佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

「ビートDEトーヒ」/逃避したくなる時代と、獅子文六

獅子文六と【戦争→敗戦→どん底からの復興】

かまいたち濱家が歌っている「ビートDEトーヒ」。ダンスは可愛いけど、歌詞はけっこう暗いんですね。“ポップなビートで、トーヒ(逃避)したい。つらい現実から目をそらしたい”みたいな内容で。


「ビートDEトーヒ」。

“ポップなビートを利用して、現実から逃げたい”という願い。

同様の願いを、戦中〜戦後と満たし続けたのが、昭和の人気作家・獅子文六だったのかもしれません。

獅子文六がユーモア作家としてブレイクしたのは、40歳代前半。意外と遅いですよね。そしてブレイクしたとたんに、日中戦争がはじまります。

つまり獅子文六の40〜50代は【戦争→敗戦→どん底からの復興】という、かなり厳しい時代と重なっているのです。

ブレイクのきっかけとなったポップな『悦ちゃん』も、(現在は)痛快小説として売られている『おばあさん』*1も、実はノンビリした時代に生まれたお話じゃなかったりする。(人気作『コーヒーと恋愛』は、獅子文六が69歳頃の作品なので、今はいったん脇においておきます)。

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うすれる戦争の記憶

ところが21世紀になって戦争の記憶がうすれると、当時の“トーヒ(逃避)したい”ニーズは忘れられ、獅子文六の“ポップ”が漉されて残る。

その結果、現代の私たちには、

悦ちゃん』は(226事件から間もない頃の連載なのに*2)ポップ。

『おばあさん』は(日米開戦後の連載なのに)ユーモアいっぱい。

『自由学校』は(占領下なのに)ドタバタ愉快。

といった感じに見えてしまいがち。なので、獅子文六を読むときは、当時の読者の“トーヒ(逃避)したい”願望を、ちょっぴり脳内補完するといいんじゃないでしょうか?

 獅子文六自身も、“私の小説は「時代」が主人公で、登場人物はワキ役”*3としていることだし、ここは「主人公」=「時代」に思いをはせてみたい。

「強者のほがらかさ」と、獅子文六『自由学校』

松竹データベースより

中野翠氏が、獅子文六『自由学校』(昭和25)についてこう書いていました。

こういう、いわば強者(経済的にも知的にも恵まれている階層)のほがらかさが、一九五〇年の日本の大衆に支持されたという事実――。ちょっと不思議な気がする。(筑摩書房) - 著者:獅子 文六 - 中野 翠による書評

私も『自由学校』の強者率の高さが不思議でした。なにしろ主人公は、満鉄副総裁*4の息子でボンヤリ者だし、彼の妻もお嬢様育ち、親族は知識階級という設定なんですよ。敗戦5年目の新聞連載なのに、読者は「強者のほがらかさ」にムッとしなかったのかしら…。

しかし「ビートDEトーヒ」を聴いてからは考えが変わりました。その時代は、きっと「強者のほがらかさ」が、もとめられていたのだと。敗戦国のむごい現実から「逃避」するなら、やっぱり自分とは真逆の人物=【上流階級の昼行灯】にログインしたいじゃないですか!

▽参考画像。焼けた新宿です。逃避したいー

マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋)に加筆

▽…というわけで、獅子文六の16作品(昭和11年〜25年)を並べた冊子を作っています。ぜひごらんください。

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*1:朝日文庫『おばあさん』のカバーには「昭和初頭の家族をユーモア満点に描いた痛快小説」とあります。

*2:悦ちゃん』:昭和11年7月19日〜昭和12年1月15日『報知新聞』

*3:「一体、私の小説では、いわゆる主人公というものが、必ずしも重要ではなかったのである。という意味は、私は五百助や駒子よりも、「時代」を主人公に置いたのである。登場人物はことごとく脇役であり、極言すれば人間ではなく、人形である。」(「一長一短観」『獅子文六全集』第15巻545頁/朝日新聞社

*4:作中では「満州交通の副総裁」

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