昭和の人気作家、獅子文六の『虹の工場』*1(新潮社『日の出』昭和15年1〜12月連載)は、いわば戦時ラブコメです。
【巨大な工場のお坊ちゃま】と【小さな工場の職工】が、ひょんなことから同じ女性(歓楽街の女給)を好きになってしまうお話で、舞台は工場地帯の「蒲田」。
蒲田の歓楽街と、日中戦争
「え?戦争中にラブコメが成立するの?蒲田で?」と思われるかもしれませんが、これがギリギリ成立しているんですね。
『虹の工場』の舞台・蒲田(作中では「萱田」*2)は、「工場景気」で大にぎわい。
この「北支の炎天に銃声が響く」は昭和12年7月7日の盧溝橋事件をさしています。以後、「京浜間の一小駅」にすぎなかった蒲田に「忽然として工場街」が出現するのでした。
【参考】これが蒲田のイメージ。雑誌の軍需工場特集でトップを飾るのは「蒲田区」の三菱重工業です。
華やかな工場景気に沸く蒲田では、「十万余人の職工さん」をターゲットにした夜の街が爆誕。女給を抱え入れたバーやキャフェが激増し、蒲田は「大いに生産する代わりに、大いに消費する街」へと変貌します。
『虹の工場』の純情なヒロインも、蒲田に乱立する「新興喫茶」で働いている女給。喫茶といってもメインは安酒だし、新興喫茶の経営者は「ならずもの」だったりするのですが…。
設定がむずかしい戦時コメディ
『虹の工場』の連載は日中戦争の最中なので、ラブコメのバランスがとてもむずかしい。主要な男性キャラが(この時点では)出征していないという前提で、ようやくコメディの形を保っているのです。
- まず、巨大な工場の御曹司は、超虚弱体質で「徴兵検査丙種」。「銃をとって、軍国のお役に立ちたくても」、それができない青白きインテリ青年。
- 一方、御曹司の恋のライバル=「職工さん」は、若くて健康なのに「どうしたわけか、兵役も補充兵に回され」ている状態。
身分の異なる2人の青年が同じ女性を愛してしまう…。ラブコメによく見られる設定ですよね。
しかし、この時代〈若者が、国内でウロウロしている〉という状態に、言いわけが必要なのです。「職工さん」も、意識の高い長野*3から上京してきた、意識の高い青年、という点が強調されてる。しかしそんな彼が出征してしまうと、そこでストーリーが終わる可能性大。実際、『虹の工場』と同時期の獅子文六作品『娑羅乙女』や『女給双面鏡』は、主役が出征したタイミングでいきなり物語が終わっています。
【参考画像】徴兵検査
一目見て 甲種ときめた 好い体
今こそ読んでほしい戦時コメディ
『虹の工場』は戦意高揚系の雑誌(新潮社『日の出』*4)に連載されていました。そのためか戦争の暗部を最小限に抑えたエンタメ小説になっています。たとえば
- 蒲田のマダムたちは三越でお買い物
- 蒲田の歓楽街は、金を持った職工=「産業戦士」で超満員
- 大工場の御曹司は、軽井沢の万平ホテルでディナー
と、すごく景気がいい。一方、時々ネタはどんどん放り込まれているので、コメディを読みながら「興亜奉公日」「代用皮革」「北満拓士団」といった戦時中の言葉をスルスル覚えることができるというわけ。
残念なことに、未来人の私たちは『虹の工場』を手放しで楽しむことはできません。たった数年後の日本が焼け野原になるのを知っているから。特に工場は空襲の標的になったから。しかしだからこそ、今『虹の工場』を読んでほしいのです。『獅子文六全集・第3巻』(朝日新聞社)に収録されているので、ぜひ。
【参考画像】『虹の工場』が連載されていた新潮社『日の出』の巻頭漫画。欧州大戦勃発のニュースにヒトゴト感が漂っています。
*2:「京浜間の一小駅、萱田の名が、次第に世間へ知れてきたのは、なんといっても大竹映画の撮影所ができた頃のことで、日本の聖林(ハリウッド)とかなんとか、一時はさわがれたこともあった」『虹の工場』
*3:主人公の青年の故郷は、長野県という設定。多数の満蒙開拓団を送り出した県なのです。「彼の郷里長野県は、不思議な国で、その昔、社会思想が風靡した時代には、農民の自覚が最も鋭い地方として、有名だったが、事変以来、澎湃たる愛国の熱情が県下に漲って、北満の野に、一村移住の拓士団を、いち早く送り出した事は、世間の知るとおりである」『獅子文六全集第3巻』「虹の工場」116頁