覚醒剤と『食べ物さん、ありがとう』
著名人が、戦時中「別の顔」を持っていて驚くことはありませんか?(有名な例:大政翼賛会にいた花森安治*1)
今日は『食べ物さん、ありがとう』(1986 朝日新聞社)*2で人気だった栄養学の「川島先生」こと、川島四郎の戦時中を紹介しましょう。
以前『ヒロポンと特攻』(2023)という本を読んで、戦時中の覚醒剤入りチョコレート開発に、川島四郎が関わっていたことを知りました。
まさか『食べ物さん、ありがとう』の「川島先生」が?とビックリ。『食べ物さん、ありがとう』は、偏食だった私の母が読んでいた本なのです。読んでも偏食は治らなかったけれど…
以下は『ヒロポンと特攻』より、川島四郎の指示で「ヒロポン入りのチョコレート」を開発した岩垂荘二(陸軍航空技術研究所)の証言です。
昭和 18年頃だったと思う。ドイツ空軍がヒロポン入りのチョコレートを航空勤務者用として製造して飛行士に食べさせ、効果が大いにあがっているという報告が飛び込んで来た。 川島大佐は鬼の首でもとったような顔をして私のところへこの情報をもってきて、「おい、岩垂、直ぐにつくって、航空糧食として補給したい」と命令していったのを覚えている。(略)今考えると、とんでもない、おそろしい機能性食品である。
▽あの川島先生が「おそろしい機能性食品」を手がけた?まさか、まさか。
お土産は、覚醒剤入りチョコレート
ところが、先日たけうちさんのツイートで知った『勢津子おばさんの青春物語』(主婦の友社 1989 )という自伝を読んでいたら、またもや《川島先生と覚醒剤入りのチョコレート》の組み合わせが出てくるではありませんか。ああ川島先生、やっぱり?
著者の西川勢津子は家事評論家として知られていますが、戦時中に日本女子大を卒業し*3、陸軍糧秣廠という「兵士や軍馬の食べるものを補給する」組織で、「疲労防止食」の研究をしていました。いわば陸軍糧秣廠の【中の人】。
以下は、「陸軍航空技術第七研究所」所長である川島四郎と、若き日の「勢津子おばさん」@立川の様子です。
昭和18年私が糧秣廠に入ったときには、もうすでに立川にあった陸軍航空技術第七研究所の所長になって糧秣廠にはいらっしゃいませんでした(略)私は立川の川島閣下の所へ書類を持ってお使いに行ったことがありました。立川では岩垂技師というこれまた糧秣廠出身の軍属の方のお部屋に行き用事を済ませてから、川島閣下のところへ挨拶に行きます。そこで丸い棒状の特殊航空チョコレートというのをお土産にいただいたことがあります(略)。
この中にはビタミンB2複合体の他に、“覚醒剤”も入れてあり、居眠りを防止する作用もありました。このチョコレートは、ナガサキヤで作って航空隊の手に渡りました。日本中のココアはナガサキヤに集結したといいます。(『勢津子おばさんの青春物語』199ページ)
引用文中の「岩垂技師」は、『ヒロポンと特攻』に出てきた岩垂荘二のことでしょう。まさに川島四郎の命令で覚醒剤入りチョコレートを開発した人です。
覚醒剤入りチョコレートを「とんでもない、おそろしい機能性食品」とよぶ岩垂技師。一方、ほっこりエピソードの中にサラっと書いてしまう「勢津子おばさん」。両者の温度差が気になるところです。*4
【参考】若き日の「勢津子おばさん」が「川島閣下」(川島四郎)に挨拶した、立川の陸軍航空技術研究所。現在は昭和記念公園になっている。
覚醒剤とスケトウダラの目玉入りのチョコレート
さて、『勢津子おばさんの青春物語』では、「特殊航空チョコレート」の材料として
が挙げられていました。なんという組み合わせ…
スケトウダラの目玉にはビタミンB2複合体が豊かに含まれていますので、この目玉から抽出したものを入れてありました。当時、朝鮮半島ではキムチにたくさんのスケトウダラを使いましたが、頭は切り捨てて使いませんでした。ですから、その廃物利用にできたチョコレートでした。“夜間視力増強食”とやら言いました。この中にはビタミンB2複合体の他に“覚醒剤”も入れてあり、居眠りを防止する作用もありました。(『勢津子おばさんの青春物語』199ページ)
たしかに、「第七陸軍航空技術研究所」によるチョコレートのレシピ:【夜間視力増強食製造仕様書】(国立公文書館)を見ると、原料として
が並んでいる!
陸軍糧秣廠勤務だった「勢津子おばさん」の回想は、本当だったのですね。(※原料の13番目にチョコレート、14番目にカカオと続きます)
▽「夜間視力増強食製造仕様書 昭和19年7月15日」(第七陸軍航空技術研究所)を抜粋、加筆
▽包装の紙箱も記載されていました(「夜間視力増強食製造仕様書 昭和19年7月15日」第七陸軍航空技術研究所)
「切腹」をこころみる川島先生
さらに『川島四郎・九十歳の快青年』(文化出版局 1983)という本も読んでみました。するとそこには川島四郎が敗戦直後に「切腹」しようとしたエピソードがあったのです。
著者は川島四郎と関係が深かった雑誌編集者・山下民城。戦時中に、たびたび『主婦之友』*6で川島四郎の特集を組んでいたのだとか。その原稿を立川の陸軍航空技術第七研究所(所長=川島四郎)までに取りに行っているし、リアルタイムで知覧の特攻隊員も取材している。
つまり、かなりの事情通。
そんな著者が「川島さん」に切腹の理由を聞いてみたところ、「生きているのがイヤになったからですよ」という、とてもアッサリした答えがかえってきました。
川島さんが切腹しようとしたのも「自分の作った元気酒で、あたら若い命を多数失わせてしまった。その申し訳のために…」という気持ちがあったのではないか、と気を回していたのだった(略)
しかし、みごとに背負い投げを食ってしまった。
「生きているのがイヤになったからですよ」
じつに明快そのものである。気負いもなければ、センチメンタルリズムもない。まして、虚栄とか、みえなんてものは影もない。やはり、人間が枯れ切っておられるんだな…と思わざるを得なかった。
……川島四郎をほめているのか、告発しているのか、よくわからない文章ですが、著者としては、《自分のせいで多くの若者が死んだ。ごめんなさい》的な回答を予想していただけに、拍子抜けしたのでしょう。
ちなみに引用文中にある「元気酒」は、大貫妙子の父の本『特攻隊振武寮』(朝日新聞社2018)にも「ヒロポン」入りの酒として記されています。*7
『川島四郎・九十歳の快青年』は秘話が満載なので、機会があったらぜひ読んでみてください。
▽著者は知覧の特攻隊員から「特派員殿」と呼ばれ、食事をともにしています。
以上、覚醒剤入りチョコレートと「川島先生」について紹介しました。今回『食べ物さん、ありがとう』(1986 朝日新聞社)を読み返してみて、ようやく気づいたことがあります。それは漫画家のサトウサンペイが川島四郎に対して「人体実験」という言葉を使っていたこと。
言葉は悪いが、「ヘイタイサンたち」という集団を使って人体実験ができた、またとない好運にして貴重な学者だともいえる。対談をしているううちに私をはじめ、周りの人がみな先生のファンになった。
『食べ物さん、ありがとう』が出た1986年といえば敗戦から40年。敗戦時に20歳だった「ヘイタイサン」(兵隊さん)なら、まだ60歳そこそこですよね。人体実験を生き延びた「ヘイタイサン」たちも、『食べ物さん、ありがとう』を読んでいたのでしょうか。
【参考】「立川基地出発の特別攻撃隊」(1945)。美人画の岩田専太郎が描いているため、特攻隊員が驚くほどイケメンで長身です。先述のとおり、立川には川島四郎が所長をつとめる陸軍航空技術第七研究所がありました。
*1:当ブログの過去ログ「翼賛会の花森さん」もあわせてごらんください
*2:単行本『食べ物さん、ありがとう』は1985 保健同人社
*3:本当は東京女子大の数学科か女子医専に行きたかったけれど、親に反対されたとのこと
*4:『勢津子おばさんの青春物語』の著者は幼い頃から、ラジオを通じて大の川島四郎ファンでした。私はてっきり「川島先生」は、戦後の飽食の時代に見出されてブレイクした方だとばかり思っていましたが、戦前からラジオの人気者だったのですね。ちなみに「勢津子おばさん」の父親は、川島氏が通っていた東大の農芸化学科卒
*6:戦争末期の『主婦之友』については、当ブログの過去ログをごらんください 戦争末期の「あたしバカだからさあJAPAN」【獅子文六『一号倶楽部』】
*7:「長距離飛行の途中で眠くならないようにとヒロポン入りの酒まで用意されており、「元気酒」と名づけられていました。」—『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た (朝日文庫)』大貫 健一郎, 渡辺 考著