獅子文六と戦争をテーマにしたジンを販売中です

 戦争に突入する時代をテーマにしたジン『認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六』を作りました。BOOTHで販売中です。「あんしんBOOTH パック」(ポストに投函・匿名配送)でお送りします。

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ビリケン商会(青山)・オヨヨ書林新竪町店(金沢)・DA NOISE BOOKSTOREでもおもとめいただけます。

流行語だった「認識不足」と、獅子文六

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 昭和の人気作家・獅子文六といえば『コーヒーと恋愛』(昭和37)。テレビ業界が描かれているので「戦後の作家かな?」と思われるかもしれません。しかし『コーヒーと恋愛』は69歳の時の作品なんです。

 

 デビューはもっと前、つまり戦前。

ところが獅子文六がユーモア小説家としてブレイクしたとたん、日本は本格的な戦争モードに突入します。( 朝ドラ「エール」の古関裕而も同様のタイミングでしたよね。ブレイク→戦争→軍歌の覇王)

 

 ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」(2020年発行)は、かつて流行語だった「認識不足」を軸として、昭和11年〜25年の16作品を並べています。戦争の時代を扱っていますが、お茶の時間にサッと読めるように作りました。フェーズが変化するたびにキラキラしたモダン生活が消えるのを感じてください。

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ちくま文庫の「断髪女中 獅子文六短編集 モダンガール編」をセレクトされた山崎まどか様のTwitterより。

ビッグイシュー411号「究極の自由メディア『ZINE』」特集に掲載されました。

「認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六」で引用した 参考画像

ジン「認識不足時代」では、参考画像も紹介しています。

▽これは国際連盟脱退で揺れている頃の漫画。かわいい絵ですが、時代の空気が伝わってきます。(昭和8年2月講談社「キング」小野寺秋風) 

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昭和14年「欧州大戦勃発」の漫画タイトル(昭和14年11月新潮社「日の出」)

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▽49歳ごろの獅子文六。本名の岩田豊雄で『海軍』を書いている時期です。『海軍』は日米開戦の翌年(昭和17)朝日新聞に連載され、敗戦後「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす*1」原因になりました。そんな『海軍』から20年後の昭和37年、『コーヒーと恋愛』の新聞連載がスタートします。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』

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ジン「認識不足時代  ご時勢の急変と、獅子文六 」は、画像が多め・字も大きめ。「獅子文六に興味ないなあ」という方もぜひ!時代が急変している今、何かのヒントになりますように。 

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▽このジンを作ったきっかけは、2014年のラジオ(宇多丸さん)でした。

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*1:獅子文六全集14巻「落人の旅」朝日新聞社

獅子文六『青春怪談』と、ディズニーのリゾートライン

(はじめてcanvaの画像生成機能を使ってみました)

 私は「浦安?ディズニーランド?もともと漁村でしょう?」と思ってしまう残念な人間です。しかし、そんな私でも舞浜駅からリゾートライン(ディズニー仕様の派手なモノレール)に乗ると「浦安=漁村」は吹きとんで、夢の国を楽しむ準備がととのってくる。不思議なものですね。

 

さて、敗戦から9年後に書かれた獅子文六の『青春怪談』も、ところどころにリゾートラインに似た“しかけ”がみられます。

焼け跡の記憶が生々しい日本から、夢の国に連れていかれるのです。どういうことか説明しましょう。

青春怪談 (ちくま文庫 し 39-7)

『青春怪談』の主人公(の1人)はお気楽で浪費家のマダムです。

なぜ敗戦国民がお気楽でいられるのか?

それはマダムに、亡き夫が遺した立派な病院があるから。

病院がお金を産んでいるのです。だから最新の家電に囲まれて暮らせるし、美しい着物も買いたい放題!

一方、当時の読者は9年前の敗戦の記憶をしっかり持っています。中には「有閑マダムが出てくるユーモア小説なんて、読みたくない」という人もいたでしょう。

しかし、ここでリゾートラインの登場です。

主人公マダムの【自宅は空襲にあったけれど、お金をガンガン産む病院は焼け残った】という設定に注目してみましょう。

今も神田にある、宇都宮外科病院が、それである。その名義料と、設備一切を含めた家賃で、遺族が生活しているわけだが、自宅の新台町の方は、戦災に遭い、地所だけ残ったのを、二年前に、新築したのである。それが逆になったら、蝶子や慎一も、今のようにラクな生活は、できなかったろう。

自宅は焼けたけれど、亡き夫がのこした病院は無事。

「それが逆になったら、蝶子や慎一も、今のようにラクな生活は、できなかったろう」

私はこのヒヤっとする一文が『青春怪談』のキモであり、リゾートラインだと思っています。当時の読者は、【病院が空襲で焼けた→収入が途絶えた】というパターンの場合、どれだけ苦労するかリアルに想像できる人たちだから。

▽自宅が焼けた場合と、病院が焼けた場合では大違い

【自宅は空襲にあったけれど、お金をガンガン産む病院は焼け残った】という都合の良い設定も、「それが逆になったら、今のようにラクな生活は、できなかったろう」という冷ややかな一文が加わることで、リゾートラインに生まれ変わる。

敗戦でささくれているタイプの読者も「ああ、はいはい、この小説はそういう超ラッキーな世界線でいくわけだ。今は夢の国を楽しめばいいのね」と、心の準備ができたのではないでしょうか。

これは『フォレスト・ガンプ』のオープニングで、“清らかなトム・ハンクスに、天から白い羽が落ちてくる”のにちょっと似ているかもしれません。「ああ、はいはい、そのテイストのお話ね」と思えるようにあらかじめ誘導しているわけです。

▽『青春怪談』は、そのほかにも敗戦を忘れさせるリゾートライン的な“しかけ”があります。こちらもあわせてご覧ください。

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▽戦争末期の獅子文六についてはこちらを

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1950年代の沖縄(カラー写真)

琉球米軍司令部=ライカ

東京の立川は「IKEA」や「ららぽーと」がある大きめの街ですが、かつては米軍基地がありました。そこはフィンカム基地と呼ばれ、立川の商店街も「フィンカム前商店会」だったのです。

▽昔の立川。「お買い物はフィンカム前商店会へ」と書かれたゾウ

『立川 昭和20年から30年代』中野隆右 2007

ちなみに立川の「フィンカム」とは、FEAMCOM(Far East Air Materiel Command=極東航空資材司令部)の略。アメリカの、いわば“内輪の略語”をそのまま地元商店街の名前にするってどうなの?と複雑な気持ちになりますが…

 

 そして【立川=フィンカム】と似た呼び方が沖縄にあります。それはライカム。ライカム[RYCOM]は琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarters)です。

沖縄県公文書館所蔵の写真より[1951年撮影]

以下、flickrから1950年代前半の沖縄を紹介しましょう。※元からカラー写真です

▽ライカムの看板[RYCOM OFFICERS OPEN MESS]

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▽[RYCOM OFFICERS OPEN MESS]

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▽上の建物を引きで見たところ。 当時沖縄にいたと思われるアメリカ人(たぶん高齢)のサイトから拝借しました。こういうサイトはいつ消えるかわからないので、今のうちに引用しておきます

ライカムのチケット。このチケットに限らず、日本の基地に関するアイコンはやたらと鳥居が使われがち

▽高台の星条旗

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街の様子

ここから、沖縄の街(?)の様子を貼っていきますね

▽どこにでも本国のノリを再現するアメリShopping Mall, Naha, Okinawa

▽この看板は台風に耐えるつくりになっているのでしょうか

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▽車、車、車……。この写真と同時期の1954年(昭和29)に東京で行われた第1回「自動車ショウ」では出品車両267台のうち乗用車の展示はわずか17台だったとか(展示の大部分を占めたのは建設車両、トラック、バス、三輪車、オートバイ)

Naha,Okinawa

▽製氷会社2020-12-22-0010

▽スーベニアショップ

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▽最後に「R」が書き足されている靴屋

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▽建物に直接「ビヤホール」と書いてあります

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▽闘牛大会

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▽右のおじさんは、黒い子豚を天秤棒で運んでいます

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以上、主に1950年代前半の沖縄でした。1950年代前半は、ちょうど朝鮮戦争にあたります。やがてベトナム戦争の時代になるわけですが、それはまた別の機会にふれたいと思います

【参考】ベトナム戦争の頃の沖縄

『写真報告 オキナワ 1961-1970』栗原達男

▽成増(東京)にも、本国を再現していたアメリ

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おしゃれな地図の最期

戦中のグラフ誌と、おしゃれマップ

 戦時中の対外宣伝グラフ誌(『NIPPON』、『FRONT 』などには、びっくりするほどお洒落な地図があります。

あまりにお洒落なので、「本当に、80年以上前の地図ですか?」と思ってしまうほど。今日は、そんな地図(満洲・朝鮮など)を紹介しましょう。

“血なまぐささ”をキレイに漂白した地図ばかりです。

▽「朝鮮工業地図」。アイコンがいちいち可愛い。海にはクジラもいます。(『NIPPON』1939年7月)

名取洋之助と日本工房: 1931-45』(2006、岩波書店 )97頁

▽「中国の現状」。絵:河野鷹思(『SHANGHAI』1938年11月)。一見カラフルだけれど、実は不穏な地図。

名取洋之助と日本工房: 1931-45』(2006、岩波書店 )83頁

▽「4つの視点から見た満洲国」。4種類の切り口が、それぞれキレイ(『NIPPON』満洲国特別号1939年10月)

名取洋之助と日本工房: 1931-45』(2006、岩波書店 )99頁

▽『FRONT 』の「満州国建設号」(1943)から。牧歌的な地図

『復刻保存版 FRONT Ⅰ 海軍号・満州国建設号・空軍号』(2024、平凡社

▽「満州国建設号」の地図を拡大しました。凡例がまるで絵本。

『復刻保存版 FRONT Ⅰ 海軍号・満州国建設号・空軍号』(2024、平凡社

満洲の家畜分布。配色がオシャレ(『MANCHOUKUO』1940年4月)

名取洋之助と日本工房: 1931-45』(2006、岩波書店 )101頁

オシャレな成分を抜いた地図

▽しかし、地図からオシャレを抜くとこんな感じ。本音の地図?(講談社の大衆誌から)

満洲の農耕地は何人の人口を容れ得るか」「日本人総出で開墾に従事しても差支ない訳である」1933年5月(昭和8)講談社「キング」

昭和8年(1933)5月講談社「キング」

【参考】満洲開拓民入植図。敗戦後の悲劇はご存知の通りです。

2023年「『満蒙開拓』を考える~没後50年・阪本牙城の歩みとともに~」展示より(撮影可)

おしゃれな地図の最期

 以上、対外宣伝グラフ誌のオシャレな地図を紹介しました。
「美しさは正義。こんなに気のきいたグラフィックが、間違っているはずがない」と思いたいところですが、そうはいきません。

戦争に負けるやいなや、グラフ誌の『FRONT』や『NIPPON』は処分されたのです。以下、当時グラフ誌に関わっていた方たちの著作から敗戦時の様子を引用します。

◾️『戦争のグラフィズム: 回想のFRONT』多川精一

敗戦が確定して『FRONT』などの焼却は急がねばならないので、出てきている全員は汗だらけになって、地下室のボイラーに「陸軍号」や「海軍号」を運ぶ。(略)

そのうち外から帰った社員が飛び込んできて、「おいおい大変だぞ、焼け跡は軍艦や飛行機だらけだ」と言う始末。 送風を強めすぎたので、半焼けのまま煙突から飛び出し、九段下一帯にばらまいてしまったらしい(『戦争のグラフィズム: 回想のFRONT』多川精一 1988、平凡社276ページ)

◾️『銀座写真文化史』(師岡宏次)から、『NIPPON』などを作っていた会社の敗戦直後です。

昭和20年の終戦とともに、国際報道のような軍の片棒をになって宣伝戦を戦ってきた会社は、進駐してきた外国軍隊がどう扱うのかを心配して、会社の責任者たちは大あわてをした。

そして名取洋之助さんの弟の譲之助さんの 維持困難の意見もあって、残っていると戦犯になりそうなものを全部処分し、写真のネガも川に捨てて、会社は解散して消えた。

それほど大物もいなかったのか、この会社からは戦争犯罪人は出なかった。(『銀座写真文化史』師岡宏次 1980、朝日ソノラマ 163ページ)

ボイラーで焼かれたり、川に投げ込まれたり。あっけない最期ですね。

『戦争のグラフィズム: 回想のFRONT』も『銀座写真文化史』も、当事者の本なのですごく生々しい。戦争中、とびきりセンスの良い人たちが「国策宣伝」に活路を見出す様子がうかがえます。そりゃ、おしゃれマップも生まれるよなあ……と腑に落ちるのです。

機会があったらぜひ読んでみてください。

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「サトちゃん」と溶鉱炉

 昨年、「キャラクターデザインの先駆者 土方重巳の世界」に行きました。昭和の可愛いグッズが大量に展示されていて、高度経済成長の迫力を感じましたね。

▽「サトウのサトちゃん」も「ブーフーウー」も、土方重巳

サトちゃんの作者と、溶鉱炉のポスター

 ところがその後「サトちゃん」の作者・土方重巳を、意外なところで見かけました。『戦争と宣伝技術者』(1978年/ダヴィッド社)という本に、なんと「大溶鉱炉建設」ポスターの製作者として名前があったのです。

清津溶鉱炉建設ポスター

ソ連領に近い清津港に、 日本製鉄は大溶鉱炉建設を昭和16年後半から強行するために、工員を鼓舞する一大ポスター・キャンペーンを展開した。最後の完成期の2ヶ月間に、4枚のポスターを1組として、4期にわたってアタックした。

▽右下に土方重巳。「鉄だ勝利だ 年内完成!」「突貫工事だ!やりぬくぞ」「鉄で勝とう!」

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978/ダヴィッド社)に加筆

映画宣伝のキャリアと、溶鉱炉

  • サトちゃん
  • 戦時中の溶鉱炉ポスター

この2つはどう考えても正反対!接点が無さそうに思えます。

しかし、(資生堂の美女イラストで知られる)山名文夫の『体験的デザイン史』(1976/ダヴィッド社)にも、ふつうに「溶鉱炉」と「土方重巳の組み合わせが出てくるんですよ。土方重巳はもともと映画のポスターを作っていたので、溶鉱炉ポスターのクオリティがすごかったらしい。

 1つの例を挙げると、日本製鉄から頼まれた 溶鉱炉建設促進のためのポスターというのがあった。これは昭和17年中に溶鉱炉を作り上げないと、鉄の生産が予定通りに行かないというきびしい条件があり、労務者たちに「その国家的意義を知らせ、士気を鼓舞する」目的のもので、この場合は、時間的急迫をアピールする必要があり、そのための方法として 各種のポスターを10日ないし、20日おきに発行し、つまり「矢つぎ早や」に訴えて、緊迫感を盛り上げていこうとしたのである。(略)

 このようなダイナミックな制作には、映画宣伝にキャリアのある栗田次郎、土方重巳、板橋義夫の存在は貴重であった。この人たちのイラストの確かさはいうまでもないが、レタリングも素晴らしかった。これも映画のタイトルで苦労しているからであろう。その書体の切れ味は、小気味が良いといった洗練があった。(山名文夫『体験的デザイン史』307

 昭和の“可愛い”が、「大溶鉱炉の突貫工事」と地続きだったとは!

昭和は「戦中」「戦後」とスパッと区切られているわけではなく、ピタゴラスイッチのようにつながっているのですね。

山名文夫と国策宣伝については、こちらをごらんください。

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「バスに乗りおくれまい」

 せっかくなので『土方重巳 造形の世界』(1978/造形社)も買ってみました。実直な回想がそのまま綴られていて、1978年の本ならではの生々しさを感じます。戦時中の国策宣伝にまつわる文章がこちら。

「報道技術研究会」(※「国家宣伝の高度化と総合化」を目指していたデザイナー・コピーライターなどの制作集団)の設立に参加したのは、丙種産業と格付けられて、国民徴用令というやつで、いつ軍需工場に徴用されるかわからない映画会社に不安と劣等感と焦りを持つようになっていたことと、文化映画のポスターを描いているうちに、スチール写真からではなく、ナマな働く人たちを描きたいと、しきりに思うようになったことからだと思う。

事実「報研」(※「報道技術研究会」のこと)にいる間に、溶鉱炉やそこで働く労働者をスケッチに行ったり、鉱山に入ってスケッチをしたりした。

しかし、今になって、なんと理由をつけようとも、いわゆる「バスに乗りおくれまい」という時局便乗の気もあった事は否定できない。(『土方重巳 造形の世界』17頁)

溶鉱炉やそこで働く労働者をスケッチに行ったり」……「溶鉱炉」は、ここにも出てくるのですね。
 戦時中、国策宣伝に協力した人たちの手記を読むと、“自分は無欲なボンヤリ者だった。だからこそ、知らないうちに戦争に協力してしまいました”的な主張を見かけます。しかし、土方重巳はボンヤリ者を演じていません。「『バスに乗りおくれまい』という時局便乗の気もあった」とはっきり書いているので、逆に好感がもてます。

▽『土方重巳 造形の世界』で、軍用兎のポスター*1土方重巳の作と知りました。

引用元:昭和館デジタルアーカイブ

以上、「サトウのサトちゃん」と「溶鉱炉」の意外な関係でした。

今回参考にした『土方重巳 造形の世界』(1978)は、可愛いイラストが満載!しかもご本人による丁寧な解説がついているので、戦前・戦中・戦後の流れを感じることができます。おすすめです。

土方重巳 造形の世界』(1978/造形社

土方重巳と同様に、戦中・戦後と活躍したデザイナーとして大橋正がいます。こちらの投稿もぜひあわせてご覧ください。

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*1:土方重巳 造形の世界』ではモノクロの小さいサイズです

小音楽堂は見た【日比谷公園】海軍葬から「パパと呼ばないで」まで

日比谷公園の「小音楽堂」を定点観測

 昭和のテレビドラマを配信で見ていると、今は存在しない建物が当たりまえのようにうつっていて、びっくりすることがありませんか?

最近、私が気になっているのは日比谷公園の「小音楽堂」*1昭和3年に建てられた、真っ白い音楽堂です。(1代目の音楽堂は、関東大震災で倒壊。現在は3代目)

▽たとえば、これは人気ドラマ『パパと呼ばないで』(1972-3/昭和47-8年)の第15回。この回の脚本は向田邦子。音楽堂が白く輝いていますね。右から杉田かおる石立鉄男

▽これは「雑居時代」(1973-4/昭和48-9年)23話から。右が大原麗子、左は竹下景子。美しい人達をより美しくみせていた小音楽堂。

 日比谷公園で海軍葬

 この白い「小音楽堂」は、昭和3年から昭和57年(1928-1982)まで*2存在していました。つまり、昭和の【戦前→戦中→戦後】を、じっと見つめてきた…ということになりますよね。

▽絵葉書に描かれた小音楽堂(引用元:都立中央図書館

 ためしに『パパと呼ばないで』から、30年ほどさかのぼってみましょう。『パパと呼ばないで』の30年前は昭和17年(1942)。 なんと日米開戦の翌年です。

昭和17年4月の日比谷公園では海軍葬が行われていました。そう、『パパと呼ばないで』の30年前、日比谷公園にはまったく別の世界が広がっていたのです。

▽小音楽堂は、海軍葬を見ていた。(ほかのページは 国立古文書館のデータアーカイブで読めます)

情報局「写真週報 217号」昭和17年4月22日

(情報局「写真週報 217号」昭和17年4月22日)

「軍神九柱の合同海軍葬」 4月8日 東京日比谷公園

昭和16年12月8日未明、ハワイ真珠湾を強襲し、米太平洋艦隊主力を覆滅して湾内深く沈み、再び還らない純忠無比の軍神九柱の合同海軍葬は、月こそ変われその命日にあたる4月8日、広瀬中佐の海軍葬以来 絶えて久しい森厳の盛儀をもって日比谷公園葬場で執り行われた

このように、昭和のテレビドラマはどんなに楽しそうに見えたとしても、戦争からの距離が近いのです。これをいつもアタマの片隅においておきたいと思います。(今年=2024年に当てはめてみてください。30年前は1994年、「古畑任三郎」の放送がはじまった年!)

▽【左】「パパと呼ばないで」と小音楽堂 【右】「軍神九柱の合同海軍葬」と小音楽堂

戦後のモーターショー

 そして、敗戦*3

ちなみに「軍神九柱の海軍葬」からわずか12年後の昭和29年(1954)に第1回「自動車ショウ」日比谷公園で行われています。昭和の激動ぶりがすごい。

▽小音楽堂は、自動車ショウも見ていた。(左奥に小音楽堂がうつっています)

Webモーターマガジンより引用

 この第1回「自動車ショウ」、ずいぶん華やかな印象ですが、やはりそこは敗戦国。東京モーターショーのサイトによれば、この年、出品車両267台のうち乗用車の展示は17台で、主役は建設車両、トラック、バス、三輪車、オートバイだったとか。

▽これはflickrで偶然見つけた第1回「自動車ショウ」(TOKYO MOTOR SHOW  1954)のカラー写真。撮影はアメリカ人か→Japan 1954 | Flickr

Tokyo 1954

▽そして、上の写真と同じ人物が撮影した日比谷公園小音楽堂!「自動車ショウ」と同時期と思われます。

Tokyo 1954

▽これも同じ人による撮影。小音楽堂の中でファッションショー(あるいはミスコン)をしている?小音楽堂のアーチが、サマになっています。

Tokyo 1954

絵になる背景「小音楽堂」

 時代は前後しますが、これは戦時中の『婦人画報』で見つけた小音楽堂です。「軍神九柱の合同海軍葬」と同じ年(昭和17)の誌面。この時期のファッションは、戦争中ゆえリメイク中心で地味になりがちでした。その地味さを補ってくれるオシャレな背景が、小音楽堂だったのかもしれません。詳しくはこちらをご覧ください。おリボンと大政翼賛会 - 佐藤いぬこのブログ

婦人画報昭和17年6月

▽……と、こんな感じで日比谷公園「小音楽堂」の画像を集めていたところ、ありがたいことに南青山の老舗アンティークトイ店「ビリケン商会*4の三原ミミ子さまから可愛い写真を見せていただきました!小音楽堂を中心にした構図といい、ミミ子さま(右)のベレー帽の傾き方といい、とてもステキです。(許可をいただいて掲載しています)


 以上、日比谷公園の小音楽堂が見つめてきた昭和の光景でした。

今回は昭和を中心に紹介しましたが、私が愛読している『都市と緑』(1973 ・東京都公園協会)という本には、もっともっと昔、明治・大正の公園エピソードが詰まっています。日比谷の野音[やおん]は軍用馬の集散所だった…など。筆者は、明治から昭和にかけて緑化を推進した井下清東京市の公園課長)。庶民と公園が出会った時代の熱い想いが綴られています。おすすめです。

私のブログには、戦中・戦後の定点観測シリーズがあります。あわせてごらんください。

▽有楽町・日劇の場合

narasige.hatenablog.com

▽銀座・松屋の場合

narasige.hatenablog.com

▽日比谷・宝塚劇場の場合

narasige.hatenablog.com

 

*1:現在(2024年8月)、日比谷公園のサイトに、小音楽堂は「日比谷公園の再生整備に伴い、令和6年9月1日以降ご利用を休止とさせていただきます」と出ていました

*2:日比谷公園内にある資料室のアカウントからhttps://x.com/college10/status/1135733999651790848/photo/3

*3:『MPのジープから見た占領下の東京』(1994)によれば、敗戦後、日比谷公園霞ヶ関寄りに進駐軍専用の「日比谷ドライブイン」があったそうです。

*4:私・佐藤いぬこが作った獅子文六についてのZINE「認識不足時代」を置いていただいてます

「関心領域」みたいな色の写真(日本・1950年)

 映画「関心領域」は、褪色したような明るい色彩(と叫び声)が印象的でしたね。

実は「関心領域」に似た明るい色彩が、 戦後間もない日本にもありました。駐留軍の家庭に…。

今回紹介するのは1950年前後の仙台とその周辺を撮影した、ある一家です。(※すべてもとからカラー写真。経年変化で暗くなってしまった写真などは、明るさを調整しています)

▽たとえばコチラ。「関心領域」っぽい色合いですが、看板は日本語。そう、ここは島国。https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863003143

▽キャプションに[Kawauchi tract]とあります。Kawauchiは、現在の東北大学・川内キャンパス該当すると思われる。

399 - 7May50 - Kawauchi tract

▽ここのウチのお父さんお母さんのようです。

339 - 19Apr50 - Kyoto

▽日本なのだな

521 - 22Oct50 - Sendai

449 - 6Aug50 - Kawauchi tract

戦勝国の少女がふつうの服を着ているだけで、輝いてしまうケース

540 - 29Oct50 - Sendai

▽海辺の子供たち

539 - 29Oct50 - Sendai

▽日本のメイドさんらしき女性と

213 - Sept49 - Kawauchi tract

▽上の写真の建物を引きで見るとこんな感じ。極東の仮住まい。

448 - 6Aug50 - Sendai

▽帰国なのか、次の赴任先への移動なのか。173 - 28Jun49 - Ainsworth, Yokahama

▽敗戦国の少女がこういう服を手にするのは、まだ先の話です。

508 - 10Sept50 - Sendai

▽敗戦国の服装事情はこちら

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日本人がカラーで撮らない風景

 『関心領域』の一家は 「庭」の中だけで完結していたけれども、このお宅は外の写真を大量に撮っています。

▽日本人がカラーで撮らない風景 1950年仙台

281 - 2Jan50 - Sendai

▽前から見たところ。背景の「R.T.O 」の看板は、進駐軍の鉄道輸送事務所(Railway Transportation Office)

https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863739972

▽海水浴の帰りらしい。本国と同じノリで薄着になってる?周囲の日本人はびっくりしたことでしょう。

183 - Jul49 - Yamato

日本のフィフティーズには、土管あり

457 - summer50 - Sendai

▽高齢と思われる女性が、キツい労働をしています。うしろの人は裸足。440 - July50 - Kawauchi tract

▽お弁当を食べている女性たち。重労働のあとの休憩でしょうか。敗戦から5年。それぞれ辛い事情がありそうです。https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863012147/

▽可愛い形に見えるけれど、木炭バスhttps://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3863774902

▽布団がずらり。

224 - 25Sept49 - Sendai

▽チョコザップが成立しない時代

384 - May50 - Sendai

▽換気ばっちり496 - 20Aug50 - Sendai

▽民家の庭先に「 Camp Younghans」。「 Camp Younghans」は現在の自衛隊・神町(じんまち)駐屯地[山形県]

178 - Jun49

▽標識に【仙台・東京・黒磯・宇都宮】。敗戦後は各地に横文字の標識が立てられましたが、(例:銀座の場合)、これは字がふわっとしている。ここの店の人が見よう見まねで作ったものかもしれません。

https://www.flickr.com/photos/norb_faye_lang/3862966979

▽仙台の七夕

490 - Aug50 - Sendai

▽この撮影者は日本だけでなく、朝鮮戦争がはじまる前のソウルも大量に撮影しています。

83 - Nov48 - Seoul, Korea

 以上、「関心領域」みたいな色彩の日本(1950年・仙台)でした。その他、日本の“フィフティーズ”については、こちらもあわせてご覧ください。

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▽立川基地の周辺

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▽朝霞の周辺

【国難突破】笑いのパワー(昭和8年の雑誌付録より)

 「笑いで健康づくり推進条例」のニュースが流れてきましたね。このニュースで思い出したのが、昭和初期に発行された「笑い」をテーマにした雑誌付録です。

www3.nhk.or.jp

 今、私の手もとにあるのは、昭和8年・新潮社の『笑いの日本』と、昭和11年講談社の『トテモ愉快な絵読本』。どちらも人気マンガ家や著名人をぜいたくに起用しています。

「うっとうしい国難」を笑いとばそう

 しかしこれらの雑誌付録は、表紙から連想されるような“古きよき時代のノンビリした笑い”という雰囲気じゃないんですよ。「笑い」の陰に焦りみたいなものがただよっている。

▽表紙は福々しいけれど…

『笑ひの日本』(新潮社「日の出」昭和8年8月号付録)

今回は、昭和8年8月の『笑ひの日本』(新潮社)をメインに紹介しましょう。ちなみにこの年の3月、日本は国際連盟の脱退を通告しています。

▽「笑へ!大いに笑へ!」と、圧の強い前書き。

笑へ!大いに笑へ!今の日本に1番必要なものは、朗らかな笑ひだ。うっとうしい国難も、不景気も、健全な笑ひによってのみ、打開されるのだ、一掃されるのだ

『笑ひの日本』(新潮社「日の出」昭和8年8月号付録)

▽【資源の山】=【満洲】があるから、笑えるよね?という理屈。「自力更生のヘコ帯しめて」という響きもなんだかイヤ。

新興満洲は資源の山だ 国難非常時 笑って突破 経済封鎖も何のその 笑いのニッポン ワッハッハ

『笑ひの日本』(新潮社「日の出」昭和8年8月号付録)

昭和8年『笑ひの日本』には、ヒトラー焚書ネタもある。くず屋と交渉するヒトラーです。なんとなく戦後の漫画のように見えるけれど、左下に1933年(昭和8)のサイン。

昭和8年8月 新潮社「日の出」付録 「笑ひの日本」

昭和11年『トテモ愉快な絵読本』より、戦死した息子に手をあわせる老父。繰り返しますが、冊子のタイトルは『トテモ愉快な絵読本』です。

『トテモ愉快な絵読本』大日本雄弁会講談社「富士」昭和11年新年号月号附録

敗戦と笑い

 「うっとうしい国難は「笑い」のパワーで突破できるはずだったけれど、結局できませんでしたね。

余談ですが、これは敗戦の翌年に出た「初笑い いろはかるた」アサヒグラフ)です。またしても無理な「笑い」を提案している。原爆カルタで、一体どう笑えと?

アサヒグラフ』(昭和21・1・5 朝日新聞社)から「初笑い新版いろはかるた」

▽同じく「初笑い いろはかるた」から「良薬は口に苦し B29」。大空襲が「良薬」とは…。

アサヒグラフ』(昭和21・1・5 朝日新聞社)から「初笑い新版いろはかるた」

▽今回は昭和8年の冊子を主に紹介しましたが、昭和11年の「笑い」はこちらをご覧ください。「笑い」と「死」が混ざってます。焼け野原になるまであと9年。

narasige.hatenablog.com

▽「うっとうしい国難」の時代にデビューしたのが、昭和のユーモア作家・獅子文六です。

narasige.hatenablog.com

 

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