歌舞伎座が焼ける→日本橋三越で歌舞伎
日本橋のお年寄りの対談集にこんな証言がありました。
「歌舞伎も、それから演舞場も、明治座もみんな焼けちゃったので、唯一残っているというんで三越が歌舞伎をやって、 当時白木屋ですね、今の東急、あそこがどちらかというと音楽だとか、軽演劇の方をやっていましたね。」
「デパートで劇場をやるなんていうのは日本橋としてちょっと珍しいことですよね。三越劇場なんて言う名前を持ってね。」(『中央区の昔を語る 10』中央区教育委員会)
この「三越が歌舞伎を」というのは、日本橋の「三越劇場」のこと。 歌舞伎座が空襲を受けたため、「三越劇場」で歌舞伎をやっていたのです。そう。歌舞伎座は敗戦後数年間、閉じていた…。「敗戦→即、復興!!」とはいきませんわね。再開は1951年(昭26)1月。以下の写真で、歌舞伎座が再開するまでの様子をご覧ください。
窓が黒い穴だった時代
パッと見は外観を保っているけれど、よく見れば柵に囲われています。人々の服装がとにかく黒い…。
拡大すると、窓がポッカリと黒い穴。壁も煤けている。
歌舞伎座の白骨死体
ちょうどこの時期、歌舞伎座の地下で白骨死体が見つかっています。(『中央区の年表 占領と民主化篇』より)
昭和23年3月10日午後4時ごろ、歌舞伎座の焼け跡を整理中、地下室のごみの中から男の白骨死体発見。死後2年以上経過したもので築地署で戦災死者として認定する
歌舞伎座は有名だからこうやって記録が残っているけれども、当時あちこちのビルの地下には、放置されたままの「戦災死者」がいたのではないでしょうか。
復興中
さて、敗戦から5年経過した1950年(昭和25)。木炭自動車の背景に、歌舞伎座が見えます。窓はぽっかり黒いままですが、正面に足場が組まれている。再開準備中でしょうか。“1950 Coal-burning Car ”
Coal-burning Car | Tokyo, 1950 photograph by my father. | Tom Smith | Flickr
再開しました
Flickrより 1952(昭27)おお、再開している。窓が黒い穴じゃない!格子がある!(再開は1951年)
敗戦から10年経過
Flickrより 1955(昭30)。隣接する出光ビルの屋上に「ガソリン」の広告がつきました。今もこのビルの屋上に同じような「出光」の看板がありますよね。木炭車の時代は、去った!?
敗戦から20年経過
時代は飛んで、1967(昭和42)。敗戦から22年経過。写真の女性たちは、かなりオトナに見えるけれど、意外とアラサーかもしれません。子供の頃の戦争体験に夜ごとうなされている人がいてもおかしくない…。“Tokyo - Kabuki-Za Theater”
“Japan, 1967” ウェルカム!の看板。
以上、歌舞伎座復興の過程でした。ちなみに歌舞伎座と明治座は、再開時期を競っていたそうです。結果、明治座が歌舞伎座よりわずかに早く再開しましたが、明治座オープンの影にはあの力道山の活躍がありました(本当)。以下の記事もあわせてぜひご覧ください。