「港」と洋画の関係
漫画家の久保ミツロウさん(佐世保出身)が、ご自身のYouTubeで"港のあるところは洋画が入ってくるのが早い。米軍や自衛隊が観るから。佐世保は映画館が9つあった"と語っていて、なんだか説得力がありました。
▽佐世保の映画館の例 Movie Theater, Sasebo, Japan, 1954-55
空の港と、映画館
さて以下に紹介する写真は、日本人を対象としない映画館。どの写真も、「空の港」=飛行場があったエリアです。
博多
1952-53 キャンプ博多シアター James L Blilie Photos of Japan in 1952 and 1953
羽田
TIA Base Theater Christmas 1956 TIA=Tokyo InternationalAirport=羽田です。関連話題:羽田空港と、角砂糖のような建物 - 佐藤いぬこのブログ
成増
グラントハイツシアター。成増飛行場跡地。一見、梅雨がなさそうな国に見えます。Grant Heights Theater, 1957
立川
1952 立川基地(現在の昭和記念公園)の「立川ベースシアター 」https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14531692696
米兵は、映画を1人で見ない
余談ですが、立川の洋画(基地の外側にある映画館)は、アメリカ兵が女性同伴で見にくるため儲かったそうです。以下、立川市が発行している映画館インタビュー集から引用しますね。話し手は「シネマシティ」の前身となる映画館で支配人をしていた人。
アメリカの方というのは、必ず女性同伴で、まあ、日本の女性が多かったですけれども、1人で来るというのはそう多くはなかったんですね。ですから、毎日毎日50人というのは、100人ですから、これは考え方によっては、洋画をやっていると言うことで、得をしたわけですね、私ども。それで、例えば「真夜中のカーボーイ」という映画、この時なんて、それこそ夜なんか半分位がアメリカの兵隊さんだったと聞いてます。(『立川の生活誌 映画の街とその時代』立川市教育委員会)
一方、同じ立川でも、邦画専門の映画館を経営していた人は、アメリカ兵に縁がなかったと語っています。
戦後も、うちは米兵のための洋画というのはあまりしなかったですね。ほとんど日本映画専門で。基地内には、彼らの映画をやるところがありましたからね。ですから、改めて見なくても、自分たちが見て、たまに日本の人を連れてくれば入ったかもしれませんけれども、うちあたりは邦画が多かったから、そういう事はあまりなかった。(『立川の生活誌 映画の街とその時代』立川市教育委員会)
「基地内には、彼らの映画をやるところがありましたからね」という証言に注目。「彼らの映画をやるところ」=「立川ベースシアター」なのでしょう。この『立川の生活誌』シリーズは、戦中戦後の聞き書きで、貴重なお話が沢山!おススメです。(もっとも、戦後立川のゼロの焦点的な暗部については、地元の人は語りにくいようで…。立川の“夜”に関する大騒ぎは、隣接する国立市が出している冊子「まちづくり奮戦記」の方に詳しく書かれています。)
【参考】銀座の標識と、飛行場
敗戦直後の銀座。飛行場の地名がズラリ。一番上が調布。松任谷由美『中央フリーウェイ』の「調布基地を、追〜い越し〜」の「調布」ですね…。
▽ その他の映画館はこちらにも