名前に「満洲」が入っている池田満寿夫
あの森茉莉がエッセイ*1で「上等の庶民芸術家」と絶賛していた池田満寿夫。私が知っている池田満寿夫の情報といえば、
ですが、今日は【満洲生まれ】の部分について紹介します。
池田満寿夫は「満洲」生まれ→「内蒙古」育ち
池田満寿夫は、昭和9年(1934)に満洲の奉天で生まれました。新潮社『満洲 昨日今日』(1985)より池田満寿夫の文章を引用します。
当時、中国東北部が日本帝国の介入で満洲と言われていた頃、満洲で生まれた子供に満洲男とつけるのが流行った。私の満寿夫も音は満洲男から来ている。洲にせず寿にしたのは名付け親とされている叔父の発案である。
この時代、満洲生まれの男子は「満洲男」(ますお)と命名されがちだったのですね。
さらに池田満寿夫は、5歳ごろ内蒙古の「張家口」に移住しています。
▽「蒙古張家口にて 1943年 9歳」
内蒙古と「軍隊相手のカフェー」
内蒙古の「張家口」ってどこ?
なぜ、そんな遠そうな場所に移住を?
…と思ってしまいますが、両親が張家口で「軍隊相手のカフェー」*2を経営していたのだそうです。以下は池田満寿夫『日付のある自画像』 (1977年・講談社) の「自作年譜」から
1938年・昭和13年・4歳
この年か、翌年ごろ、蒙疆の首都 張家口へ両親が移住。 当時、張家口には数百人の邦人しか住んでいなかった。両親は軍隊相手のカフェー・ホマレを経営。盛時には20人近い女給がいた。(略)
1940年・昭和15年・6歳
生活環境すこぶる悪く、父は賭博と麻薬にすごしほとんど不在。母はカフェー経営を嫌い理髪店を開業するが、経営好ましくなく2年で閉鎖。
「盛時には20人近い女給がいた」というカフェー。
池田満寿夫がエーゲ海で美女に囲まれても、くつろいだ笑顔をみせているのは、この「カフェー」に理由があるのかもしれません。
▽「張家口」の位置。満洲出身の漫画家たちの地図(平和祈念資料館/撮影可)に張家口が出ていたので拝借しました。
ウルトラマンの実相寺昭雄と「張家口」
池田満寿夫は敗戦まで「張家口」にいましたが、実はもう1人、敗戦を張家口で迎えた少年がいます。それは『ウルトラマン』等で知られる実相寺昭雄(昭和12年・1937生まれ)
東京出身の実相寺昭雄は、「張家口公使館*3」→⬜︎へ転勤(昭和19年)になった父親についていき、張家口の小学校に編入したのだとか。実相寺昭雄の自伝的エッセイ『昭和電車少年』(ちくま文庫)によれば、父親は日本銀行→興亜院→大東亜省→張家口公使館の順で勤めています。
昭和53年の夏、日立の提供する大河ドラマ用の長尺コマーシャルの撮影で、私はローマに行った。池田満寿夫さん出演のコマーシャルを演出するためである。ちょうど、池田さんは初めての監督作品『エーゲ海に捧ぐ』を撮影中で、その合間を縫って撮影させていただいた。(略)その折りに、あれこれ雑談をした中で、池田さんも張家口育ちだったと言うことを知り、驚いた。いちど、一緒に再訪しよう、と言う話になり、握手をした。(『昭和電車少年』)
昭和53年(1978年)といえば、池田満寿夫は44歳、実相寺昭雄は41歳くらい。
少年時代に張家口ですれ違っていたであろう2人が、大人になってから出会うとは!
しかもローマで!長尺コマーシャルの撮影中に!
なんとも昭和感があふれたエピソードではありませんか。デラックスと敗戦が混ざりあっている。
2024年から昔を回想すると“あの頃はまだイオンじゃなかった。 ジャスコだった”*4レベルになりがちですが、昭和の激動は凄まじいものがあります。
昭和の文化を作っていた人たちの脳内には、私たちが知らない時間と空間が広がっていたのですね。
それぞれの引き揚げ
最後に「引き揚げ」の苦労について少しだけふれておきましょう。池田満寿夫『日付のある自画像』 (1977年/講談社) の「自作年譜」から。
1945年(昭和20)11歳
敗戦。8月20日、無蓋の貨物列車に積込まれて母と張家口脱出。父は前年現地召集を受け、北支の奥地部隊へ配属されていたので不在。
8月25日北京着。北京市内と天津市内の邦人収容所転々とする。天津で脱走してきた父と奇跡的な再会。
しかし、日本への引揚直前、父は戦犯容疑者として帰国命令が出ず、12月初旬、母と2人だけで米国上陸用艦艇で帰国。 佐世保港に着く。12月23日郷里長野市に到着。親戚の家に寄寓する。
1946年( 昭和21 )12歳
2月、父が突然帰京する。両親はいわゆるカツギ屋に専念。長野・東京間をヤミ物資の運搬で生計を立てる。私も時々手伝わされた。
▽1977年(昭和52)の池田満寿夫と夫人。戦後生まれのおにいさんに見えるけれど。撮影:吉田ルイ子
一方、実相寺昭雄は父親が役人だった関係もあり、いち早く「張家口」から脱出することができました。そして、引揚船から日本が見えた時のことを『昭和電車少年』でこう記しています。
上陸地の南風崎近く、九十九島の松を戴く島々を目の前にして、わたしは戦に敗れた日本に見惚れていた。盆栽か箱庭のように美しい、と思ったのだ。内蒙古の禿山とは違う緑が目に染みた。
実相寺昭雄の『昭和電車少年』(ちくま文庫)には、先述した池田満寿夫のエピソードのほかにも、繰り返し「内蒙古の張家口」が登場します。大日本帝国に育った子供の脳内地図がうかがえるので、ぜひ読んでみてください。
【参考】内蒙古の位置がわかる地図。婦人雑誌の付録「ひと目でわかる支那事変と日ソ関係絵地図」(婦人倶楽部昭和12年11月号)です。人気画家*5が可愛い地図を描いている。母と子が一緒に見る地図なのでしょう。グーグルがない時代でも「ボクのお父さんは、今度、内蒙古に転勤になったよ」とクラスメイトに説明できそうですね。
*2:『池田満寿夫 20年の全貌』美術出版社1977年「イケダは4歳まで、奉天にいた。昭和12年の支那事変で、張北、張家口へと移動、5歳ごろから終戦を迎える小学6年まで、両親は張家口で「ホマレ」というカフェーをひらいていた。「ホマレ」には10人から15人の女給がいた。客ダネは、兵隊と軍属に限られていた。幼いイケダは、 母親より、むしろ店の女給たちに親しみ、可愛がられた。女給たちの間や、女給たちと客とのあいだで、とり交わされる好ましくないことばを、早くから覚えた。そのために、池田は、7歳ごろから、この世の男と女の関係の全てを知っていた。」
*3:『昭和電車少年』295ページ:「私の記憶では、公使館官舎と呼んでいた気がするのだが、ものの本を当たってみると、初期は興亜院蒙疆連絡部とあり、その後大東亜省在張家口大使館とあるから、大使館官舎が正しいのだろう」
*4:ドラマ『ブラッシュアップライフ』から
*5:石田英助