獅子文六と「ご時勢の急変」をテーマにしたジンを作りました

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獅子文六と「ご時勢の急変」をテーマにしたジンをBOOTH で販売中!

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ビリケン商会(青山)・オヨヨ書林新竪町店(金沢)・DA NOISE BOOKSTOREでもおもとめいただけます。

流行語の「認識不足」と、獅子文六

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獅子文六といえば『コーヒーと恋愛』(昭和37)。テレビ業界が描かれているので“戦後の作家かな?”と思われるかもしれません。しかし『コーヒーと恋愛』は69歳(!)の時の作品なんです。

 

デビューはもっともっと前、つまり戦前。ところが獅子文六がユーモア小説家としてブレイクしたとたんに、日本は戦争モードになったのでした。( 朝ドラ「エール」の古関裕而*1も同様のタイミングでしたよね)

ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」(2020年11月発行)は、流行語だった「認識不足」を軸にして、昭和11年〜25年の16作品を並べています。戦争に突入する時代をテーマにしたジンですが、お茶の時間にサッと読めるように作りました。フェーズが変化するたびにキラキラしたモダン生活が消えるのを感じてください。

ちくま文庫の「断髪女中 獅子文六短編集 モダンガール編」をセレクトされた山崎まどか様のTwitterより。

ビッグイシュー411号「究極の自由メディア『ZINE』」特集に掲載されました。

「認識不足時代」で引用した 参考画像

ジン「認識不足時代」では、各種参考画像も紹介しています。

▽これは国際連盟脱退で揺れている頃の漫画。かわいい絵ですが、時代の空気が伝わってきます。(昭和8年2月講談社「キング」小野寺秋風) 

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昭和14年「欧州大戦勃発」の漫画タイトル(昭和14年11月新潮社「日の出」)

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▽49歳頃の獅子文六。本名の岩田豊雄で「海軍潜水学校」を訪れている記事。昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』より。(20年後の昭和37年、『可否道』=『コーヒーと恋愛』を読売新聞に連載します)

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ジン「認識不足時代  ご時勢の急変と、獅子文六 」は、画像が多め・字も大きめ。「獅子文六に興味ないなあ」という方もぜひ!コロナ禍で時代が急変している今、何かのヒントになりますように。 

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▽このジンを作ったきっかけは、2014年のラジオ(宇多丸さん)でした。

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獅子文六(岩田豊雄)の小説『海軍』と、副主人公

青春感MAX(?)の物語、獅子文六『海軍』

2022年7月、こんなドラマがはじまるそうです。公式ツイッターの謳い文句には 「青春感MAX 」とありました…

さて、獅子文六が本名の岩田豊雄で書いた『海軍』は、ある意味「青春感MAX」の(国策に沿った)物語といえるでしょう。 日米開戦後に新聞連載された『海軍』(昭和17)は、ピュアすぎる若者2人が海軍士官を目指すストーリー。熱い友情で結ばれた2人ですが、1人は「軍神」に、もう1人は「海軍画家」になるのです。

天使じみた「主人公」と、情緒不安定な「副主人公」

小説 『海軍』は、「主人公」と「副主人公」がいて、「SIDE:A」「SIDE:B」みたいになっているんですよ。『カメラを止めるな!』ほどではないけれど、後半でガラッと視点が変わります。

「主人公」の真人は、着々と軍人の道を歩む温和な青年。一方「副主人公」の隆夫は健康に難ありで海軍士官になれなかった青年です。

「主人公」はストイックな天使といった感じだけれど、「副主人公」は一般人寄り。高円寺周辺でくすぶっており、激怒したり狂喜したりと忙しそう…。(※「副主人公」は、“戦争中、海軍の詳しい話は書けない”という事情から、説明役として誕生したキャラ)

「副主人公」のサクセスストーリー

今回は小説『海軍』を、「副主人公」である隆夫を中心に見てみますね。

近眼で体力のない隆夫は、憧れだった海軍から拒否されて、絶望のあまり故郷の鹿児島を飛び出します。上京して、海軍とは正反対の仕事=画家を志してみるものの、上手くいかずノイローゼに。「海軍士官に、なれなかったばかりじゃない、画家にも、なれなかったのだ…」。

ところが隆夫は、近場の海でうっかり軍艦を見てしまいます。そして「あれを描かないでどうするんだ…あんなにも、美しいものを!」と烈しく感動、自分をふった海軍への恨みを忘れ「おれは、海を描けばいい、軍艦を描けばいい!」と「海軍画家」を目指すのでした。

副主人公、海洋画を研究する

「海軍画家」を目指すことにした隆夫ですが、彼の絵の師匠はあいにく山岳画家でした。だから海の絵に関しては、独自に研究する必要があった。隆夫が参考にした画家の1人が、東城鉦太郎です。一瞬、架空の人物?と思ってしまったけれど、実在の画家なんですね。「東城画伯」の絵は原宿の「海軍館」*1(場所はビームス原宿の向かい・東郷神社の隣)に展示されていました。詳細はコチラ→原宿にあった「海軍館」と、『なんとなくクリスタル』 - 佐藤いぬこのブログ

▽「東城画伯」の絵の例(東城鉦太郎「日本海海戦」)

『海軍館大壁画史』昭和15年 海軍館壁画普及会

▽原宿の海軍館内部。グルリと絵が展示されています。

『海軍館大壁画史』昭和15年 海軍館壁画普及会

「恐ろしい宣伝力をもったポスターを描いてやる」

しかし画家仲間は、隆夫が描いた軍艦の絵をバカにするんですよ。“それって、作品じゃなくて、ポスターですよね”と。

激怒した隆夫は「よし、ポスターなら、ポスターでいい」「恐ろしい宣伝力をもったポスターを描いてやる」と奮起します。

やがて彼の絵はめでたく「海軍大臣賞」を受賞し、ついに海軍省報道部に画家として採用されるのでした。そう、隆夫は、当初の目標だった海軍士官とは別のルートから、憧れの海軍に奉仕することができたのです。

「説明係」として誕生した副主人公

先述のとおり、「副主人公」である隆夫は、“戦争中ゆえ、機密に触れるのは不可能”という事情から作られたキャラでした。以下、「小説『海軍』を書いた動機」/『海軍随筆(昭和18)』より。

僕が小説「海軍」の主人公が、 遠洋航海以降、如何なる艦上生活をし、如何にしてあの立派な戦死を遂げたかと言う経路に、全然触れなかったのは、1つには素人の想像の及ばざることでもあったからだが、主としては、現在がまだ戦争遂行中であり、機密に触れることを許されなかったからである。

そこで僕は、そういうことの説明係として、副主人公を置くことにした。副主人公を通じて、読者に、許される限りのことを伝えたいと思った。そういう理由で、非常に隔靴掻痒の感があるかもしれないが、現在としてはやむを得ぬことである。天がもし僕に寿命を藉せば、戦争終了後に於て、小説の後半を書き足すこともできる。

この時点では、“戦争が終わったら”思う存分「小説の後半を書き足す」予定だったのかもしれません。「副主人公」の隆夫が活躍するスピンオフだって生まれたかもしれない。もし、戦争がすぐに終わっていたならば…

軍艦旗を讃美なすった」文士の戦後

敗戦後の獅子文六が書いたのは、『海軍』の後半部分ではなくて、『日の丸問答』(昭和25)*2という小説でした。

彼は戦時中に「軍艦旗」という小説を書いて、ちょいとアテたのである。尤も、そのお陰で、戦後、パージになりかけて青い顔をしたという噂がある。(『日の丸問答』より)

『日の丸問答』には、戦時中の小説で「ちょいとアテた」文士が、雑誌記者にネチネチ詰め寄られるシーンがあります。(←文士のモデルは獅子文六自身。本名の岩田豊雄を「石田石造」、小説『海軍』を『軍艦旗』としている)

「しかし、先生なぞは、無論、国旗はご所持なのでしょう。軍艦旗をあれほど讃美なすったのですから」「 先生も、今度こそ(公職)追放は免れませんな」といった感じ。詰められた文士は「夜這いをし損なった男が、朝になってシラを切るような調子で」狼狽するのです。『日の丸問答』は、いろいろと特濃な短編なので、ぜひ『海軍』とあわせて読んでみてください。

獅子文六と出刃包丁

ちなみに「仁義なき戦い」の脚本家・笠原和夫は、少年時代、獅子文六の『海軍』に夢中になっていたそうですよ。その熱量のすごさは、自伝「妖しの民」と生まれきてに書かれていますが、それだけに戦後のショックも大きかった。以下は、破滅の美学 (ちくま文庫)より。

そういえば、私も2度ほど出刃包丁を持とうか、と思ったことがある。ひとつは、戦争が終わって、海軍の復員兵として食うや食わずの生活をしていた頃で、戦時中、私たちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六ペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光浴びているのが許せなかった。

海軍の実態は、岩田氏が書いたものとは全く違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを隠して美化し、筆力を持って若者達を海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。何が『てんやわんや』だふざけやがってと、20歳前後の荒んだ血で、岩田邸に乗りこもうと考えたのだが、これは空想に終わってしまった。今でも私は獅子文六に好感も敬意も持っていない。

まとめ

以上、獅子文六が本名の岩田豊雄で書いた『海軍』のご紹介でした。「戦後、パージになりかけて青い顔をした」はずの獅子文六は、その後も人気作家であり続け、原作は競って映画化&ドラマ化されています。

でも『海軍』の「副主人公」みたいな青年たちはどうなったのでしょう。敗戦で心が折れたまんま?あるいは笠原和夫みたいに出刃包丁を空想?それとも“次、いってみよう”と切り替えられたのか。気になるところです。

【参考】昭和17年獅子文六岩田豊雄として「海軍潜水学校」を訪れている記事。この記事からちょうど20年後、『コーヒーと恋愛』(可否道)の新聞連載がスタートします。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』より

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*1:原宿の「海軍館」は、主人公が通う江田島海軍兵学校にあった「教育参考館」の説明部分にもチラッと出てきます。「真人の入校した頃に、東京の海軍館ほどの、美しい新古典派の石造建物が、新築されたのである。」

*2:朝日新聞社獅子文六全集12巻』収録

1938年のベルリンで、宝塚の歓迎会がありました【山口青邨の『滞独随筆』より】

ベルリン子の熱狂と山口青邨

話題の書店、神保町のPASSAGE by ALL REVIEWS*1山口青邨の『滞独随筆』を見つけました。山口青邨は、“俳人で鉱山学者”。ちょっとビックリするような表紙ですが、今日はこの本とともに、宝塚のドイツ公演についてご紹介しましょう。

映画「ジョジョ・ラビット」のオープニング感

さて突然ですが、映画「ジョジョ・ラビット」、ご覧になりましたか?冒頭でビートルズの「抱きしめたい」(のドイツ語版)が流れ、群衆がワー!キャー!とヒットラーに熱狂する様子が印象的でした。私は観た時「えッ、こいういう表現、大丈夫?」とドキドキ。しかし今回『滞独随筆』を読んでみて、あのオープニングはけっこうリアルだったのかも、と思えてきたのです。

『滞独随筆』は昭和12-14頃(1937-1939)のドイツの様子を記した本で、日付も入っているからブログの魚拓を読んでいる気分。著者の山口青邨は、ドイツの「工業の心臓部」エリアで、工場や鉱山を見学する仕事などをしており、ヒットラーを見ようとする群衆にたびたび遭遇しているのです。大群衆の渦に巻き込まれた時は「ひょっとすると自分もここで死ぬかもしれない」と圧死を覚悟したことも。

ベルリン子たちは、ヒットラーが来るとなると、もう朝のうちから、お弁当と折りたたみ椅子や折り畳めない藤椅子(!)を持参してスタンバイしていたとか。宣伝相ゲッベルス「伯林の人々よ!街頭に出でよ、そして総統に感謝を捧げよ!」という告示、小旗を満載したトラック、家の窓から「ハイル・ヒットラー!ハイル・ヒットラー!」と叫ぶ人々、押すな押すなの小競り合い…。中には棒の先に鏡をつけた装置?で人垣の後ろから見物を試みる人もいたそうです。

宝塚少女歌劇団の歓迎会

そしてちょうどこの時期、宝塚がドイツ・イタリー公演を行っており、山口青邨はその歓迎会に出席していました。(出発前の宝塚の様子はこちらをご覧ください)

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歓迎会からサッっと帰る乙女達

では、『滞独随筆』から、宝塚少女歌劇団の歓迎会の部分を引用してみますね。寿司や煮〆、白菜の樽漬などが用意された歓迎会には、ベルリン中の日本人が集合。しかし「可愛い娘達」はすぐ帰ってしまい、残された日本のおじさん達がいきなり淋しさにおそわれる様子が2頁にわたって書かれています。

自分の娘たちか、妹たちが歌ったり踊ったりしてるのだと思ふやうな気がしたのです。 はるばる祖国からから来たんだ、いたわってやり度いといふ気持ちがしました。  (略)さっと帰られたものですから、お父さん、兄さん達は寂しくなったのは当然です。

歓迎会で「お父さん、兄さん」の気持ちになっていた著者の山口青邨は、当時アラフィフ。←ドイツ人からは、青年だと間違われていたとか。

▽『滞独随筆』から「虚子先生への手紙」(1938年11月10日付)より

『水晶の夜、タカラヅカ

上の文章を見たときは、“せっかくの歓迎会なんだから、乙女達もすぐに帰らないで、もうちょっと、いてあげたらよかったのに。あと、やっぱりこの時期「愛国行進曲」と「露営の歌(朝ドラ「エール」の古関裕而が作曲)」はマストだったのかなあ“等と思っていた。

しかし『水晶の夜、タカラヅカ』を読んで、考えが変わりました。これは歓迎会に長居できないわ!と。宝塚のドイツ公演は(異国とはいえ同盟国だし)なんとなくスムーズに行われそうじゃないですか?ところがどっこい、実際には日独でさまざま行き違いがあり、直前まで“公演できるの?できないの?”みたいな綱渡り感がすごいんですよ。会場は決まらないし、練習もままならない。しかもヨーロッパの寒さは半端ない。いやあ、かなりきつそうです。以前、プロインタビュアー吉田豪が“芸能人の本を読む時は、同じ出来事を複数の本で読むと、立体的になってくる”と言ってましたけど、たしかに複数の本で読むって大切ですね!

水晶の夜、タカラヅカ

きびきびしたヒットラー

最後、山口青邨の『滞独随筆』に話を戻します。山口青邨は、昭和12年2月に日本を発ち、昭和14年4月に帰国する2年数ヶ月の間、ベルリンを拠点として欧米に滞在していました。「ちょうど戦争が始まる前のいろいろな複雑な情勢の時にぶつかって」おり、その見聞を昭和15年3月に出したのが『滞独随筆』というわけです。なので、当然、現在とは歴史の見え方が違っている。たとえば「滞独」しているうちに「きびきび」したヒットラーを好きになってしまったり…。

ヒットラーは今、英雄になりつつある。私はむかふに行くまではヒットラーは好きではなかった。しかし2年の間に、ヒットラーを眼のあたりに見たり、演説を聴いたり、きびきびと仕事をしたり、最後には一兵卒として先頭に立って敵地に進軍したりするところを見てるうちに、たうとう好きになってしまった。

この「好きになってしまった」感は、『滞独随筆』の装丁にもあらわれているようで、カバーをとるとこんな感じ。『滞独随筆』は「日本の古本屋」にもあります。ぜひ『水晶の夜、タカラヅカ』とあわせて読んでみてください!

▽戦中・戦後の宝塚劇場(日比谷)についてはこちらを。

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*1:「古書日月堂」の本棚にありました。

阪本牙城の“わしづかみ力”と、戦争

“わしづかみ力”がすごい阪本牙城の漫画

阪本牙城といえば「タンクタンクロー」。近眼の私の目にもグイグイ飛び込んでくるこのタッチ!

ちなみに、創刊時のanan等をてがけたデザイナー堀内誠一(昭和7生)は、幼い頃から雑誌編集ごっこをしていたそうで、阪本牙城や新関健之助を「漫画の一流執筆者」として揃えていたそうです(笑)*1。 当時、似たような遊びをした子供は多かっただろうけれど、堀内誠一の雑誌ごっこは完成度が高かったでしょうね!

昭和10年『タンク・タンクロー』(昭和45年復刻版・講談社

▽阪本牙城は「タンクタンクロー」以外の絵も可愛いんですよ。ほぼ90年前の絵なのに、とっても鮮やか。

この絵も、阪本牙城。可愛いでしょう?

昭和8年5月講談社「キング」

こちらは昭和3年、出来立ての村山貯水池でデートしているモボとモガの図。モガの刈り上げ、たくましい脚!

阪本牙城「村山貯水池」/ 昭和3年『現代漫画大観 日本巡り』

人気まんが家と文化工作

やがて、戦争の時代がやってきます。大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作 (集英社新書)を読んで、阪本牙城が満州に渡った経緯を知りました。彼は過酷な環境の満洲「奉仕隊のユーモア面を採集」義勇軍の子供たちに、漫画の描き方を教えて歩いた」のだそうです。

田河水泡と、阪本牙城という2人の人気漫画家は、田河が動員に加担した青少年を現地で阪本が庇護をしていくという奇妙な共同関係として戦時下を生きた。

国家の非常時に“わしづかみ力”のある人って、なにかと“お声”がかかるんだろうなあ。漫画でも、小説でも、音楽でも。

極限状態とユーモア

ところで過酷な環境といえば、映画『オデッセイ』(原作『火星の人』)。高スペックの大人が、ジョークを言いながら冷静に火星を生きのびていました。極限状態では、ユーモアセンスの有無が生死を分けるんだろうな。そう思わせる映画でした。

でも満州の「義勇軍の子供たち」は一般人じゃないですか。そんな「子供たち」に、ユーモアや漫画がどれくらい“効いた”のかしら、本当のところ。

田河水泡の「義勇兵勧誘まんが」は、コチラで見ることができます。すごく楽しそうなパンフレットで、私が適齢期の少年だったらすぐ勧誘されてしまいそう。

bunshun.jp

▽阪本牙城が描いた満州はコチラから。朗らかな漫画の裏で本当は何があったのか?読みながらついドキドキしてしまいます。ぜひご覧ください。このドキドキ、「小説界のわしづかみチャンピオン」(←今、私が命名)こと獅子文六が、敗戦時まで雑誌連載していた明るい物語*2を読んだ時にも感じました。

ebookjapan.yahoo.co.jp

オマケ

これも阪本牙城。昭和3年ごろです。左のオジサンが「冷えちゃいけないよ」と言っているのがわかりますか?10年ほど前、私はこのセリフに感激し、ずばり『冷えちゃいけないよ』というタイトルのZINE(冊子)を作ったことがあります。 女性の冷えと健康について考える内容でした。

昭和3年『現代漫画大観 職業づくし』

この漫画の「冷えちゃいけないよ」というセリフは、【①平時に②内地で③若い美人に向けて】発せられていますが、その後の大日本帝国は敗戦に向かってグチャグチャになるわけで。こうやって人をいたわる余裕はいつまであったのか、考えさせられます(自治体が出しているお年寄りの回想録などで、「戦中戦後の辛い時期にも、あたたかい人情があった」的な証言を見かけるけれど、それは運良く生き延びた人の言葉だし)。

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*1:父の時代・私の時代 わがエディトリアルデザイン史

*2:『一号倶楽部』は、底抜けに明るいオバチャンが主人公。朝日新聞獅子文六全集では『海軍』と同じ巻にまとめられています。なぜ明るいオバチャンの話が、『海軍』と同じくくりなのか?それは、戦争末期にオバチャンが読者を朗らかに鼓舞しているからでしょう。以下、獅子文六全集付録月報No.3 昭和43年7月より引用します。「今となっては、それらの文章は反古となり、かつ本名で書いたのだから、今度採録すべきや否やを、疑ったが、しかし、全集というものの性質を考えると、書いたものは全部収めるのが、至当と思った。私がそういうものを書いたのは、明らかな事実であり、また、戦争中の行動を秘そうとする一部の人々の考えを、私は正しいと思わない。 ただ、今頃そんなものは読みたくないという人と、逆に考える人と、二種あるだろうから、取捨を任せるために、戦争中の文章を一巻に収めることを、出版元に依頼した。

基地と音楽と「鹿」

“米軍基地が洋楽の発信源”だった、みたいな話ってありますよね。私は音楽に詳しくないのでその辺はチンプンカンプン。しかし地元・立川(←「シン・ゴジラ」で災害対策本部ができていた場所)のことを調べていると、ときどき音楽関係の画像を見かけるので、今日はそれをまとめてご紹介しましょう。後半には、なぜか「立川のヘラジカ」も登場します。

▽【参考】敗戦間もない頃の銀座に立っていた標識*1。上から4番めに「立川」があります。

立川=「Tachi」

はじめに画像の見方のコツをどうぞ。今回のテーマとなる「立川」は「Tachi」なんです。(立川で少年時代を過ごしたアメリカ人が写真をflickrにまとめているので、そちらもぜひ。)Tachikawa Air Base Japan 1945-1977 | Flickr

▽たとえば、こんな感じで「Tachi」(立川)が出てきます。これは基地に向けた音楽情報誌のようで、グラントハイツ(成増)の予定が載っていることも。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14368232788

「Tachi」のクラブで歌う日本人

左は竹越 ひろ子、右は小宮あけみ。たぶん日本人向けとはメイクを変えているんじゃないかな。「こんまり」が、日本人向けYouTubeで雰囲気を変えるように。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14554834985

立川の「イースト」と「ウエスト」

▽立川基地は「イースト」と「ウェスト」がありました。現在、イース側に「ららぽーと」、ウェスト側に昭和記念公園があります。シン・ゴジラ」の災害対策本部もたぶんウェスト側。

Tachikawa AB MAP | mike skidmore | Flickr

▽これははジョディ・ミラー「Tachi イースト」側にやってくることを知らせる記事。彼女は【府中】→【立川】→【成増(グラントハイツ)】とまわったようです。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14574933393

▽ジョディ・ミラー

youtu.be

立川の「NCO CLUB」と、ヘラジカ

そして立川の画像を検索しているとよく見かけるのが「NCO CLUB」の文字。下士官Non Commissioned Officer)クラブでしょうか。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/8806390861

▽「NCO CLUB」の外観。前に置かれている「鹿」が気になります。この画像には“NCOclub Mooseと説明有り。なぜ、ムース(ヘラジカ)?

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/8817032958

NCOclubMoose

▽立川「NCO Club」の前にポスターがずらり。赤枠の中に「TACHIKAWA WEST NCO CLUB」。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14368409807

▽これも「NCO CLUB」前。出演者なのか業界人なのか、イカツい人たち。

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▽立川の「NCO CLUB」とThe Mills Brothers。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/8806390907

▽NCO Clubの中はこんな感じ。1961年。

1961 Tachikawa NCO Club West Side

なぜ立川にムース(ヘラジカ)が?

先述した立川基地内「NCO CLUB」のヘラジカは、ほかにも画像があります。これはタバコをくわえさせようとしている男性。https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14574872233

▽プログラムの表紙にもなっている。下部に「TAB(立川エアベース) WEST NCO OPEN MESS」の文字が見えますか?ページをめくるとこんな感じ→□

NCO Club 9-1960 FrontCalendar

▽このムース、終戦間もない頃にもいたんですね*2「TACHIKAWA 1946」の書き込みに注目。

https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/213357028

まとめ

以上、立川基地と音楽とヘラジカの画像でした。こうやって写真を並べてみると、立川はまるで“音楽があふれる、ゴキゲンな街”みたいなイメージですね。しかし、それは違うんです…。松本清張ゼロの焦点』(立川の暗部がカギ)的な側面があったわけで。

▽今回は1960年代の音楽画像を中心にご紹介しましたが、ぜひ1950年代(朝鮮戦争の頃)の立川も見てください。立川の大騒ぎが、となり街の未来に影響を与えていたのです。

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*1:この標識を引きで撮った写真が『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)に複数出ていました。立てられていた場所は銀座4丁目交差点近く

*2:立川基地で働いていた日本人の手記を読むと、敗戦直後すでに「大きな鹿の像のある建物」があったことがわかります。(→PDF。4ページの真ん中あたり

コーヒーと恋愛とB29【獅子文六『コーヒーと恋愛』連載開始60周年】

敗戦から『コーヒーと恋愛』までは、17年

コーヒーと恋愛 (ちくま文庫)

仲間由紀恵の「トリック」も、クドカンの「木更津キャッツアイ」も、20年前のドラマだってご存じでした?いやあ、月日のたつのは早いものです(笑)

さて獅子文六『コーヒーと恋愛』(可否道)といえば、なんとなく“古き良き昭和”のイメージをまとっている作品ですが、新聞連載開始は1962年。 敗戦から17年しかたっていないんですね(昭和37年11月-昭和38年5月読売新聞)。主人公がテレビタレントなので、よけい戦争からの距離を感じさせないのかもしれません。

“『コーヒーと恋愛』が意外と焼け野原に近い”ことを再確認できるのが、新聞連載時に挿絵を手がけていた宮田重雄のエッセイです。今日は宮田重雄のエッセイ集『竹頭帖』をご紹介しましょう。

【参考】敗戦間もない東京駅はこんな感じ。屋根無し。

マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋1983年)に加筆

原田治が絶賛した挿絵

まず、宮田重雄の挿絵がどんな感じだったかご覧ください。これは『コーヒーと恋愛』(『可否道』)の挿絵。一瞬、「うっ、昭和すぎる…」と思われるかもしれません。でも、可愛いOSAMU GOODSでおなじみ原田治が、宮田重雄を絶賛していましたよ!「半世紀も前の絵なのにみずみずしくて新しい」って。→宮田重雄さしゑ展 - 原田治ノート

獅子文六全集 第9巻』(朝日新聞社)より

▽同じく宮田重雄による『青春怪談』(獅子文六)の挿絵。お背中ポッテリ♡

獅子文六全集 第7巻』(朝日新聞社)より

医師で画家。多才な宮田重雄のエッセイ集『竹頭帖』

このような挿絵を描いていた宮田重雄は、医師であり、かつ画家でした。しかも人気ラジオ番組(『二十の扉』)にレギュラー出演していたとか。どれだけ多才なんだ…

軍需工場付属病院の院長だった時代と、「B29」の陳列

敗戦の年、つまり『コーヒーと恋愛』の十数年前、宮田重雄軍需工場の付属病院(田無の中島飛行機)で院長をしていました。院長室は、「敗戦論者」が本音を言える秘密のスポットになっていたようです。以下、エッセイ『竹頭帖』より引用。

私は当時、中島飛行機附属病院の院長として、田無の工場付属の病院を建設中であった。(略)工場の技師たちは前から敗戦論者であった。科学的知識のあるものは、当然、そう考えたであろう。B29の部品を、戦利品のごとく、工場内に並べ、工員たちの士気を鼓舞しようと、軍が計画した。しかし、技師たちにはその部分がいかに良く出来ているかが手に取るように分かった。そして、代わる代わる、院長室へ来て、悲観論を私に述べた。病院の院長室だけが、憲兵の目と耳のとどかぬ場所であった。

私は映画や小説で泣かない人間ですが、「技師たちにはその部分がいかに良く出来ているかが手に取るように分かった」という箇所を読むと、いつも泣いてしまいます。

そして、迎えた8月15日。

15日は病院で陛下のお言葉をラジオで聞いた。院長として私は、皆に何か言わなければならぬので、一同の前に立ったが、言葉は声にならなかった。涙を流しぱなしにして、口をぱくぱくさしたきりであった。 虚脱状態が来た。これから日本はどうなるのだろう。

「涙を流しぱなしにして、口をぱくぱく」の「虚脱状態」から17年で『コーヒーと恋愛』というわけです。さわやかな『青春怪談』(獅子文六)にいたっては、敗戦からたった9年。「小説を提供する側」も「読む側」も、敗戦が“ついこの前の出来ごと”だった時代なんですね…。ちなみに『コーヒーと恋愛』連載時、獅子文六は69才、宮田重雄は62才。(もっとも、焼け野原からわずか19年で東京オリンピックをやってしまうのだから、復興すごいとしかいいようがありませんが)

まとめ

以上、獅子文六の『コーヒーと恋愛』の挿絵を手がけた宮田重雄の話でした。戦争との距離感を感じていただけたでしょうか。そしてこのエッセイ、静かな表紙から想像できないほど情報量が多いんです。“ヒットラー以前のベルリン” で、ノドボトケのある美女が沢山いるキャバレー「エルドラド」に行った経験や、獅子文六は早めに原稿をくれるからとっても助かる👍といった新聞連載秘話、パスツール研究所の思い出など。おすすめです!

▽なにかと情報量の多いエッセイなので、ついつい付箋を貼ってしまいました。

 

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「大陸」を描いた漫画

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「スピってる?」祖父の遺品から見つけた漫画

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先日、祖父の遺品箱から、古い漫画の原稿を発見しました。はじめにおことわりしておくと、祖父は漫画家ではありません。医者でしたが、本人が超病弱・貧乏だったんです。なので、この漫画は祖父が集めたものではなく、患者さん経由でいただいたものではないかと推測しているところ。

ここ十数年、私は昔の漫画を集めているので、このドンピシャな発見に「おっ、これがウワサの『スピってる』現象?」などと思ってしまいました。(『スピってる』は、時事芸人プチ鹿島さんがよく使う用語です。)

以下、今回見つけた漫画をご紹介しましょう。「大陸」が描かれているものが多かった。かつての「大陸」を考えるとフクザツな気持ちになりますが、こういう時代もあったということで参考までにアップしてみます。

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▽せんば太郎

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▽「大陸」のメモ有。おじいさんが新聞のニュースで喜んでいると…。(白路徹)

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▽こちらにも「大陸」のメモ有。「氷った魚 デバでは切れないので のこぎりで切るんですよ」(白路徹)

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▽「寒がり大人」(白路徹)

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▽「風強き日のたこあげ」(白路徹)

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▽裏面に、3コマ目のセリフについてのメモがありました。「笑で書きましたが不都合があれば改めてください」(小池茂)

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以上、祖父の遺品から見つけた漫画の一部でした。 祖父は早死にだったから会ったこともないけれど私が好きな画風の漫画を残してくれてありがとう!と天に向かって言いたいです。

▽【参考】「支那大陸に正義の戦をすすめている日本軍」の図。

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新潮社「日の出」昭和14年11月号

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原宿にあった「海軍館」と、『なんとなくクリスタル』

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海軍思想を広める施設「海軍館」

かつて原宿に「海軍館」という施設があったのご存知でしょうか?場所は東郷神社の脇で、ビームス原宿の向かいあたり。

堀内誠一の自伝『父の時代 私の時代』に、海軍館の描写があったので引用してみますね。ジオラマや食事など、子ども心をくすぐる仕掛けが詰まっていたことがうかがえます。

父の時代・私の時代 わがエディトリアルデザイン史

東郷神社の境内に海軍館という戦争博物館ができました。(略)海軍館には大きな水槽に潜水艦の断面を見せた模型が入っていて、どのように海水をとり入れて潜航を始めるか、浮上の時は圧搾空気がどのように海水を排除するかが解るものや、子供が飛行機を操縦したような気になれる乗物装置、海戦のジオラマなどが沢山動いていました。

おまけに地下の海軍食堂では、食器に全部、錨(いかり)のマークが入っていて、潜水艦の乗組員と同じというコンパクトな食事まで味わうことができたのです。私にとっては、学校から団体見学があると、これらの模型装置を父が作っているということが自慢でした。*1

▽こちらは昭和16年の『幼年倶楽部』より、東京原宿の海軍館を見学しているところ。堀内誠一昭和7年生まれなので、ここに描かれている子供たちとほぼ同世代でしょう。

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昭和16年6月 講談社『幼年倶楽部』

▽海軍館の外観はこんなかんじでした。どっしり。

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『海軍館大壁画史』昭和15年 海軍館壁画普及会

▽これは海軍館が完成した昭和12年の雑誌から。 「海軍思想と海国精神の普及を目的として一昨年来東京原宿に新築中の海軍館はこのほど完成、5月27日の海軍記念日を期して一般公開を開始した」。

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『ホームライフ』昭和12年7月号 大阪毎日新聞社

▽海軍館に展示されていた絵画については、こちらもぜひご覧ください。

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戦後の海軍館

そして敗戦。海軍館はどうなったかというと、原宿にあった社会事業大学が使っていたんですね(公式サイト年表)。大学は1989年に郊外へ移転しており、海軍館の跡地は原宿警察署になっています。

そういえば私が小学生の頃に通っていた塾は、“原宿の社会事業大学”が会場でした*2。つまり、私は知らないうちに海軍館のそばを歩いていた可能性があったのです。しかし、そのへんの記憶がボンヤリしていて残念…。(もっとも塾帰りにキデイランドに寄ることしか考えていない小学生が、古い建物に興味を持つわけがありません)

海軍館のお隣に、女子学生会館ができた

先日、南青山の老舗「ビリケン商会」様(私が作ったZINEを扱っていただいてます→□)の三原ミミ子さんに、“海軍館についてご存知ですか?”と何気なくうかがったところ、三原さんはご親切にも、原宿で長く仕事をされている方にお話を聞いてくださったのです。その方は海軍館のご記憶はなかったものの*3、付近にあった「東郷女子学生会館」をすぐに思い出されたとか。

▽そして、これがその「東郷女子学生会館」。そびえたつ女学生会館の右側をご覧ください。見切れているのが海軍館!カラーの海軍館にビックリです。こんな感じで建っていたんですねえ。(この写真の存在も三原ミミ子さんから教えていただきました)

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ジャパンアーカイブスより「東郷神社・東郷女子学生会館」

クリスタルと海軍館

さらに東郷女子学生会館を検索していたら、あの『なんとなくクリスタル』(1980年 田中康夫)に出ている、との情報を発見。さっそく『なんクリ』を購入してみると、たしかに「神宮1丁目にある」女子学生会館が登場しているではありませんか。

昨日の晩、私は江美子と一緒に六本木のディスコ遊びに出かけた。江美子は、原宿にある女子学生会館に入っている。

『なんとなくクリスタル』の名物、注釈集には「外泊する場合には、外泊先の証明書が必要になります。 地方に住む両親は、これで安心しているのですが、“法の抜け穴”というのは、考えればいくつかあるものなのです。」などと書かれていました(笑)

ああ、「海軍館」と『なんとなくクリスタル』が、隣りあっていたとは!時空の重なり具合にクラクラしてしまいます。(しかし、1980年の「地方に住む両親」の中には、“おや、女子学生会館は「海軍館」の隣じゃないか。子供の頃にジオラマ見たなあ。この周辺なら娘を預けても安心👍”なんて思う人がいたかもしれません)

まとめ

以上、「海軍館」のご紹介でした。2022年4月、世界は大変なことになっています。もし原宿に行く機会があったら、ぜひ 現在・過去・未来に思いをはせてみてください。このエリアにある和田誠記念文庫も、おすすめです。

▽敗戦から『なんとなくクリスタル』までは35年。2022年からふりかえると、焼け野原とクリスタルはけっこう近い。

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【参考】

便利なアプリ「東京時層地図」を使うと、まず海軍館が建ち、そのあと東郷神社やその他の建物がどんどん出来ていく様子がわかります。(※東郷女子学生会館は建物の形だけが記載されていたため、神社関係の施設かと思っていました)

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引用元:東京時層地図(昭和戦前期)

▽時間の重なりといえば、有楽町の日劇もすごいんです!(現マリオン)

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*1:堀内誠一の父親は図案家でしたが、海軍館や鉄道博物館の模型も手がけていました。

*2:泉麻人氏も、塾の会場が社会事業大学だったとか。「小学5、6年生だった当時、日曜日に通っていた進学教室の会場が東郷神社の隣の日本社会事業大学(現在、原宿署がある)のキャンパスだったのだ。」

泉麻人が綴る、原宿・表参道「オシャレカルチャー」変遷史 | 人生を豊かにする東京ウェブマガジン Curiosity

*3:海軍館については“あのあたりに鬱蒼と木が茂っているところがあった”という印象だそうです。

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