敗戦から『コーヒーと恋愛』までは、17年
仲間由紀恵の「トリック」(第1作は2000年)も、クドカンの「木更津キャッツアイ」(2002年)も、20年前のドラマだってご存じでした?いやあ、月日のたつのは早いものです。
獅子文六『コーヒーと恋愛』(可否道)には、なんとなく“ノンビリ、ゆったりした昭和”のイメージがありますが、新聞連載開始は1962年11月22日。*1。 敗戦から17年しかたっていないんですね。主人公がテレビタレントなので、よけい戦争からの距離を感じさせないのかもしれません。
『コーヒーと恋愛』は、意外と“焼け野原”に近い……。それを再確認できるのが新聞連載時に挿絵を手がけていた宮田重雄のエッセイです。宮田重雄は、画家であり、しかも医者でした。今日はそんな宮田重雄のエッセイ集『竹頭帖』をご紹介しましょう。
【参考画像】敗戦間もない頃の東京駅。屋根がありません。向こう側が丸っとお見通しだ!
原田治が絶賛!宮田重雄の挿絵
まず、『コーヒーと恋愛』(『可否道』)の挿絵がどんな感じだったかご覧ください。一瞬、「昭和すぎる…」と思われるかもしれません。でも、可愛いOSAMU GOODSでおなじみ原田治が、宮田重雄を絶賛していましたよ!「半世紀も前の絵なのにみずみずしくて新しい」って。→宮田重雄さしゑ展 - 原田治ノート
▽同じく宮田重雄による『青春怪談』(獅子文六)の挿絵。お背中ポッテリ💕
医師で画家。多才な宮田重雄のエッセイ集『竹頭帖』
このような挿絵を描いていた宮田重雄は、医師で、画家で、しかも人気ラジオ番組(『二十の扉』)にレギュラー出演していたとか。どれだけ多才なんだ。
彼は敗戦の年、軍需工場の付属病院(田無の中島飛行機)で院長をしていました。院長室は、「敗戦論者」が本音を言える秘密のスポットになっていたようです。以下、エッセイ『竹頭帖』より引用。
私は当時、中島飛行機附属病院の院長として、田無の工場付属の病院を建設中であった。(略)工場の技師たちは前から敗戦論者であった。科学的知識のあるものは、当然、そう考えたであろう。B29の部品を、戦利品のごとく、工場内に並べ、工員たちの士気を鼓舞しようと、軍が計画した。しかし、技師たちにはその部分がいかに良く出来ているかが手に取るように分かった。そして、代わる代わる、院長室へ来て、悲観論を私に述べた。病院の院長室だけが、憲兵の目と耳のとどかぬ場所であった。
私は映画や小説で泣かない人間ですが、「技師たちにはその部分がいかに良く出来ているかが手に取るように分かった」という箇所を読むと、いつも泣いてしまいます。
そして、迎えた8月15日。
15日は病院で陛下のお言葉をラジオで聞いた。院長として私は、皆に何か言わなければならぬので、一同の前に立ったが、言葉は声にならなかった。涙を流しぱなしにして、口をぱくぱくさしたきりであった。 虚脱状態が来た。これから日本はどうなるのだろう。
「涙を流しぱなしにして、口をぱくぱく」の「虚脱状態」から17年で『コーヒーと恋愛』。愛らしい『青春怪談』(獅子文六)にいたっては、敗戦からたった9年。
「小説を提供する側」も「読む側」も、敗戦が“ついこの前の出来ごと”だった時代なんですね。ちなみに『コーヒーと恋愛』の連載時、獅子文六は69才、宮田重雄は62才くらいです。
まとめ
以上、獅子文六の『コーヒーと恋愛』の挿絵を手がけた宮田重雄のエピソードでした。敗戦との距離感を感じていただけたでしょうか。
宮田重雄のエッセイ集『竹頭帖』は、静かな表紙から想像できないほど情報量が多いんです。「私は衆道の心得はない」としつつも“ヒットラー以前のドイツ” で、ノドボトケを持つ美女たちがいるキャバレー*2に行った経験談や、獅子文六は早めに原稿をくれるからとっても助かる!といった裏話など。おすすめです。