佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

お菓子ニーズの変遷

東京都中央区が出している「中央区の女性史」。中央区の年配女性(立場が色々!)の聞き取りで内容が濃いです!私も中央区出身の人間。少しずつ感想や情報をまとめていきたいと思います。

 

No.7「時代を読んで舵を切る和菓子の塩瀬総本家に生まれた女性の話。以下、要約・引用します。

 

お菓子の老舗といえども、時代の変化にあわせて仕事内容をグッと変えざるを得なかったことがわかります。

 

戦前は宮内省と宮家とと軍隊、官公庁のご注文しかやっていなかったんです。宮内省、軍隊のご注文は何千折、何万個ですからね。そういうのをわあっと作って当日納めるやり方でした。それはそれでいいんですけど、戦後はそういうご用はいっさいなくなったんですね。

 

戦争中は戦死した遺族のところへ陛下からくださるお菓子を作ってたんです。材料はすべて宮内省から入るんですよ。お砂糖だの密だの。ええ、忙しかったですよ。煙草とこのお菓子がセットになるんです。「御紋菓」っていうんです。終戦になったとき、宮内省からトラック2台で材料を取りにきました。それを処分して陛下が全国行脚する費用と職員の退職金の一部にあてるということでした。父は倉庫の中のものを全部お返ししましたよ。トラックを見送ったあと父は「ご用が終わった」と泣きました。

 

宮内省からのご用がなくなった反面、結婚式がすごく多くなったんです。式場だけでも400軒くらい入っていましたから。当時はそれだけもすごかったです。(中略)大安の2日前なんて職人もわたしたちも明け方の4時5時でも作りきれないほどの忙しさでした。

 

デパートとか一般で売るようになったのはわたくしが母のあとを継いで昭和55年に社長になって2、3年目くらいのことです。銀座の松屋さんがリニューアルをするときに「塩瀬も社長が代わったし、もしかしたら出てくれるんじゃないか」ってお声をかけてきてくださって。そのときは、まだブライダル全盛期ですから、主人以外は猛反対でした。営業も職人も工場の人間から全部の人が反対でした。ブライダルのお菓子は簡単なんです。松竹梅で決まったように作って出せばいいんですから。そして取引先は大きいところで、お金が入ってこないなんて心配もないんだし。こんな安全で楽な商売ないんですよ。それでも作りきれないほど忙しいのに、デパートなんてめんどくさいことやらなくても、っていうわけです。でも少子化になって結婚する人口が3分の1に減るのは目に見えているんだから、数年先は絶対にブライダル産業は落ちることはわかっている。だから一般大衆に向けたものにしないと駄目だ、と。(中略)今はブライダルは全然駄目なんですよ。人口のほかに、今の人たちは引き出物や引き菓子にお金をかけないんですよ。

 

文中に出てくる「御紋菓」で思い出したのが、昭和15年に予定されていた万博中止の記事です。(以前、赤い線をたくさん引いてしまって恥ずかしいのですが、画像をあげますね。)万博が中止になったため、秩父宮家が万博事務局の職員に御紋菓を配ったとのこと。「一同はこの有難き殿下の思召に感涙した」そうです。

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昭和13年「萬博」冊子より

 

 

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