で国鉄本庁に当庁の途中 日本橋三越に入ったまま行方不明となる

たったこれだけ!国鉄総裁が怪死した昭和の大事件も、一般の事件と同じように書かれています。

 わたしは最近、「体感治安」という言葉を知りましたが、この時期の銀座の治安も相当なものだったらしい。いや、物騒だったからこそオシャレな広告塔で夢を見たかったのかもしれません。

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【チャラ男はインフルエンサー】獅子文六『売屋』

 最近、お笑いトリオ「ぱーてぃーちゃん」を知りました。チャラ男1人にギャル2人という設定のグループです。

 私はお笑いをよく知らないけれども、けっこう動画を見てしまった。特に「チャラ男」役の人には、博多大吉先生的な何かを感じました。

獅子文六の短編『売家』と戦中のスローガン

 さて、戦時中の【チャラ男とギャル】(的な存在)*1のかけあいを読めるのが、昭和の人気作家・獅子文六の『売家』 *2です。(獅子文六全集11巻/朝日新聞社

 

 戦時中はなにかとスローガンがあるけれど、『売家』はチャラ男がそれをギャルに解説してあげるお話。つまり、チャラ男が(いま防衛省が探しているという噂の)インフルエンサー役なんですよ。

【参考画像】「臣道実践」「職域奉公」!

講談社「幼年倶楽部」昭和16年6月号

チャラ男がギャルに講義する「臣道実践」「公益優先」

 短編『売家』に出てくるチャラ男(的な人)は、ニヤケた役者。もともと彼は、女のノロケ話ばっかりしているような男でした。服装も派手で「ゾロリ」としていた。

 ところが、そんな彼が急に「臣道実践」「公益優先」をスラスラ言いだします。しかも「兵隊サンのような」国民服を着こみ、戦闘帽をかぶってウットリしてる。

楽屋でも大流行なんだよ。第一、便利でいいやね

と…。

 一方、チャラ男の幼なじみであるギャル(的な人)は、「新聞の演芸欄しか読まん女」。世の中の動きを全然わかっていません。

 そこでチャラ男はギャルに、日本がすっかり「新体制」*3になっていることを教えてあげるのです。

ギャルの好きな「資生堂の海老フライ」*4は、もう食べられない時代になっているということも。

 しかし、新聞を読まないギャルには「新体制」がピンとこない。

「いいえ、その、 新体制ってことね、ほんとは、どういうワケなの」

少し羞ずかしかったが、思いきって、聞いてみた。この頃、よく耳に入る言葉だが、彼女には当て推量すらできなかったのである。

 

「 新体制かい?つまり、その、なんだね…公益優先、臣道実践てえことさね。」

チャラ男先生の熱い講義は続きます。

  • 「公益優先、臣道実践」とは「つまり、朝から晩まで、お国のために尽くすことだアね」
  • 「職域奉公」とは「 役者は役者で、米屋は米屋で、炭屋は炭屋で、それぞれお国のために職業に精を出しゃアいいんだよ」

 ギャルは、「身近な世界に住む人間」=チャラ男の解説で、ようやく時代の急変を理解します。いきなり覚醒した彼女は「お国」に尽くす気まんまんに!愛人からもらった家を売り払い、その金を迷うことなく国に寄付するのでした。(だから、小説のタイトルが『売家』)

 当時の読者は、“チャラ男とギャル”のやりとりを笑いながらも、あらためて「時局を認識」したことでしょう。

▽戦前、ユーモア作家としてデビューした獅子文六。しかし日米開戦の翌年には、のちに「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす」*5原因となった小説『海軍』を朝日新聞に連載しています。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』

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▽参考:「新体制」を漫画で解説しているケース。「ぜいたくは敵だ」や「買えよ国債」など。(新潮社「日の出」昭和15年12月)

新潮社「日の出」昭和15年12月

▽参考2:NHKアーカイブスより昭和16年6月大政翼賛会の会議記録。「高度国防国家体制は、かかる力強き臣道実践体制の確立によってのみ、初めて実現できるのであります」

www2.nhk.or.jp

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*1:説明の都合上、『売家』の登場人物を雑にチャラ男とギャルにたとえましたが、実はこのチャラ男、(気持ちはすごく若いけれど)設定はけっこうおじさんです。ここがポイント。もしチャラ男が本当に若かったなら、戦場も戦死も身近なわけで、「国民服は楽屋でも大流行なんだよ。第一、便利でいいやね」などと言っていられないはずだし、この短編も成立しないでしょう。

*2:『売家』は書かれた年がわかりませんが、日米開戦が目前にせまった時期の作品と思われます

*3:昭和15年6月、近衛文麿の提唱で、“新体制運動”が始まったが、これは挙国一致を目指す総力戦体制のための政治運動であった。したがって国民の生活や考え方も、戦争完遂のための“新体制”の趣旨に沿うことが要求された。個人主義的、自由主義的な考え方や、贅沢で派手な生活等は“新体制”に反するものであった。」獅子文六全集11巻注釈より。

*4:資生堂パーラー獅子文六のエッセイ『ちんちん電車』によれば、若い頃、友人に「資生堂の息子」がいたためパーラーによく行っていたとのこと。

*5:獅子文六全集14巻「落人の旅」

進駐軍のジープは風のように走る【昭和21年の絵本「ハシレヨ ヂープ」から】

ジープのおもちゃと、ワカメちゃん

 敗戦まもない頃のサザエさんには、“ほっこり”じゃないネタ(住む家のない親子、引揚げの苦労など)も 目白押しです。

中でも印象的だったのがこのコマ…。四角い包みを見たワカメちゃんが、唐突に「ジープだね」と喜んでいる。いくら進駐軍に“ギブミーチョコレート”する時代だとしても、「四角い包み」=「ジープ(のオモチャ)」という連想が不思議でした。(この包みは、ジープじゃなくてネズミ捕り器というオチ)。

引用元:『サザエさん』2巻(朝日新聞社)121頁

昭和21年発行の『ハシレヨ ヂープ』と“仲良しアメリカさん”

 先日、敗戦の翌年に発行された絵本『ハシレヨ ヂープ』(昭和21)を入手して、“ああ、なるほど。これはジープに親しみが湧くだろうなア”とつくづく思いました。当時、こんな絵本を手にとれる子供は限られていただろうけれど。

キモチヨイ ソヨカゼ ヂープガハシル

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

▽焼け野原も、浮浪児も存在しない光景。国策のニオイ…?

シンチュウグンノ ジョウヨウシャ キモチヨイオトヲタテ カゼノヨウニハシル

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

▽手入れの行き届いた公園と、ジープ。きれいな服を着た子供たちが集まってきました。国をあげての“鬼畜米英”ノリは一体どこへ?(敵対心をあおっていた時代:パステルカラーと、敵対心の醸成【戦時中の婦人雑誌から】 - 佐藤いぬこのブログ

「ハロー」「ハウアーユー」 ナカヨシアメリカサン

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

▽真っ白な靴下をはいた子供たちと「ナカヨシ アメリカサン」

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

▽でも、実際の光景(昭和22)は、こんな感じだったようです。この写真は毎日新聞社が出していた『ニッポン40年前』(1985年)というムックから。このムックは今でいうと『昭和50年男』的な立ち位置でしょうか。ボロッボロの服を着た子供たち(=40年前のオレたち)のカラー写真がいっぱいです。

「ニッポン40年前」1985年(毎日新聞社

進駐軍の大型バス。“真っ白な広い道 進駐軍のバスが すべるように走る”←カタカナを漢字に直しました。敗戦間もないのに「真っ白な広い道」とは…。

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

進駐軍のトラックとジープがいきかう勝鬨橋勝鬨橋の先の「晴海」(月島四号地)*1が接収されていたのです。

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

▽『ハシレヨ ヂープ』の作者は石岡とみ緒で、デザイナー石岡瑛子のお父さんです。出版しているのは「日本配給統制株式会社」。

昭和21年『ハシレヨ ヂープ』石岡とみ緒

進駐軍ジープと交通事故

 絵本では、風のように走っているジープですが、実際は悲惨な交通事故が多かったそうです。以下はMPのジープから見た占領下の東京―同乗警察官の観察記より。

取り締まり側のMPが事故を起こし、死傷することも多かった。

事故の1つの原因に道路状態の悪さが挙げられる。モータリゼーションが始まる前の東京の道路には、自動車の交通に不都合に作られているところが多かった。幹線道路にはほとんど都電が走っており、その停留所には必ず安全地帯があった。乗降客を守るためのコンクリートの障害物で、道路の真ん中を塞いでいた。当時の明かりの乏しい暗い夜、特に雨の降る夜などは極めて視認しにくく、フルスピードで疾駆するMPのジープには命取りであった。実際、駐留軍の車両はしばしば安全地帯に激突した。

「当時の明かりの乏しい暗い夜」にフルスピードで走るジープって、危険すぎる。『MPのジープから見た占領下の東京』は、その他にも進駐軍車両の危なっかしいエピソードたくさん。絵本『ハシレヨ ヂープ』とは真逆の世界がひろがっているので、おすすめです!


▽「1985年の中年」は敗戦時に子どもでした。

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*1:中央区年表 占領と民主化篇』巻末の進駐軍接収状況一覧(昭和32年時点)を見ると、晴海町は「提供中」となっていて生々しい

「ビートDEトーヒ」/逃避したくなる時代と、獅子文六

獅子文六と【戦争→敗戦→どん底からの復興】

かまいたち濱家が歌っている「ビートDEトーヒ」。ダンスは可愛いけど、歌詞はけっこう暗いんですね。“ポップなビートで、トーヒ(逃避)したい。つらい現実から目をそらしたい”みたいな内容で。


「ビートDEトーヒ」。

“ポップなビートを利用して、現実から逃げたい”という願い。

同様の願いを、戦中〜戦後と満たし続けたのが、昭和の人気作家・獅子文六だったのかもしれません。

獅子文六がユーモア作家としてブレイクしたのは、40歳代前半。意外と遅いですよね。そしてブレイクしたとたんに、日中戦争がはじまります。

つまり獅子文六の40〜50代は【戦争→敗戦→どん底からの復興】という、かなり厳しい時代と重なっているのです。

ブレイクのきっかけとなったポップな『悦ちゃん』も、(現在は)痛快小説として売られている『おばあさん』*1も、実はノンビリした時代に生まれたお話じゃなかったりする。(人気作『コーヒーと恋愛』は、獅子文六が69歳頃の作品なので、今はいったん脇においておきます)。

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うすれる戦争の記憶

ところが21世紀になって戦争の記憶がうすれると、当時の“トーヒ(逃避)したい”ニーズは忘れられ、獅子文六の“ポップ”が漉されて残る。

その結果、現代の私たちには、

悦ちゃん』は(226事件から間もない頃の連載なのに*2)ポップ。

『おばあさん』は(日米開戦後の連載なのに)ユーモアいっぱい。

『自由学校』は(占領下なのに)ドタバタ愉快。

といった感じに見えてしまいがち。なので、獅子文六を読むときは、当時の読者の“トーヒ(逃避)したい”願望を、ちょっぴり脳内補完するといいんじゃないでしょうか?

 獅子文六自身も、“私の小説は「時代」が主人公で、登場人物はワキ役”*3としていることだし、ここは「主人公」=「時代」に思いをはせてみたい。

「強者のほがらかさ」と、獅子文六『自由学校』

松竹データベースより

中野翠氏が、獅子文六『自由学校』(昭和25)についてこう書いていました。

こういう、いわば強者(経済的にも知的にも恵まれている階層)のほがらかさが、一九五〇年の日本の大衆に支持されたという事実――。ちょっと不思議な気がする。(筑摩書房) - 著者:獅子 文六 - 中野 翠による書評

私も『自由学校』の強者率の高さが不思議でした。なにしろ主人公は、満鉄副総裁*4の息子でボンヤリ者だし、彼の妻もお嬢様育ち、親族は知識階級という設定なんですよ。敗戦5年目の新聞連載なのに、読者は「強者のほがらかさ」にムッとしなかったのかしら…。

しかし「ビートDEトーヒ」を聴いてからは考えが変わりました。その時代は、きっと「強者のほがらかさ」が、もとめられていたのだと。敗戦国のむごい現実から「逃避」するなら、やっぱり自分とは真逆の人物=【上流階級の昼行灯】にログインしたいじゃないですか!

▽参考画像。焼けた新宿です。逃避したいー

マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋)に加筆

▽…というわけで、獅子文六の16作品(昭和11年〜25年)を並べた冊子を作っています。ぜひごらんください。

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*1:朝日文庫『おばあさん』のカバーには「昭和初頭の家族をユーモア満点に描いた痛快小説」とあります。

*2:悦ちゃん』:昭和11年7月19日〜昭和12年1月15日『報知新聞』

*3:「一体、私の小説では、いわゆる主人公というものが、必ずしも重要ではなかったのである。という意味は、私は五百助や駒子よりも、「時代」を主人公に置いたのである。登場人物はことごとく脇役であり、極言すれば人間ではなく、人形である。」(「一長一短観」『獅子文六全集』第15巻545頁/朝日新聞社

*4:作中では「満州交通の副総裁」

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