佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

物騒な銀座と、オシャレな広告塔

オシャレな広告塔は、いつからあった?

 ここ十数年ほど、私の趣味は敗戦直後のカラー写真を見ることです。(進駐軍の子孫が、“ダッドやグランパが撮影した写真”としてネットにあげている。しかし、進駐軍が撮影する場所は限られているから、ガチな暗部はうつっていません)。

一連の写真で、以前からナゾだった点がありました。それは銀座に立っているパリみたいな広告塔。人々の服装は地味なのに、広告塔だけが妙にバブリーなんですよ。

▽銀座4丁目交差点の広告塔。和光が接収されて「TOKYO PX」になっている。

https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3165112785/

数寄屋橋にも同様の広告塔が。人が沢山いるのに、車が1台も走っていないことに注目!右の建物(日劇)は、現在の有楽町マリオンです。https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3168583931/

 この広告塔はいつ頃からあったんだろう?

ずっと気になっていましたが、先日ようやくわかりました。敗戦の翌年(昭和21)には、すでにできていたのです!『中央区年表 占領と民主化篇』(中央区京橋図書館発行・昭和57)によれば、昭和21年に「京橋・銀座・数寄屋橋の歩道にジュラルミン製の円筒広告塔設置」とのこと。

 でも、敗戦の翌年って、まだ「衣・食・住」が壊滅状態。つまりこの広告塔は、【衣食足りて→広告塔が誕生】という順番を経ていないっぽい。

▽『中央区年表 占領と民主化篇』より

中央区年表 占領と民主化篇』(中央区京橋図書館発行)

オシャレな広告塔の威力

では、同じ場所でも、広告塔が「写っている」のと「写っていない」のでは、写真の印象が全然違うというケースをご紹介しましょう。

▽【オシャレ広告塔+焼け残ったキモノ+焼け残ったビル】。つい「なアんだ、戦争はたいしたことなかったのか」と錯覚をよぶ写真です。進駐軍用の標識に書かれている「Z  AVE」は晴海通り、「5TH ST」は外堀通り

https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3165115501/

▽一方、これは上の写真と同じ場所・同時期に撮影されたもの(撮影者も同じ)。広告塔やキモノがうつりこんでいないと、「敗戦国民が迎えたキビしい冬…」といった雰囲気ですよね。広告塔が有ると無いでは印象が大違い。https://www.flickr.com/photos/32973040@N03/3078420354/

 ちなみに、空襲で焼けた歌舞伎座明治座は、敗戦から5年は閉じていました。資材を運ぶガソリンも不足しているので、「敗戦→すぐに復興」とはいかないのです。でも広告塔ならば(建物よりは)サッと作れるだろうし、インスタントな“賑わいの創出”が期待できそう。

歌舞伎座明治座の復興エピソードはコチラ

narasige.hatenablog.com

物騒すぎる銀座

 今回ご紹介した『中央区年表 占領と民主化篇』には、敗戦直後(昭和20-24)の混乱エピソードが目白押し。とにかく銀座の治安の悪さに驚かされます。まず「衣・食・住」がグチャグチャだし、やれ強盗だ、やれ殺人だ、飛び降りだ、と、かなり物騒なのです。そのせいか、この本ではあの「下山事件」(昭和24)でさえアッサリした扱い。

下山国鉄総裁、乗用車で国鉄本庁に当庁の途中 日本橋三越に入ったまま行方不明となる

と、たったこれだけ!国鉄総裁が怪死した大事件も、一般の事件と等しく並んでいます。

 わたしは最近、「体感治安」という言葉を知りましたが、この時期の銀座も相当なものだったらしい。というか物騒だったからこそ、オシャレな広告塔で夢を見たかったのかもしれません。

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