▲サムネイルは、canvaで“マルチバース”を検索をして(笑)作りました。
戦時中の虚弱青年に『エブエブ』的な「分岐」が起こったら…
映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』に〈宇宙の分岐〉みたいな図が繰り返し出てきましたよね。
▽中央に主人公エヴリン(ミシェル・ヨー)の名前が。
今回、私も小さな〈分岐〉の物語を二次創作してみました。元ネタは昭和の人気作家・獅子文六が日米開戦の翌年に書いた『海軍』という小説です。キーワードは【国策宣伝/資生堂/暮しの手帖】といったころでしょうか。国策宣伝にまつわる過去ログのインデックスにもなっていますので、ぜひごらんください。
【分岐前】資生堂を辞めて、海軍省へ
まず「分岐前」の元ネタ・獅子文六『海軍』(昭和17年 朝日新聞連載)を簡単に紹介しましょう。『海軍』は、戦時中の少年たちが自分の適性を探す(国策に沿った)小説でもあるのです。
小説『海軍』の副主人公・牟田口隆夫は、鹿児島の男の子。親友(主人公)と一緒に海軍士官を目指していますが、残念ながら彼はカラダが弱かった。隆夫くんは泣く泣く海軍をあきらめ、画家を目指すことに。画家といっても、その題材は大好きな「軍艦」一択なんですけれどね。一方、健康な親友(主人公)は、順調に軍人への道をすすみます。
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鹿児島から上京した隆夫くんは、軍艦の絵を研究しつつも、生活のために資生堂の宣伝部で働いています。*1(※作中では資生堂=「巴里堂」)
ちょうど日中戦争がドロ沼化している時期です。隆夫は、“今は国家の非常時だ。資生堂でバイトしている場合じゃない”と、資生堂を辞めてしまう。
そして画(軍艦)の修行に集中した結果、めでたく画家として海軍省に採用されることに。つまり隆夫は、当初の目標だった軍人とは別コースではあるけれど、憧れの海軍で働くことができたのです。ああ隆夫くん、とうとう願いがかなってよかったね、おめでとう。となるはずですが、結果、彼は大親友である主人公(真珠湾攻撃の軍神)の最期を描くはめに…。
と、ここまでが小説『海軍』のあらすじ。昭和17年(1942)の新聞連載なので、親友の「海軍葬」で小説は終わっています。
【分岐のあと】資生堂を辞めなかった場合を妄想してみた
そして、以下は私の考えた、プチ〈分岐〉後の世界です。もし『海軍』の副主人公・隆夫くんが、資生堂の宣伝部を辞めずに、そのまま働いていたらどうなったでしょうか?敗戦を経て1980年まで想像したのでごらんください。途中、根拠となりそうな過去記事を貼っています。
1941年(23歳) 日米開戦/花森安治との出会い
隆夫くんは、銀座の資生堂宣伝部で働きながら、家でコツコツと軍艦を描いています。いつかは軍艦の画で身をたてるつもりなので、資生堂を辞めるタイミングをうかがってるところ。休日は原宿の「海軍館」に通い、展示されている海洋画の研究に余念がありません。
ところが1941年(昭和16)の2月、資生堂ギャラリーで、異色のイベント「太平洋報道展」がおこなわれることになったのです*2。【←本当】
▽これが「太平洋報道展」@資生堂ギャラリーの様子。「一億進軍の時来る!」「アメリカは近づく!」「アングロサクソンの執拗な侵略搾取」などの文字がおどっていて、資生堂とのギャップがすごい。
この異色イベントの準備に、資生堂は大わらわ!美人のイラストで知られる山名文夫でさえ、苦労しながら軍艦を描いていたくらいなのです【←本当】
そこで隆夫は「今まで黙っていたけれど、実は私、軍艦を描けるんです!ぜひ私に描かせてくださいッ」と申し出て、水を得た魚のように描きはじめます。まさか資生堂にいながらにして、軍艦を描く日がこようとは…
やがて隆夫は、大政翼賛会宣伝部の花森安治とも仕事をすることになります。意外に思われるかもしれませんが、戦時中は〈資生堂の山名文夫〉と〈大政翼賛会の花森安治〉が組み、さまざまな国策宣伝を手がけていたのです【←本当】
そして1941年(昭和16)の12月、日米開戦。隆夫の親友は真珠湾で戦死し、軍神になりました。打ちのめされた隆夫は、親友の分まで頑張るつもりで国策宣伝にのめり込みます。しかし隆夫の努力の甲斐もなく、日本は負ける。
▽敗戦の年(昭和20)の山名文夫と花森安治。かなり疲れて見えます。
1949年(30歳) 敗戦/「暮しの手帖」創刊号
体もメンタルも弱い隆夫は、敗戦のショックでそのまま死んでしまいそうなものですが、どっこい生きていました。坊ちゃん育ちで世渡りベタな隆夫だけれど、戦時中にできた人脈(資生堂〜大政翼賛会)のおかげで、創刊雑誌の仕事がどんどん回ってくるのです。 なにしろ健康な若い男は、戦死しているのですから。
焼け野原の東京で、隆夫がボンヤリ仕事をこなしていると、戦時中、一緒に仕事をした大政翼賛会の花森安治から声をかけられます。「今度、新しい雑誌『暮しの手帖』を出すんだ。手伝ってくれないか?」。花森に誘われて、隆夫はすぐに承知します。1949年(昭和24)、隆夫は30歳になっていました。
▽現・マガジンハウスの雑誌「平凡」は敗戦の年末にすばやく創刊!題字は山名文夫。
1962年(43歳) 故郷の鹿児島へ帰る
花森安治は『暮しの手帖』のカリスマ編集長として恐れられていましたが、隆夫は戦時中からつきあいがあったので、花森の呼吸をよく知っています。仕事はとても順調でした。
その後の日本は信じられないスピードで復興し、『暮しの手帖』の人気もマックスに。しかしアラフォーを迎えた隆夫は、いろいろな疲れが出たのでしょう。すべてがムナしくなり、鹿児島の実家に帰ってしまう(小説『海軍』では、裕福なインテリの家系という設定)。鹿児島で遅い結婚をし、40歳を過ぎてから1人娘をさずかりました。
1980年(61歳)娘の上京/東郷女子学生会館
隆夫の娘は、すくすくと成長。やがて「あたし、東京の大学に行く」と言いだします。隆夫ははじめ猛反対していましたが、娘が持ってきた女子寮のパンフレットを見て、急に考えが変わりました。
なんとその寮「東郷女子学生会館」は、隆夫が若い頃、軍艦の絵を研究するために通っていた、原宿の「海軍館」に隣接しているではありませんか。しかも寮は、鹿児島の英雄・東郷平八郎の名前を冠している…
「ああ、素晴らしい環境だ。この寮なら大切な娘を預けても安心だな!」
ところが、その女子寮は全国の遊び人女子が集う場所として、田中康夫の『なんとなくクリスタル』(1980)にも登場していたのです。
知らぬは隆夫ばかりなり。しかし隆夫の顔は、まるで青年に戻ったかのように輝いているのでした。終わり。
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以上、獅子文六『海軍』から広げた妄想ストーリーでした。〈分岐〉を考えたつもりが、たいして分岐できませんでしたが…
私の親族(←初期の『暮しの手帖』に関わっていた)のエピソードなども思い出しつつ書いてみました。おつきあいいただきありがとうございます。
▽「サトウのサトちゃん」の土方重巳も、国策宣伝にたずさわっていました。