佐藤いぬこのブログ

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大人のディズニーランド、永井荷風、清洲橋

中洲(中央区日本橋)は大人のディズニーランド?

【大吉原展】がSNS話題になっています。吉原を「遊園地」と勘違いしていませんか?と。

 大吉原展の「遊園地」たとえで、ふと思い出したのが、東京中央区のお年寄りの対談集に出てきた[中洲は大人のディズニーランド]という表現。

「中洲」というのは箱崎シティエアターミナルの近くで、住所は「中央区日本橋中洲」です。かつては「中洲」は、文字通り「洲」でしたが、現在は埋め立てて陸続きになっています。

 

中央区の昔を語る(15)』(中央区教育委員会・平成13)より「中洲」の部分を引用してみましょう。

「中洲というのは、うちのばあさんも言ってたけど、昔は大人のディズニーランドみたいなところだったんですよね。要するに、きれいなお姉さんがいて、お酒があって、だから遊び人の街だった。」

 

「昔、中洲には18歳未満の青年は入れなかった。」

中洲って、川を渡ると、材木商の大だんなとかいっぱいいるじゃないですか。そういうところで、遊女の髪の毛で、金の針で、こっちに遊女がいて、左に太鼓持ちがいて、海たなごっていうのかな、あれを釣るのは、1種のレクリエーションだったって。」

 「川を渡ると、材木商の大だんな」という部分、すごく古くさい印象かもしれません。しかし1980年の映画「わるいやつら」には、深川の「材木問屋の若奥さま」が主要人物として出てくるんですよ。シティポップの時代にも「材木商の大だんな」は存在していたらしい。

「中洲」に通院する永井荷風

 で、そんな大人のディズニーランド「中洲」には、永井荷風が通う「病院」もありました。昭和10年の地図を見ると、まさにランドの中に「病院」が建ってるイメージ。濃い黄色(もとから着色有り)で塗られている部分は、ずらり料亭です。

中央区沿革図集(日本橋篇)』(中央区教育委員会)に加筆

先ほどの『中央区の昔を語る(15)』にも、永井荷風と「中洲病院」が出ていました。

「これは中洲病院です。その後、糸川病院って名前が変わったんですよね」

 

「中洲病院のふもとというのが、うちのばあちゃまがよく言ってたけど、よく永井荷風なんかが梅毒の検査に来てて、大丈夫だってなると、病院の院長と一緒に、また性懲りもなく、深川に遊びに行っちゃう。その繰り返しだったって。」

 

「うちの前を、すごく背の高い方だったらしくて、フラフラ歩いて通っていったって話を聞きましたけどね。」

大人のディズニーランドにかかる橋

 そんな大人のディズニーランド「中洲」にかかっている橋は、とても美しい「清洲橋」です。

清洲橋は、完成した昭和3年から→21世紀の現在に至るまでステキな橋として有名。小津映画にも出てくるし、去年公開の(スタイリッシュすぎて恥ずかしくなる)映画でも、主人公は清洲橋をのぞむ高級マンションに住んいましたっけ。

清洲橋  川瀬巴水版画集 1より

清洲橋 昭和6年2月(1931) 川瀬巴水

  しかし、清洲橋がどんなに綺麗でも「大人のディズニーランド」へのメインゲートだとわかれば、見方が変わるというもの。

昔の男性の目にうつる清洲橋は(期待と興奮で)、キラキラというよりギラギラ輝いていたのかもしれません。

ちょうど『翔んで埼玉2』で、ディズニーランド直結の乗り物=「武蔵野線」が、ギラギラ輝いていたように。

▽『翔んで埼玉2』エンディングの武蔵野線をうろ覚えで再現してみました。清洲橋もこんなイメージだったのか?

永井荷風の随筆から。行きつけの「中洲病院」の脇に、新しい橋(※清洲橋のこと)が架かるのを楽しみにしている様子がうかがえます。(国会図書館デジタルコレクション『荷風随筆』から「中洲病院を訪ふ」より)

「病院の傍には遠からず深川に渡る新橋が架せられるので」…

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