宝塚劇場の“向かい”が気になる
日比谷のMUJIカフェが好きです。向かいに宝塚劇場が見えるから。私は宝塚にほとんど縁がないけれど、ZUCCA×ZUCA ヅッカヅカ を読んでファンの熱をうらやましく思っておりました。
さて。宝塚劇場は進駐軍に接収され、戦後10年ほど「アーニー・パイル・シアター (Ernie Pyle Theatre) 」でした。当時の写真を見ている時、いつも気になる部分があったんですよ。現在「MUJIカフェ」のあるエリアが、妙に“仮設”っぽいのです。ちなみにこの写真の左側は帝国ホテル。都会の一等地で、この仮設感。一体どういうこと?
1951 Tokoyo, Japan | jcator | Flickr
もう少し前にさかのぼると、さらに仮設度が高い。思いっきりカマボコ兵舎です。
FH000029-090104-22 | discovery2009 | Flickr
宝塚劇場と、風船爆弾
「MUJIカフェのあたりは、何だったんだ…?」
ぼんやり思いながら、数年が経過。そして先日、ようやく謎が解けました。そのエリアは超高級な中華の老舗「山水楼」だったのです。「山水楼」について、宝塚劇場で風船爆弾を作っていた女学生の回想を引用します。
昭和18年(1943)から20年3月までは学徒動員で、日比谷の宝塚劇場で風船爆弾の和紙の糊付け作業をやらされました。宝塚劇場は4階まで椅子を取り払い、すべて作業場にしました。朝8時から夜8時まで国家秘密だと言って憲兵が見張っていて、 何も話してはいけないと言われました。女の子なのにもんぺにゲートルを巻いて作業していました*1
昭和20年1月の空襲で、宝塚の向かいにある山水楼に爆弾が落ち、会合を開いていた軍部の高官の方が多数死んだということでした。 そのとき私たちは、仕事が遅れるからと憲兵が地下におろしてくれなかったので、階段の下に隠れているとガラスが降ってきました。 (横倉喜久代 昭和3年1938年生まれ)
危険な時に「仕事が遅れるからと憲兵が地下におろしてくれなかった」って、ひどい!!上記の文章に添えられていた写真を拡大すると、宝塚劇場の窓ガラスもかなり割れていることがわかります。
宝塚劇場の向かいにあった山水楼に爆弾が落ちて炎上中。昭和20年(1945)1月27日/石川光陽撮影
(炎上する山水楼を撮影した石川光陽。彼の写真集、痛恨の昭和 も機会があったらぜひごらんください。)
要人が集う中華の老舗「山水楼」
続いて『三つの祖国』(上坂冬子)にも、「山水楼」が出ているのを発見。(いままで私は、日比谷公園内の「松本楼」と混同していた…)
かつての山水楼は帝国ホテルと道一本隔てた現在の東宝劇場の真ん前にあり、延べ450坪の敷地に豪壮な日本館と洋館が並んでいた(略)大正末期から昭和10年代までの日・満・中の名だたる人々がこぞって愛用した店ということになろう。
「山水楼」には、ラストエンペラーの皇弟・溥傑、犬養毅、近衛文麿、 徳富蘇峰などが来店していたとか。
今度、日比谷のMUJIカフェに行くときには、3つのレイヤー(高級中華→風船爆弾→アーニーパイルシアター)を感じながら、お茶を飲もうと思います。
▽風船爆弾を作っていた女学生と、「大家さん」は同世代
▽獅子文六「青春怪談」(昭和29)の頃、まだ宝塚は接収されていました