1966年・1967年というのは、ハーフのモデル等が怒濤のごとくCMに起用されるようになった、ちょうど節目の時期。
敗戦後、占領下の日本に生まれた多くの赤ちゃん達は、1966年から1967年にかけて、彫りの深ーい、手足の長ーい少年少女に成長し、資生堂のCMなどで大活躍するようになりました。(実際の彼らが苦労人だとしても、CMの中では戦勝国の裕福な白人であるかのように扱われています。)そして「平たい顔族」の若人を熱狂させたのです。
1967年の花椿よりサンオイルの広告。ひらたい顔族垂涎の横顔。
それらのCMを手がけた天才ディレクター(基地の街・立川育ち)が37歳で首を吊ったということは、ご存じの方も多いかと思います。以下は彼の遺書。
『リッチでないのにリッチな世界など分かりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。
夢がないのに 夢を売ることなどは……とても……嘘をついてもばれるものです』
以下、続く・・