基地の隣町で育った女性(60歳前後)から聞いた話。現在とお金の基準が違うので、“アメリカ人が基地の外に家を借り、日本女性を養う”ことができた時代の話です。
私が小学生の頃、家の近所には、アメリカ人と日本人女性が住んでいる家(ハウス)が、いっぱいありました。わたし達は、そういう家を「onlyの家」(※onlyさんとは、愛人・現地妻のこと)と呼んでいました。
同級生には、そういう「家」から通っている子がいました。日本の子どもが、貧しい服装をして棒鼻を垂らしている時代に、ものすごく綺麗な服を着ていました。
その子は学校で仲間はずれにされていましたが、私は気にせず仲良くしていました。
その子のお母さんは、私に「うちの子と遊んでくれて、ありがとう、、、」と言いました。
でも「onlyの家」の子と仲良くしているという理由で、私も学校で仲間はずれになってしまいました。
私は、その子に「ごめんね…」と言って、遊ばないようになりました。
■現在でも、私の家の近所には、そういう家(広くて、ペンキが塗ってある)が数軒固まって残っています。