戦前に出来た2つの遊園地が、敗戦後、競輪場になりました。【遊園地→競輪場】とは、かなり大胆な変身ですよね。
1つは、調布の「京王閣」。そして、もう1つは東京と横浜の中間にあった「花月園」。いずれも豪華な遊園地でしたが、敗戦後間も無く競輪場になったのです。
調布の京王閣の場合
まず1つ目の京王閣について。建物の様子はこちらのブログが詳しいです。分離派のステキな建物じゃありませんか!
fkaidofudo.exblog.jp
調布飛行場から約2キロの距離にある「京王閣」は、敗戦後、「RAA」(特殊慰安施設協会)の“施設”として利用されていたとか。そのいきさつについては、こちらのブログをご覧ください。
kokontouzai.jp
RAAは、敗戦後、まずは「飛行場の近く」と「京浜地区」の建物を接収し、女性を集めて“施設”を作ったといわれています。←進駐軍は京浜地区を通って東京に入ってくると予想されていたため。
東京の遊園地 (1981年) (東京公園文庫〈39〉)によれば、京王閣は、遊園施設としてはメリーゴーランドがあった程度で、メインは京王閣の“建物自体”だったそうです。なぜ、そんなに豪華な建物があっという間に消滅したのか?そして今、ほとんど話題になっていないのか?不思議ですね。
花月園(横浜市鶴見区)の場合
2つめは横浜と東京の中間にあった花月園。京王閣と同じく、「遊園地が敗戦をはさんで競輪場に変身」したパターンです。
花月園はダンスホールに加え、園内にホテルが5つ、瀟洒な貸別荘も存在したとのこと。もともと新橋の料亭の経営者が贅を尽くして作った遊園地でした。『痴人の愛(大正13年)』では、不良少女「ナオミ」が出没しそうな場所として花月園の名が挙げられているほど。かなり、派手な場所だったことがうかがえます。
しかし、鶴見区役所が出している「花月園」の本を読むと、「児童本位の遊園地」「児童本位の遊園地」と不思議なほど「児童」が強調されているのでした。なぜに児童本位…?疑問が深まるというものです。
↓上記の本に出ていた戦後の花月園の写真。「児童本位の遊園地」にいる進駐軍。
▽銀座と「RAA」(特殊慰安施設協会)については、こちら
narasige.hatenablog.com