みなさん、「バナー」というと何を思い浮かべますか?私は、オンラインショップの“小さい長方形”を連想します。あと、オリンピックの旗も「バナー」として売られていますね(笑)
「祝出征」のノボリはバナー?
先日、「祝入営」のノボリを“バナー”「Japanese "Going to War" banner」としている画像を見かけました。正式な呼び方かどうかわからないけれど…。おお、こういう形状はバナーの仲間なのか、と認識をあらためました。今日はそんな出征のノボリ(幟)にまつわる画像をご紹介しましょう。
▽まず昭和13年のマンガ。背景に注目してください。「祝出征 楠凸太君」。小さい子の兄が出征したのです。
▽写真だとこんな感じ。“祝入営 坂井忠義君”「出征の朝、自宅前で。昭和15年11月27日」
▽銀座の大通りにはためく、祝出征のノボリ旗(土門拳/昭和12年11月)。写真左の看板「ネクタイとワイシャツの店 モトキ」が今もある銀座モトキでしょうか。
▽このお宅は盛大に見送ったものの、送られた本人は「極度の近視で帰された」そうです。そんなことってある?
「出征」
写真は、赤坂檜町の平山さんの出征の様子を撮ったもので、昭和12年(1937)ですから、隣組や親戚、知人が集まって盛大に送りました。 (略)敗戦後になってみると、あの時帰されてよかったね、そのまま南方にでも行ったら、生きて帰れたかどうかわからなかったと話したものでした。
旗屋さん大忙し
こちらは昭和12年夏の「事変」後は、旗屋の生産が追いつかないという記事です。「出征旗」や「紙旗」が値上がりし、「暴利取締令」にふれる業者もあったとか。
事変とともに目のまわるほど忙しくなったものの一つに旗屋がある。(略)何しろ、提灯屋、葬式屋、装飾屋、手拭屋などが一斉に臨時旗屋に転業してしかも需要を満たせないというから凄まじい限りではある。
▽出征のノボリを拡大。当たり前だけど、まだ名前の部分は空白なんですね。
▽同じ頃、提灯屋さんも大忙しでした。
「祝出征」→「英霊の家」へ
『散歩が仕事』(早川良一郎)は、 カワイイ表紙とうらはらに、戦争の回想が多いエッセイ集。「祝出征」ノボリのエピソードもあったので引用します。舞台は池袋のタバコ屋、店主はとっても感じの悪い「鬼婆」です。
ある朝、鬼婆の店にノボリが出ていた。「祝出征」という召集があった家に立てるノボリであった。そういえば店の奥に若い男がいたのを見たことがあるような気もした。親ひとり子ひとりなのだろう。鬼婆も寂しいことだろう、そんなことを考えた。
その日の帰りに鬼婆の店をのぞいたら、中に大勢いて、酒を飲みながら軍歌を歌っていた。
戦争下の日々が続いて、空襲があったりした。鬼婆の家も私の家も焼けなかったので、相変わらず私は裏通りを通って通勤していた。たまに鬼婆が閉めた店の前で道を掃いたりしているのを見かけた。
そのような毎日が続いていたけれど、ある帰りのとき、鬼婆の店が葬式の幕に覆われていたので、どきっとした。「英霊の家」と木の札が読めた。戦争が負けて終わった。(『散歩が仕事』早川良一郎/文春文庫 )
「祝出征」のノボリから→「英霊の家」の木の札へ。死を境に、バナー(?)が変わる…。著者は、苦手な「鬼婆」とわざわざ話さなくても、バナーを見れば家の事情をうかがえるんですね。(このあと「戦死の公報の間違い」で、鬼婆の息子は帰ってきます。鬼婆、大喜び!よかったよかった。)
旗の再利用
余談ですが、「祝出征」の旗を再利用する記事があったのでご紹介します。
「後で利用できる歓送旗の色抜き法」
不用になった「祝出征」などの歓送旗は、次のような方法で色を抜けば、何にでも利用出来ます。木綿の旗ならば、水でドロドロに溶いた糠(ぬか)の中に、一晩くらいつけ込み、引き上げてから石鹸をつけ、棒のようなものでたたきつけるか、もし非常に大きい旗ならばタタキの上などで踏み出します。 (昭和13年2月「日の出」新潮社)
色を抜くために、棒で叩いたり踏んづけたり。 当時の洗濯法としては、普通だったのかもしれませんが「え?そんなラフに扱っていいんだ?」と、ビックリしました。大切にタンスの奥にしまうイメージだったので!
以上、出征のノボリ(バナー?)にまつわるお話でした。そういえば、今回「バナー」で検索していたらこんなBBCの記事を見つけました。映画撮影で「バナー」を使ったら、住民に緊張がはしったらしい。バナーの力…。
最後に、冒頭の漫画をもう1回貼っておきましょう。出征した「兄イちゃん」はどうなったのか?数年後、この子達はどうなるのか?昭和13年の漫画なので、子供たちの服装がまだファンシーなのもツライのです。