獅子文六と戦争をテーマにしたジンを販売中です

 戦争に突入する時代をテーマにしたジン『認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六』を作りました。BOOTHで販売中です。「あんしんBOOTH パック」(ポストに投函・匿名配送)でお送りします。

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ビリケン商会(青山)・オヨヨ書林新竪町店(金沢)・DA NOISE BOOKSTOREでもおもとめいただけます。

流行語だった「認識不足」と、獅子文六

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 昭和の人気作家・獅子文六といえば『コーヒーと恋愛』(昭和37)。テレビ業界が描かれているので「戦後の作家かな?」と思われるかもしれません。しかし『コーヒーと恋愛』は69歳の時の作品なんです。

 

 デビューはもっと前、つまり戦前。

ところが獅子文六がユーモア小説家としてブレイクしたとたん、日本は本格的な戦争モードに突入します。( 朝ドラ「エール」の古関裕而も同様のタイミングでしたよね。ブレイク→戦争→軍歌の覇王)

 

 ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」(2020年発行)は、かつて流行語だった「認識不足」を軸として、昭和11年〜25年の16作品を並べています。戦争の時代を扱っていますが、お茶の時間にサッと読めるように作りました。フェーズが変化するたびにキラキラしたモダン生活が消えるのを感じてください。

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ちくま文庫の「断髪女中 獅子文六短編集 モダンガール編」をセレクトされた山崎まどか様のTwitterより。

ビッグイシュー411号「究極の自由メディア『ZINE』」特集に掲載されました。

「認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六」で引用した 参考画像

ジン「認識不足時代」では、参考画像も紹介しています。

▽これは国際連盟脱退で揺れている頃の漫画。かわいい絵ですが、時代の空気が伝わってきます。(昭和8年2月講談社「キング」小野寺秋風) 

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昭和14年「欧州大戦勃発」の漫画タイトル(昭和14年11月新潮社「日の出」)

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▽49歳ごろの獅子文六。本名の岩田豊雄で『海軍』を書いている時期です。『海軍』は日米開戦の翌年(昭和17)朝日新聞に連載され、敗戦後「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす*1」原因になりました。そんな『海軍』から20年後の昭和37年、『コーヒーと恋愛』の新聞連載がスタートします。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』

narasige.hatenablog.com

ジン「認識不足時代  ご時勢の急変と、獅子文六 」は、画像が多め・字も大きめ。「獅子文六に興味ないなあ」という方もぜひ!時代が急変している今、何かのヒントになりますように。 

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▽このジンを作ったきっかけは、2014年のラジオ(宇多丸さん)でした。

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

 

*1:獅子文六全集14巻「落人の旅」朝日新聞社

デザイナーと戦争

創業時のマガジンハウス(平凡出版)は、なんと敗戦の年末に「平凡」の創刊号を出しています。すばやい。右上の白っぽい表紙が創刊号です。敗戦直後とは思えない可愛さですね。

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録

 「平凡」創刊時の可愛い表紙を手がけていたのは、山名文夫と、大橋正。*1

題字は、山名文夫資生堂の美女イラストで知られる、あの山名文夫です。

そしてイラストは大橋正。大橋正による広告(明治チョコレート 1955)はこんな感じで、凄まじい愛らしさです。

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録

特攻隊とデザイナー

 「平凡」の表紙をかざった山名文夫と大橋正は、戦後に初対面…というわけではないんですね。

実は2人とも、敗戦の直前まで国策宣伝のための集団「報道技術研究会」で働いていたのです。(戦争中のデザイナー、コピーライターなどは広告の仕事がなくなったため、こぞって国策宣伝に活路を見出していた)

40代の山名文夫は「報道技術研究会」の委員長。

20代の大橋正は「報道技術研究会」に憧れて入った青年でした。

narasige.hatenablog.com

▽大橋正が戦時中に手がけたポスターです。「平凡」創刊号のイラストとはすいぶん様子が違う。

『大橋正展  暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』図録

 大橋正が書いた「憧れの報研」*2という文章には、上司である山名文夫も登場するので、引用してみましょう。「報研」は報道技術研究会の略。

また、“神風特攻隊”の写真で構成した移動展の仕事もした。活字を組む段階で、依頼していた有楽町の活版屋が空襲で目茶苦茶になって、活字組ができず山名さんに筆書きでコピーを入れていただいた。

その頃、山名さんといえば、朝出勤すると、どこで手に入れたのか、大きなタバコの葉を小刀でコツコツ丁寧に刻んで、パイプに詰めて嬉しそうに一服されている顔を今でも思い出す。

 戦争末期、神風特攻隊の展示を手がけていた大橋正と、山名文夫

よく私たちは「季節の変わり目の寒暖差には、ついていけない」などと文句を言うけれど、昭和19年【特攻隊の展示】→昭和20年【「平凡」創刊】という、時代の寒暖差ときたら!

当時の人たちはよく切り替えられましたね。(もちろん、時代の波に乗れずに病んだ人も大勢いたはずですが)

 

ちなみに、20代の大橋正には「赤紙」がきていましたが「国策宣伝の技術者」ということで入隊後すぐ除隊になっています*3。入るはずだった部隊は沖縄で全滅したとか。もし入隊したままだったら、「平凡」の表紙はまた別の、戦死を免れた画家が担当したことでしょう。

 

【参考】昭和19〜20年にかけての「報道技術研究会」お仕事一覧。大政翼賛会陸軍省報道部、川崎製鉄日本鋼管、大日本飛行協会、情報局、大日本婦人会などの「宣伝物」を作成していました。赤い線は、特攻隊の展示@銀座松屋

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社に加筆

 今回の「平凡」の表紙に限らず、いわゆる[レトロ可愛い]イメージの作り手たちは、戦時中から“活躍”していたケースが多そうです。(たとえば「サトウのサトちゃん」のゾウを作った土方重巳も、戦時中は同じく「報道技術研究会」で国策宣伝にたずさわっていました*4

そりゃそうですよね。戦争が終わったからといって、[可愛い]を作れる若者がどんどん湧いてくるはずがないのですから。

▽国策宣伝のための集団「報道技術研究会」についてはこちらもご覧ください

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

*1:「今は体裁内容ともまるで変わっているものの、「平凡」が創刊している。創刊当時は、A5判の読み物本位の大衆雑誌で、表紙のイラスト大橋正、題字は私であった。」(山名文夫 『体験的デザイン史』1976年版・343ページ)

*2:『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(山名文夫・今泉武治・新井静一郎編/1978年/ダヴィッド社)91ページ

*3:昭和19年4月に私にも赤紙が来る。たしか飯倉の事務所で私の歓送会をしていただいたのを覚えている。その時、新井さんから情報局と大政翼賛会からの身分証明書(私が国家宣伝の技術者であり、国際宣伝に協力しているというようなことが書いてあった) を何かの役に立つかもわからないからと手渡された。何かの役に立つどころか、この2枚の紙切れが私の生死の分かれ目になったのである。」(『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』/「憧れの報研究(大橋正)」)95ページ

*4:土方重巳 造形の世界』(造形社・1978)

開発前の二子玉川・チアリーダー

開発前の「二子玉川

 「二子玉川」といえば、楽天本社や「蔦屋家電」がある華やいだ場所といったイメージですよね。
しかし先日、1964年の刑事ドラマ*1を見ていて驚きました。殺人現場は二子玉川の河原なのですが、その風景がまるで火星だったのです。

ナレーションも荒涼とした東京の果てであることを強調するし、二子玉川の地元民(役の俳優)達は、刑事の聞き込みに

  • 「昔からパッとしない土地」
  • 「ふきっさらし」
  • 「渋谷や自由が丘まですぐ行けるから、ここは栄えようがない

などと冷たく答えている。しかも河原で殺された被害者は「川向こうの芸者」(二子新地のミズテン芸者)*2という設定だったりします。

▽刑事たちが聞き込みをする「川向こう」=二子新地の花街。

特別機動捜査隊 第118話『ながれ』(1964)

玉川高島屋の開業と、少女たち

 ところが、このドラマからたった数年後、国内初の郊外型ショッピングセンター「玉川髙島屋S・C」が華やかに開業するのでした。2019年には「玉川髙島屋S・C」の開業50周年イベントがあって、私も行ってみたんですよ。

引用元:https://smtrc.jp/town-archives/city/sangenjaya/p09.html

 開業当時(1969)の昭和デラックスな写真が面白かった。でも、刑事ドラマ(1964)で二子玉川が「パッとしない」と言われている頃から、わずか5年後に髙島屋がオープンとは知りませんでした!

開業時の写真で気になったのは、妙に本場っぽい女の子達です。

玉川髙島屋の開業にあたり、ミニスカートでずらりと並んだ彼女たち。

一体どうやって集めたのでしょう。

 

私は「周辺の米軍基地由来の学生では?」と想像しています。

憧れのアメリカ気分を出すために、彼女達が一役買ったんじゃないか…と。

▽たとえば、これは1961年の立川基地。極東の島国で、本国を再現していますね。[1961 TAB football queen]※「TAB」は「Tachikawa Air Base」(立川基地)の略。

1961 TAB football queen

 開高健東京オリンピック前後を記録した『ずばり東京』というエッセイにも、晴海モーターショー(1963)でアルバイトする「アメリカの女子学生」が出ていましたっけ。

アメリカの女子学生がアルバイトでファッション・ガールとなり、ソバカスだらけの狆(ちん)くしゃ顔でしなをつくって澄ましていた。楽隊が入って、何やらにぎにぎしく、景気をつけている。

こうしたイベントを「にぎにぎしく」演出するためには、戦勝国の女子学生がまとっているオーラが必要だったのかもしれません。

 

 実は、開高健が書いた晴海モーターショー(1963)も、玉川高島屋のオープン(1969)も、敗戦から四半世紀たっていない。

日本の1960年代は、どんなに豊かそうに見えても、焼け野原からの距離がすごく近いのです。「アメリカの女子学生」に限らず、とにかく飢えの記憶を上書きしてくれる華やかな存在(映画スターや音楽、雑誌、広告)が、重宝される時代だったような気がします。

▽飢えの記憶の例。敗戦の年(1945)の「買出し列車 」です。先頭部分にも乗るんだ…

図録『影山光洋写真展』2003・立命館大学国際平和ミュージアム

以下、参考までに1960年代の立川基地周辺の写真を貼りますね。すべてもとからカラーです。

[1967Cheerleaders]  後ろに見える「YHS」は「ヤマトハイスクール」思われます。

1967Cheerleaders

flickr「ヤマトハイスクール1968-69 Yamato Air Station ~ Tachikawa Air Base」というフォルダに入っている写真

1967SherryShay
flickr「ヤマトハイスクール1968-69 Yamato Air Station ~ Tachikawa Air Base」というフォルダに入っている写真

1967KayDawson

立川基地の看板1967 tachikawa_main_gate_original

▽1960〜70年代、東京周辺の米軍施設。立川、所沢、大和(東大和市)、横田、府中、関東村(調布)、厚木、所沢、ワシントンハイツなど

kanto plains

▽以下の関連ブログもぜひごらんください。

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

*1:特別機動捜査隊 第118話『ながれ』

*2:食堂のおかみが二子新地の芸者にむかって「あんたの芸は[転ぶ]ことくらい。あたしは違う。今こんな場末にいるけれど、昔は白山(文京区)でお座敷に出ていたんだからねっ」みたいなことを言うシーンあり

4月20日(土)・国分寺で

 「戦争中の婦人雑誌を眺める会」というプチ読書会を、国分寺(東京都)の文化財庭園でやります。私が集めた雑誌を(ほんの少しですが)持っていくので、美容院の雑誌を眺めるようにパラパラと眺めてください。前に同じ場所でやって良かったので、2回目の開催です。

 

 今回ごらんいただくのは、「お上」のメッセージを砂糖にくるんだタイプの雑誌。今までブログでも紹介してきましたが、実際に手にとると、印刷の雰囲気や広告の入れ方から、いろいろ見えてくるものがあると思います。

narasige.hatenablog.com

「眺める会」なので、サッと眺めてから庭園を散策→そのままお帰りいただいても大丈夫です。※雑誌の販売・貸出しはありません

 

【日時】2024年4月20日(土)12時〜16時。途中の入退室OK

【場所】都立・殿ヶ谷戸庭園内の「紅葉(こうよう)亭」。国分寺駅の南口より徒歩5分 公式サイト

【入園料】150円

【持ち物】ご自分用の飲み物(アルコール不可) 

注意①会場の和室は「文化財施設」で、音を出す行為・動きを伴う行為(ヨガも!)・アルコール等が禁止されています。(小さなお子さまの参加はご遠慮ください)

注意②:園内に高低差があるので、散策する方は滑りにくい靴でお越しください。

 

軍歌とブギーバック

アラフィフと軍歌(1969年の場合)

今年(2024)は「今夜はブギーバック」から30年だそうですね。

今夜はブギーバックが発売されて30年」で思い出したのが、1969年の『暮しの手帖』で見かけた軍歌のレコード特集[ほんとの軍歌はきかれなくなった]です。

1969年99号『暮しの手帖

1969年といえば、敗戦から24年経過しています。つまり「今夜はブギーバック」の「30年」より、もっと近い距離に戦争があった時代。そして

  • 敗戦時に青年だった人はアラフィフに
  • 翌年にはEXPO'70(大阪万博)がひかえている

1969年は、そんな年なのです。

「要らざる色気」と、軍歌

[ほんとの軍歌はきかれなくなった]の筆者(阿川弘之・当時48歳)は、1969年に売られていた軍歌のレコードに怒っています。ざっと要約するとこんな感じ。

われわれは、軍歌=青春の世代である。

 

20数年前の青春をしのぼうと、最近出た軍歌のレコードをいくつか聴いてみた。しかしどれも派手なアレンジが加わっていて、気にくわない。

人気俳優がナレーションをしていたり、流行の若い歌手が歌っていたり、妙な効果音が入っていたり。いちいち「要らざる色気」を感じて、すごく萎える。

 

レコード会社は、われわれ「醜い中年男」の涙をしぼろうとしているのか。

 

いろいろ聴き比べてみたけれど、皮肉なことに「旧敵国」のエドムンド・ロス楽団によるラテン・リズムの『日本軍歌集』が、一番ききやすかった*1

阿川弘之が選んだ『エドムンド・ロス日本軍歌集』。同じく1969年99号『暮しの手帖』から。

1969年99号『暮しの手帖

 中年に売るために「要らざる色気」で加工された軍歌よりも、ラテンの軍歌を選んでしまう気持ち、少しだけわかるような気がします。

そして、この記事を読んであらてめて気づいたことがありました。

2024年のアラフィフならば、単に「今夜はブギーバックから、もう30年か……」となるところを、1969年のアラフィフ(阿川弘之)は

「死んだ友人たちと24、5歳の齢の開きができて、われわれはみんな醜い中年男になってしまった」

といった調子で、【中年の自覚】と、【死者の年齢】がセットになっているのです。敗戦から四半世紀たっても、戦友の「歳」がアタマから離れないのですね。

▽死んだ戦友は、いつまでも20代

(この場合は戦友の年齢ですが、人によってはそれが「空襲で死んだ妹の年齢」「満洲から引揚げる時に衰弱死した坊やの年齢」「硫黄島から帰ってこなかった夫の年齢」にあたるのでしょう)

サンバ調の『同期の桜』

 さて。先述の『エドムンド・ロス 日本軍歌集』が、高橋芳朗さんのラジオで紹介されているのを発見しました。エドムンド・ロスの「Whipped Cream」という曲は毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』のテーマ曲として長年使われているのだとか!以下、書き起こしを引用します。

高橋芳朗)かっこいいよね。続いてはですね、ここからがもうハイライトですけども。エドムンド・ロスさん、もう一枚日本の音楽にインスパイアされたアルバムを作っております。それがなんと日本の軍歌集です。こちら!

ジェーン・スー)ええっ? うわうわうわ!

高橋芳朗)軍歌のカバーアルバムをリリースされております。1968年のリリースですね。

ジェーン・スー)『Edmundo Ros Japanese Millitary Songs』って書いてありますよ!

高橋芳朗)これ、非常に持ち運びに困るジャケットでですね、旭日旗をバックに満面の笑みのエドムンド・ロスという構図になっております。

 

[中略]

 

高橋芳朗)で、まずじゃあこの軍歌集から紹介したいんですけども。一曲目はお馴染み『同期の桜』。「貴様と俺とは同期の桜」ですよ。これは歌が入っていないんですけど、まさしくサンバ調のアレンジ。しかも、さくらつながりでさっき聞いていただいた『さくらさくら』のフレーズを随所に織り込んだ、マッシュアップした技ありのカバーとなっておりますので、ちょっと聞いていただきましょう。エドムンド・ロスで『同期の桜』です。

 私は、音楽全般にすごく疎いので、この書き起こしはとても勉強になりました。ぜひ読んでみてください。

miyearnzzlabo.com

▽ちなみに今回、サムネイルに使ったのはこの画像です(昭和12年11月「主婦之友」より)。ちょうど日中戦争がはじまった頃、グリコの販促品が「軍歌集」だった時代。

▽同世代と軍歌でつながるケース:漫画『大家さんと僕』より

narasige.hatenablog.com

 

*1:「結局旧敵国のエドムンド・ロス楽団がラテン・リズムに乗せた「日本軍歌集」で、妙に力んだところやおセンチなところが無く、ただ明るく楽しげで、私も7割がたその意見に賛成という皮肉なことになってしまったが、これはただし私の求めていた軍歌の「よさ」とは少し違っていた。せっかく自分で自分に与えたプレゼントではあるが、そういう次第で旧帝国陸海軍の軍歌というもの、ある意味では、やはりもう亡霊、さがしてもいない青い鳥」1969年99号『暮しの手帖

銀座のスーベニアショップ(1950年代)

銀座とは思えないスーベニアショップ「銀座館マート」

3月8日は「みやげの日」。ということで、とあるスーベニアショップを紹介しましょう。

「Ginzakan Mart」=銀座館マート。キャプションに1953年とあるので、ちょうど朝鮮戦争の頃ですね。拡大すると米兵らしき姿が見えます。手前を走る自転車の長すぎる棒も気になる。

Ginzakan Mart, 1953

別の人が撮影した「銀座館マート」。無骨な倉庫に、適当な看板を取り付けただけに見えます。派手なピンクの花は造花でしょうか、本物でしょうか。

Ginzakan Mart, Tokyo  1952-'53

これも銀座館マート。近くで見たところ。

Ginzakan Mart-Souvenirs

「銀座館マート」は、本当に銀座に存在していた

 この「Ginzakan Mart」(銀座館マート)の写真、銀座と名乗っているものの、荒涼としていてまったく銀座には見えない。「ほかの土地が“〇〇銀座”のノリで勝手に名乗っているのではないだろうか?」といつも思っていました。

ところが最近、本当に銀座にあったことを知ったのです。

▽なにかのショップカードに、偶然「銀座館マート」を発見!限りなく京橋寄りの銀座1丁目。まさか本当に銀座にあったとは。うたがってごめんなさい。

https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/20395569128

▽「銀座館マート」が銀座に存在したならば…と手持ちの『中央区沿革図集(京橋編)』で昭和20年代の地図を確認してみたら、ありました、ありました「銀座館マート」が。びっくりするほど細長い施設です。戦前の地図をみると、この部分は「堀割」。つまり「堀割を埋めた」系の土地なのでしょう。

中央区沿革図集(京橋編)』より「昭和20年代火保図

 敗戦後の中央区で、「堀割を埋めた」エピソードは時々見かけます。(焼けビルの瓦礫を放り込んでいるうちに、埋まってしまうようなケースもあったらしい)。

 

1)敗戦後に埋め立てた、細長い土地に

2)外国人(駐留軍)がお金を落とす施設をパッと作る

 

…これは、同じく銀座ウラにあった「東京温泉」とよく似た香りがする。トルコ風呂で知られる「東京温泉」も、すごく細長い土地に建っていたのです。

スーベニアショップ「銀座館マート」と「東京温泉」は、どちらもオシャレな銀座のヒストリーに出てこない。その点も似ていますね。

【参考画像】「東京温泉」の内部。朝鮮戦争時の昭和26年(1951)、アメリカの雑誌『LIFE』に掲載された写真です。詳しくはこちら→東京温泉、日本の黒い霧など - 佐藤いぬこのブログ


以上、3月8日「みやげの日」にちなんだスーベニアショップの紹介でした。

▽他にもスーベニアショップ写真を紹介しています。ぜひごらんください。

narasige.hatenablog.com

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大人のディズニーランド、永井荷風、清洲橋

中洲(中央区日本橋)は大人のディズニーランド?

【大吉原展】がSNS話題になっています。吉原を「遊園地」と勘違いしていませんか?と。

 大吉原展の「遊園地」たとえで、ふと思い出したのが、東京中央区のお年寄りの対談集に出てきた[中洲は大人のディズニーランド]という表現。

「中洲」というのは箱崎シティエアターミナルの近くで、住所は「中央区日本橋中洲」です。かつては「中洲」は、文字通り「洲」でしたが、現在は埋め立てて陸続きになっています。

 

中央区の昔を語る(15)』(中央区教育委員会・平成13)より「中洲」の部分を引用してみましょう。

「中洲というのは、うちのばあさんも言ってたけど、昔は大人のディズニーランドみたいなところだったんですよね。要するに、きれいなお姉さんがいて、お酒があって、だから遊び人の街だった。」

 

「昔、中洲には18歳未満の青年は入れなかった。」

中洲って、川を渡ると、材木商の大だんなとかいっぱいいるじゃないですか。そういうところで、遊女の髪の毛で、金の針で、こっちに遊女がいて、左に太鼓持ちがいて、海たなごっていうのかな、あれを釣るのは、1種のレクリエーションだったって。」

 「川を渡ると、材木商の大だんな」という部分、すごく古くさい印象かもしれません。しかし1980年の映画「わるいやつら」には、深川の「材木問屋の若奥さま」が主要人物として出てくるんですよ。シティポップの時代にも「材木商の大だんな」は存在していたらしい。

「中洲」に通院する永井荷風

 で、そんな大人のディズニーランド「中洲」には、永井荷風が通う「病院」もありました。昭和10年の地図を見ると、まさにランドの中に「病院」が建ってるイメージ。濃い黄色(もとから着色有り)で塗られている部分は、ずらり料亭です。

中央区沿革図集(日本橋篇)』(中央区教育委員会)に加筆

先ほどの『中央区の昔を語る(15)』にも、永井荷風と「中洲病院」が出ていました。

「これは中洲病院です。その後、糸川病院って名前が変わったんですよね」

 

「中洲病院のふもとというのが、うちのばあちゃまがよく言ってたけど、よく永井荷風なんかが梅毒の検査に来てて、大丈夫だってなると、病院の院長と一緒に、また性懲りもなく、深川に遊びに行っちゃう。その繰り返しだったって。」

 

「うちの前を、すごく背の高い方だったらしくて、フラフラ歩いて通っていったって話を聞きましたけどね。」

大人のディズニーランドにかかる橋

 そんな大人のディズニーランド「中洲」にかかっている橋は、とても美しい「清洲橋」です。

清洲橋は、完成した昭和3年から→21世紀の現在に至るまでステキな橋として有名。小津映画にも出てくるし、去年公開の(スタイリッシュすぎて恥ずかしくなる)映画でも、主人公は清洲橋をのぞむ高級マンションに住んいましたっけ。

清洲橋  川瀬巴水版画集 1より

清洲橋 昭和6年2月(1931) 川瀬巴水

  しかし、清洲橋がどんなに綺麗でも「大人のディズニーランド」へのメインゲートだとわかれば、見方が変わるというもの。

昔の男性の目にうつる清洲橋は(期待と興奮で)、キラキラというよりギラギラ輝いていたのかもしれません。

ちょうど『翔んで埼玉2』で、ディズニーランド直結の乗り物=「武蔵野線」が、ギラギラ輝いていたように。

▽『翔んで埼玉2』エンディングの武蔵野線をうろ覚えで再現してみました。清洲橋もこんなイメージだったのか?

永井荷風の随筆から。行きつけの「中洲病院」の脇に、新しい橋(※清洲橋のこと)が架かるのを楽しみにしている様子がうかがえます。(国会図書館デジタルコレクション『荷風随筆』から「中洲病院を訪ふ」より)

「病院の傍には遠からず深川に渡る新橋が架せられるので」…

満洲とエーゲ海【芸術家・池田満寿夫】

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

名前に「満洲」が入っている池田満寿夫

森茉莉がエッセイ*1で「上等の庶民芸術家」と絶賛していた池田満寿夫(1934年生まれ)。私が知っている池田満寿夫の情報といえば、

1、モジャモジャ頭

2、エロティックな映画を撮っていた

3、名前に「満洲」が入っている

といった程度ですが、今日は【名前に「満洲」が入っている】部分について紹介しましょう。映画『エーゲ海に捧ぐ』で知られる池田満寿夫は、満洲生まれでした。

池田満寿夫エーゲ海。画像は文春オンラインから

池田満寿夫は「満洲」生まれ、「内蒙古」育ち

池田満寿夫は、1934年(昭和9)、満洲に生まれました。新潮社『満洲 昨日今日』(1985)より池田満寿夫の文章を引用します。

当時、中国東北部が日本帝国の介入で満洲と言われていた頃、満洲で生まれた子供に満洲男とつけるのが流行った。私の満寿夫も音は満洲男から来ている。洲にせず寿にしたのは名付け親とされている叔父の発案である。

私は昭和9年2月23日に旧満洲の旧奉天で生まれた。

満洲生まれの男子は、「満洲男」(ますお)と命名されがちだったのですね。

 

 満洲で生まれた池田満寿夫は、5歳ごろ内蒙古の首都=「張家口」に移住します。なぜ、そんな遠いところに移住を?…と思ってしまいますが、親が「張家口」で兵隊相手の“カフェー”をひらいていたとのこと*2

イケダは4歳まで、奉天にいた。昭和12年支那事変で、張家口へと移動、5歳ごろから終戦を迎える小学6年まで、両親は張家口で「ホマレ」というカフェーをひらいていた。「ホマレ」には10人から15人の女給がいた。客ダネは、兵隊と軍属に限られていた。(『池田満寿夫 20年の全貌』美術出版社1977年)

【参考】内蒙古の位置

新潮社『満洲 昨日今日』(1985)

【参考】内蒙古「張家口」時代の池田満寿夫(1943)。『VIVANT』感あり。

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

実相寺昭雄池田満寿夫は、「張家口」つながり

 池田満寿夫は、敗戦時まで内蒙古の「張家口」にいましたわけですが、実はもう1人、敗戦を張家口で迎えた少年がいます。それは『ウルトラマン』の実相寺昭雄(1937生まれ)。

実相寺昭雄は東京出身で、池田満寿夫より3歳ほど若い。父親は「張家口公使館」勤務の役人でした*3。以下は実相寺昭雄の自伝的エッセイ『昭和電車少年』から

 昭和53年の夏、日立の提供する大河ドラマ用の長尺コマーシャルの撮影で、私はローマに行った。池田満寿夫さん出演のコマーシャルを演出するためである。ちょうど、池田さんは初めての監督作品『エーゲ海に捧ぐ』を撮影中で、その合間を縫って撮影させていただいた。(略)その折りに、あれこれ雑談をした中で、池田さんも張家口育ちだったと言うことを知り、驚いた。いちど、一緒に再訪しよう、と言う話になり、握手をした。

 昭和53年(1978年)といえば、敗戦から33年。当時、池田満寿夫は44歳、実相寺昭雄は41歳くらい。

アラフォーの天才2人が、「張家口」の少年時代を通して意気投合!しかもローマで!…なんとも昭和感があふれたエピソードです。【デラックス】と【敗戦】が混ざりあっている。

 

 2024年から30年前を回想すると「あの頃はまだイオンじゃなかった。 ジャスコだった」(←ドラマ『ブラッシュアップライフ』から)レベルになりがちですが、昭和は違います。「満洲国」自体が消滅しているのですから。振れ幅が凄まじい。

それぞれの引き揚げ

 満洲、外地、といえば敗戦後の苦しい「引き揚げ」がありますよね。池田満寿夫は「小学6年で終戦を迎えた時は、母と一緒に無蓋の貨車で、張家口から逃げた」*4そうです。一方、実相寺昭雄は父親が役人だった関係で、いちはやく「張家口」から脱出できたとか…*5


以上、池田満寿夫満洲内蒙古エピソードでした。昭和の文化を作っていた人の脳内には、私が知らない地図が広がっていたのです。

*1:森茉莉『私の美の世界』

*2:池田満寿夫 20年の全貌』美術出版社1977年よりイケダは4歳まで、奉天にいた。昭和12年支那事変で、張北、張家口へと移動、5歳ごろから終戦を迎える小学6年まで、両親は張家口で「ホマレ」というカフェーをひらいていた。「ホマレ」には10人から15人の女給がいた。客ダネは、兵隊と軍属に限られていた。幼いイケダは、 母親より、むしろ店の女給たちに親しみ、可愛がられた。女給たちの間や、女給たちと客とのあいだで、とり交わされる好ましくないことばを、早くから覚えた。そのために、池田は、7歳ごろから、この世の男と女の関係の全てを知っていた。小学6年で終戦を迎えた時は、母と一緒に無蓋の貨車で、張家口から逃げた。父は外地召集で、6ヶ月前に奥地の軍隊にはいっていた。」

*3:『昭和電車少年』によると、実相寺昭雄の父親は日本銀行→興亜院→大東亜省→張家口公使館の順で勤めている

*4:池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

*5:自伝的エッセイ『昭和電車少年』には、繰り返し「張家口」が登場します

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