日本海中心時代来る(北日本汽船株式会社)というポスター。
各地支代理店の中に、今でいう北朝鮮の港(清津 羅津 雄基)が含まれています。
ちなみに、以下は代理店のあった「清津」の郵便物。
「観光の清津」「記念スタンプ用」「北鮮随一の大都」と書いてあります。おおー。裏面の差出人住所は満州の牡丹江省・洗布所(クリーニングやさん?)で、宛先は愛知県。満州に渡った女性が「北鮮随一の大都 清津」に観光で行き、愛知県の親戚か友人に絵はがきを出したのでしょうか。
※「時刻表歴史館」のサイトに北日本汽船の時刻表などが詳しく出ています。
今、〝北の国〟に行くとなると、ブラック・ヴィーナス的なドキドキする方法を思い浮かべてしまいますが‥かつては違ったわけですね。
宮脇俊三の増補版 時刻表昭和史 (角川ソフィア文庫)には、「北日本汽船」と鉄道の接続っぷりが書かれています。「北日本汽船」のウラジオストック行きが出る前夜には、東京駅初の列車にソレ用の寝台車が連結されたそうです。寝台車は米原で切り離され敦賀港へ向かったとのこと。(ウラジオストックの漢字表記「浦鹽斯徳」が難しすぎる‥)
もう1本敦賀港行きという列車もあった。戦前の時刻表には「敦賀・浦鹽斯徳間」の北日本汽船の時刻が載っており、昭和12年7月号を例にとると、ウラジオストック行は毎月6日、16日、26日の3便で、いずれも午後2時00分敦賀出帆となっている。就航船は「さいべりあ丸」の3462トンで、北部朝鮮の清津と雄基に寄港して「浦鹽」には4日目の8時00分に着くのであった。
このウラジオストック便が出帆する前日の東京発午後10時00分の急行19列車神戸行には敦賀港行の2等寝台車が増結された。時刻表の欄外にはその旨の注記があり、翌朝7時00分に米原に着くと寝台車が切離され、7時30分発の北陸本線の鈍行に連結されて敦賀着8時50分、ここでふたたび切離され、寝台車だけが蒸気機関車に牽引されて2・7キロの臨港線を6分かかって走り、敦賀港まで行っていた。入港日にも同様の接続列車が運転されていた。