敗戦間もない頃の伊勢丹で働いていた堀内誠一
もう10年くらい前の話になりますが、堀内誠一の展示「旅と絵本とデザインと」を世田谷美術館で見たことがありまして、その時の印象は「炸裂しているなあ!」でした。堀内誠一が手がけた『anan』や『平凡パンチ』のエネルギーが、とにかく炸裂していたのです。
14歳で伊勢丹の「装飾係」に
少年時代の堀内誠一は、伊勢丹の「装飾係」として働いていました。自伝『父の時代 私の時代』にはこうあります。
伊勢丹時代は14歳で入社して9年と9ヶ月続きました。はじめは半ズボン姿じゃまずいからと店員月賦で背広を揃えさせられましたが、おまけに中折れ帽をかぶったりして、ずいぶん妙な姿だったでしょう。
ここだけ読むと、うっかり“今のような新宿伊勢丹”で働く、可愛い少年をイメージしそうになりますよね?あるいは映画「キャロル」に出てきたクラシックな百貨店とか。
でも14歳の堀内誠一が働きはじめた頃の伊勢丹は、敗戦間もない1947年(昭和22)の伊勢丹なんですよ。『父の時代 私の時代』には、そんな時期の伊勢丹が“内側から”社員の視線で描かれています。
伊勢丹のショーウインドウに「砂糖」を飾っていた時代
堀内誠一が働きはじめたころの伊勢丹は、たとえばこんな感じでした。
伊勢丹の建物は戦災を免れたビルの数少ない1つでしたから、3階から上は進駐軍に接収されていました。百貨店の売り場は地階と2階までですが、まだ1階の奥には、お米の配給所がありました。衣料切符がないと手拭も買えない時代で商品自体も少なかったのです。(略)
砂糖が自由販売になったというのでショーウインドウにただ砂糖をボタ山のように飾ったりした(誰かがくすねるので山が崩れ、張り子にしなければならなかった)時代は終わりつつありました。
“ショーウインドウに、砂糖の山を飾る”って、今の伊勢丹の凝りまくったバレンタインからは想像しにくい状況です。参考までに敗戦直後の伊勢丹周辺を貼っておきましょう。新宿駅だってこんな感じなんですよ。向こうが丸見え!
▽引いてみたところ。新宿が、たいらです…
“豊かな戦前”が、冷凍保存されていた伊勢丹
敗戦後メチャクチャになっていた新宿ですが、「戦災を免れた」伊勢丹の倉庫には戦前の豊かさが保存されていました。戦前の舶来雑誌だの、戦前のマネキン人形だのがそっくり残っていたのだとか。
ある倉庫には戦前のマネキン人形置き場というか捨て場で、ジョセフィン・ベーカーまがいの金塗りの人形、アーキペンコの彫刻のような流線形の時代離れした人形たちがほこりをかぶっており、それはSF映画「スター・ウォーズ」の中古ロボットの奴隷船の中のようでした。
エンサイクロペディアの中に住んでいるようなもので、営繕係の人を別にすれば、私ほどこの建物の隅から隅までを家ネズミのようにもぐり廻って楽しんだ人間もいないでしょう。(『父の時代 私の時代』)
外は新宿のヤミ市が広がっているけれど、伊勢丹の倉庫には戦前のドリームが詰まっているという、このギャップよ…。『父の時代 私の時代』を読むと、堀内誠一が“戦前の豊かなイメージ”を栄養源にして爆進していたことがうかがえます。
【参考画像】戦前のマネキンの様子です。デパートを舞台にした小説(獅子文六『青春売り場日記』)で、マネキンを運んでいるところ。
以上、堀内誠一が勤めていた頃の伊勢丹でした。いかがでしたか。
ちなみに伊勢丹に通勤していた頃の住まいは「川崎の競馬場近くの焼け野原に立っていた引揚者アパートの一室」。天井がなく、雨漏りもひどかったそうです。堀内誠一に限らず、美しいものに敏感な若者たちが、焼け野原の日本でどうやって心のバランスがとっていたのか、不思議でなりません。脳内を満たす美しいイメージと、貧しすぎる日本とのギャップ。その落差が戦後の文化を産んだのかもしれないけれど…。
別の機会に、堀内誠一と同世代のCMディレクター杉山登志(30代で命を絶つ)についてもふれてみたいと思います。
▽「大家さんと僕」の大家さんは、伊勢丹で10代の堀内誠一とすれ違っていたかもしれません。