エーゲ海と内蒙古【池田満寿夫・実相寺昭雄】

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

名前に「満洲」が入っている池田満寿夫

 あの森茉莉がエッセイ*1で「上等の庶民芸術家」と絶賛していた池田満寿夫。私が知っている池田満寿夫の情報といえば、

  1. モジャモジャ頭
  2. エーゲ海に捧ぐ』の作者
  3. 満洲生まれ

ですが、今日は【満洲生まれ】の部分について紹介します。

池田満寿夫エーゲ海。引用元:文春オンライン

池田満寿夫は「満洲」生まれ→「内蒙古」育ち

 池田満寿夫は、昭和9年(1934)に満洲奉天で生まれました。新潮社『満洲 昨日今日』(1985)より池田満寿夫の文章を引用します。

 当時、中国東北部が日本帝国の介入で満洲と言われていた頃、満洲で生まれた子供に満洲男とつけるのが流行った私の満寿夫も音は満洲男から来ている。洲にせず寿にしたのは名付け親とされている叔父の発案である。

私は昭和9年2月23日に旧満洲の旧奉天で生まれた。

この時代、満洲生まれの男子は「満洲男」(ますお)と命名されがちだったのですね。

さらに池田満寿夫は、5歳ごろ内蒙古の「張家口」に移住しています。

▽「蒙古張家口にて 1943年 9歳」

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

内蒙古と「軍隊相手のカフェー」

内蒙古の「張家口」ってどこ?

なぜ、そんな遠そうな場所に移住を?

…と思ってしまいますが、両親が張家口で「軍隊相手のカフェー」*2を経営していたのだそうです。以下は池田満寿夫日付のある自画像』 (1977年・講談社) の「自作年譜」から

1938年・昭和13年・4歳

この年か、翌年ごろ、蒙疆の首都 張家口へ両親が移住。 当時、張家口には数百人の邦人しか住んでいなかった。両親は軍隊相手のカフェー・ホマレを経営。盛時には20人近い女給がいた。(略)

 

1940年・昭和15年・6歳

生活環境すこぶる悪く、父は賭博と麻薬にすごしほとんど不在。母はカフェー経営を嫌い理髪店を開業するが、経営好ましくなく2年で閉鎖。

「盛時には20人近い女給がいた」というカフェー。

池田満寿夫エーゲ海で美女に囲まれても、くつろいだ笑顔をみせているのは、この「カフェー」に理由があるのかもしれません。

▽「張家口」の位置。満洲出身の漫画家たちの地図(平和祈念資料館/撮影可)に張家口が出ていたので拝借しました。

平和祈念資料館の地図(撮影可)に加筆 https://www.heiwakinen.go.jp

ウルトラマン実相寺昭雄と「張家口」

 池田満寿夫は敗戦まで「張家口」にいましたが、実はもう1人、敗戦を張家口で迎えた少年がいます。それは『ウルトラマン』等で知られる実相寺昭雄昭和12年・1937生まれ)

 東京出身の実相寺昭雄は、「張家口公使館*3→⬜︎へ転勤(昭和19年)になった父親についていき、張家口の小学校に編入したのだとか。実相寺昭雄の自伝的エッセイ『昭和電車少年』(ちくま文庫)によれば、父親は日本銀行→興亜院→大東亜省→張家口公使館の順で勤めています。

 昭和53年の夏、日立の提供する大河ドラマ用の長尺コマーシャルの撮影で、私はローマに行った。池田満寿夫さん出演のコマーシャルを演出するためである。ちょうど、池田さんは初めての監督作品『エーゲ海に捧ぐ』を撮影中で、その合間を縫って撮影させていただいた。(略)その折りに、あれこれ雑談をした中で、池田さんも張家口育ちだったと言うことを知り、驚いた。いちど、一緒に再訪しよう、と言う話になり、握手をした。(『昭和電車少年』)

 昭和53年(1978年)といえば、池田満寿夫は44歳、実相寺昭雄は41歳くらい。

少年時代に張家口ですれ違っていたであろう2人が、大人になってから出会うとは!

しかもローマで!長尺コマーシャルの撮影中に!

なんとも昭和感があふれたエピソードではありませんか。デラックスと敗戦が混ざりあっている。

 2024年から昔を回想すると“あの頃はまだイオンじゃなかった。 ジャスコだった”*4レベルになりがちですが、昭和の激動は凄まじいものがあります。

昭和の文化を作っていた人たちの脳内には、私たちが知らない時間と空間が広がっていたのですね。

それぞれの引き揚げ

 最後に「引き揚げ」の苦労について少しだけふれておきましょう。池田満寿夫日付のある自画像』 (1977年/講談社) の「自作年譜」から。

1945年(昭和20)11歳

敗戦。8月20日、無蓋の貨物列車に積込まれて母と張家口脱出。父は前年現地召集を受け、北支の奥地部隊へ配属されていたので不在。

8月25日北京着。北京市内と天津市内の邦人収容所転々とする。天津で脱走してきた父と奇跡的な再会。

しかし、日本への引揚直前、父は戦犯容疑者として帰国命令が出ず、12月初旬、母と2人だけで米国上陸用艦艇で帰国。 佐世保港に着く。12月23日郷里長野市に到着。親戚の家に寄寓する。

 

1946年( 昭和21 )12歳

2月、父が突然帰京する。両親はいわゆるカツギ屋に専念。長野・東京間をヤミ物資の運搬で生計を立てる。私も時々手伝わされた。

▽1977年(昭和52)の池田満寿夫と夫人。戦後生まれのおにいさんに見えるけれど。撮影:吉田ルイ子

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

 一方、実相寺昭雄は父親が役人だった関係もあり、いち早く「張家口」から脱出することができました。そして、引揚船から日本が見えた時のことを『昭和電車少年』でこう記しています。

上陸地の南風崎近く、九十九島の松を戴く島々を目の前にして、わたしは戦に敗れた日本に見惚れていた。盆栽か箱庭のように美しい、と思ったのだ。内蒙古の禿山とは違う緑が目に染みた。

 実相寺昭雄の『昭和電車少年』(ちくま文庫)には、先述した池田満寿夫のエピソードのほかにも、繰り返し「内蒙古の張家口」が登場します。大日本帝国に育った子供の脳内地図がうかがえるので、ぜひ読んでみてください。

【参考】内蒙古の位置がわかる地図。婦人雑誌の付録「ひと目でわかる支那事変と日ソ関係絵地図」(婦人倶楽部昭和12年11月号)です。人気画家*5が可愛い地図を描いている。母と子が一緒に見る地図なのでしょう。グーグルがない時代でも「ボクのお父さんは、今度、内蒙古に転勤になったよ」とクラスメイトに説明できそうですね。

 

*1:森茉莉『私の美の世界』

*2:池田満寿夫 20年の全貌』美術出版社1977年イケダは4歳まで、奉天にいた。昭和12年支那事変で、張北、張家口へと移動、5歳ごろから終戦を迎える小学6年まで、両親は張家口で「ホマレ」というカフェーをひらいていた。「ホマレ」には10人から15人の女給がいた。客ダネは、兵隊と軍属に限られていた。幼いイケダは、 母親より、むしろ店の女給たちに親しみ、可愛がられた。女給たちの間や、女給たちと客とのあいだで、とり交わされる好ましくないことばを、早くから覚えた。そのために、池田は、7歳ごろから、この世の男と女の関係の全てを知っていた。」

*3:『昭和電車少年』295ページ:「私の記憶では、公使館官舎と呼んでいた気がするのだが、ものの本を当たってみると、初期は興亜院蒙疆連絡部とあり、その後大東亜省在張家口大使館とあるから、大使館官舎が正しいのだろう」

*4:ドラマ『ブラッシュアップライフ』から

*5:石田英助

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