1985年を軸にして考えてみる
先日、「シティポップの生まれた時代は、意外と焼け野原に近い」と書きましたが、今日はその続き。敗戦から40年目の1985年を軸にして考えてみたいと思います。
「1985年8月15日」発売のムック
シティポップを聴くかぎり、1980年代の日本は敗戦とも飢餓とも無関係。すっかりアーバンに復興しています。とはいうものの、中高年の脳みそには敗戦の記憶がしっかり残っていました。これは1985年に出た『ニッポン40年前』(毎日新聞社)というムック。アメリカ人が撮影したカラー写真をもとに、1985年から「40年前」を振り返る写真集です。表紙の少年少女たちがターゲット層なんでしょうね。彼らは1985年に40代後半〜50代です。今のムックでいうと『昭和50年男』みたいな感じ?
「あなた」がうつっている写真集
『ニッポン40年前』の巻頭にはこう書かれています。
もしこの写真集の中にあなた自身の姿が写っていましたら 毎日グラフ編集部宛にご一報ください。その写真を実費で焼き増しして あなたにお送りしたいと思います
「写真を実費で焼き増しして あなたにお送りしたいと思います」という一文からわかる通り、これって歴史をお勉強する本じゃないんですね。1985年の中高年に向かって「ほら、ほら、つい昨日のことのようでしょう?なつかしいでしょう?」と語りかけているのです。
▽中をめくると、ボロッボロの服を着た子供がたくさん。この子たちも1985年には40〜50代。
▽進駐軍に群がる子供達。キャプションには「ギ・ミ・チョコ」とあります。ギブミーじゃないところがリアルな感じ。
▽子守をしながら木炭バスの燃料を拾う少年。この写真も“歴史の貴重な記録”じゃなくて、ああオレも木炭バスの燃料、拾ったー!みたいな読まれ方だったのでしょうか。
▽上野公園に住んでいる家族。子供が2人。冬が心配…。“お茶の水のガケに住む人々”を描いた獅子文六『自由学校(1950)』を思わせます。
1985年は、戦争の語り部が「中年」だった
2021年の今、戦争の記憶を持っている人=高齢者です。すでに亡くなっている方も多い。しかし1985年時点では、戦争の「語り部」たちがまだ中年でした。
▽「ニッポン40年前」(1985)対談ページには読者世代の代表、アラフィフの海老名香葉子と森本毅郎が。ふたりとも若い!子供の頃に体験した戦中・戦後の苦労をつい昨日のことのように語っています。とくに下町生まれの海老名香葉子の回想は超ハード!彼らは2021年、80代です。
「 泰葉」と「海老名香葉子」の脳内
「ニッポン40年前」の対談で、むごい思い出を語っていたアラフィフの海老名香葉子。その娘が泰葉*1というわけです。まさに、このギャップが1980年代。(ほかの例・大貫妙子の父親は特攻隊の帰還兵)。そう、シティポップの時代は、「親」と「子」で脳内の景色がぜんぜん違っていた時代なのです。
▽泰葉「フライディ・チャイナタウン」で合唱するLAの人々(2021.11.22追記)
昭和の音楽でLAの2000人が合唱する不思議な世界線に僕らは生きています。 pic.twitter.com/YSjlwzT0xL
— Night Tempo 夜韻 (@nighttempo) 2021年11月21日
1985年の「中年」対「若者」
2021年から40年前を振り返ると、大滝詠一「君は天然色」(1981)だけれど、1985年から40年前を振り返ると、そこは焼け野原なんです。(イメージ図を作ってみました)
つまり1980年代の若者にとって、実家は「戦争の語り部」(親や祖父母)が、常駐している場所、ということになりますわね。
若者がシティポップを聴いてせっかく良い気分になっているのに、実家には「語り部」が元気にスタンバイしている→若者への説教には必ず戦中・戦後の苦労話を混ぜてくる→若者はそれがイヤでますますシティポップを聴く。
そんな循環があったのではないでしょうか?(笑)ちなみに1985年、私の身内には4人の「語り部」が健在でした。今は全員いなくなったけれど…
今回ご紹介したムック『ニッポン40年前』(毎日新聞社)は手ごろな価格で買えるので、私は高齢の方にプレゼントしています。悲惨な写真は載っていないから(あえて載せていないのでしょう)、当時のお話をうかがうきっかけにもなります。みなさんもぜひ手にとってみてください。
▽「ニッポン40年前」の広告は、カメラと育毛剤。このムックが決して高齢者向けではないことがうかがえます。