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Twitterで、1950年代の写真を少しずつあげています。(着色ではありません。元からカラー)。ぜひご覧ください! 

 

徳田ビル(パールハウス)

占領下の日本で撮影された写真を集めています。これは銀座の徳田ビル(パールハウス)。手前は、泰明小学校。

 

徳田ビルflickrより)

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私はこういうお洒落なビルを見ると「夏暑くて、冬寒そうだな」と、なんだか心配になってしまいます…。対外宣伝誌『NIPPON』の「日本工房」が、一時期このビルに入っていたんですね。

 

撮影したのは、右端の小柄な人。

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  徳田ビル手前の泰明小学校は「よし、わかった!」のおまわりさん、加藤武が通っていた学校です。意外にシティボーイなのです。

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 【参考】手前にうつっている泰明小学校について

fkaidofudo.exblog.jp



 

「銀座二十四帖」をカラーで置き換えてみる

モノクロの「銀座二十四帖」(1955昭和30・川島雄三)を、カラーで置き換える遊びをしてみました。(1950年代初頭の時代背景は「朝鮮戦争と聖路加病院」に書きましたのでご覧ください↓)

narasige.hatenablog.com

 

「銀座二十四帖」の公開は、終戦からちょうど10年。接収されていたビルが返還され、空襲で焼けた店の補修もすすみ、街の様子が急激に変わった頃です。(そう、「敗戦、即、復興!」とはいかないのです。あの歌舞伎座でさえ、戦後5年間は焼け落ちたままだったのですから…)

 

では、写真を紹介していきますね。

 

まず肥桶。「銀座二十四帖」のオープニングは、近郊の肥桶の匂いから始まるのです。(本当)

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花の仕入れ。主人公である花屋のコニー(三橋達也)が、花を運ぶイメージです。この時代の梱包はだいたい可燃物。

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コニーさんの花屋が入っているビル「東京温泉」のカラー写真はなかったのですが、外観のモノクロ写真と内部の様子を以前ブログにまとめました。ご覧ください。

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narasige.hatenablog.com

 

銀座の街並み。空襲を受けなかった松屋(TOKYO PX)をメインにして撮影すると、一見、復興と無縁そうな写真になります。※松屋は1952(昭和27)返還されるので、これは「銀座二十四帖」より少し前の写真です。

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新装後の松屋は1953(昭和28)オープン。改装前の方が重厚で素敵に見えますが、当時は(今も?)軽やかさが求められたのでしょう。

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松屋の屋上から下を見る。はじめこの写真を見たとき「どこかの街はずれかな?」と思ったのですが、拡大したら中央の建物に「教文館」の看板があるじゃないですか!!この風景は銀座のオモテ通りなのでした…。通りに面する部分だけ体裁を整えている店舗がみえます。

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 三越銀座三越も、なんだか重厚さに欠けるように思えますが…(下に続く)

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空襲を受けた銀座三越は、この状態からスタートしたのでした…。大変でしたね。*1

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街並み その2 。左奥に見える高い建物の場所には、現在、東急プラザ銀座があります。(旧・数寄屋橋阪急)

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銀座4丁目交差点。「銀座二十四帖」では、通行人でさえ細いウエストでしたが、実際は、まあ、こんな感じでしょう。

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銀座4丁目交差点から、晴海方面を見る。東劇を右に曲がったあたりに、美しい京極和歌子さん(月丘夢路)のお店があります。空襲で焼け落ちた歌舞伎座が数年後に再開するまで、歌舞伎は東劇でやっていました。

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喫茶 白馬車。「銀座二十四帖」の夜のシーンで、「SHIROBASHA」というネオンが登場します。写真を拡大すると割烹着・エプロンのおばさん達がうつっているのがわかります。

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松坂屋の屋上から見た銀座です。クライマックスのシーンに、繰り返し登場するナショナルと森永の看板。

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 ナショナルのネオン

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数寄屋橋 ピカデリー 。クズ拾いの人が寝ています。この場所は「銀座二十四帖」でも、似たような感じの人が座り込んでいました。パッとみた感じでは、①クズ拾いの人が、②松竹ピカデリー のすぐ前で寝転んでいるように見えますが…(下に続く)

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空から見るとこんな感じ。実は、①クズ拾いの人と、②松竹ピカデリー の間には、川(堀)があるのでした…。その後、川は埋め立てられ西銀座デパートになります。(私は中央区出身なので、子供の頃は西銀座デパートが東京の果てだと思っていた。)

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 「銀座二十四帖」のラスト近くでは、「ふんぷんたるドブ川の臭気は、映画にはうつっておりません」という森繁のナレーションが入ります。 「銀座二十四帖」は、肥桶の匂いではじまり、ドブ川の匂いで終わる映画なのですね!

 

【おまけ】銀座のキャバレー、クイーンビーケネディ大統領暗殺事件のオズワルドが利用したとされる店です。先日のNHKスペシャルでもこの写真を使っていたと記憶しています。(クイーンビーの資料が少ないため、NHKから辺境ブログの私にまで問い合わせがあったくらいなので)。日本人客は入れないそうですが、花売りのコニーさんなら入れたのでしょうか。

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*1:マッカーサーの見た焼跡」より

「暮しの手帖」の「浴衣を粋に着こなしたい」特集について

 

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2020年夏の「暮しの手帖」に「浴衣を粋に着こなしたい」という特集がありました。このタイトルについて少し考えてみたいと思います。

 

現在、浴衣や着物については「粋が目標!」のような空気があります。しかし、かつては「粋」をとりまく事情が微妙に違っていたようなのです。以下、その例をあげますね。

 

たとえば、昭和の人気作家 獅子文六の「ある美人の一生」は、「粋」を避ける女性が主人公です。

いつも束髪だったが、努めて、イキな形になるのを避けた。付近が下町であるから、イキづくりの風俗が、多かったが、彼女は、それに一線をかくするように、当時の言葉でいえば、"高等"好みにした。小作りで、キャシャな体つきが、ともすると、芸妓じみるのだが、彼女は極力、それを嫌って、医学博士の妻、富雄の母らしい品位を保とうとしていた。

 

 以上の引用で、「下町」「イキ」という言葉に注目してください。獅子文六は、横浜の裕福な貿易商に生まれた慶応ボーイですが、同じく彼が書いた「随筆 山の手の子」(昭和25年)には、

 

山の手は「ヤボの本山」

下町は「イキ」

 

と、「山の手と下町」「ヤボとイキ」が対照的に描かれています。(※獅子文六諧謔が売りだった作家なので「粋」は「イキ」、「軍部」は「グンブ」と、あえてカタカナ表記することが多いのです)

私が少年時代を過ごした学校には、山の手の児童が多く、下町の児童を「町ッ子」と称して区別した。下町は無智で旧弊の区域と思われていたが、しかし、内心、町ッ子の自由を羨むところがあった。

 

町ッ子の方が親から多くの小遣銭を与えられ、買物買食の禁制がなく、帰宅や勉強の時間制限もなく、自由寛達な世界に住んでいた。従って、町ッ子は陽気で、気楽で、役者の声色や落語の真似なぞできるのに、山の手の子は無芸な上にハニカミヤだった。町ッ子は大人の世界に混じって愉しんでいるのに、山の手の子は硬く立入り禁止だった。着るものも、町ッ子はは絹物を用いることがあっても、山の手の子は木綿の紺絣一点張りだった。

 

山の手の子は、たいがい厳しいしつけで育っていた。初代は文明開化を受け容れたといてっても、腹の底に残っている儒教や武士道が子供の教育に表れて、克己や質素をやかましくいうのである。(中略)中には、外国風の家庭もあったが、それはそれなりに教育がやかましい。万事やかましく育てられるので、山の手の子は、下町の子より道徳的に神経質で、痩我慢や片意地を持っていた。

 

地方の武士を先祖に持つ不器用な「山の手の子」に対して、門限のない家庭で育つ早熟な「町ッ子」…。

 

この「随筆 山の手の子」では、山の手の子の特徴として「正直で、上品で、清潔で、少しヤボ」をあげています。考えてみれば「暮しの手帖」こそ、まさに「正直で、上品で、清潔で、少しヤボ」な雑誌として愛されてきたはず。もし「暮しの手帖」が浴衣の特集するならば、「粋」を目指すよりも、もともとの持ち味を生かして「正直で、上品で、清潔で、少しヤボ」にした方が自然に思えますが、いかがでしょう…。

 

【参考1】奈良で生活する志賀直哉一家昭和11年8月「ホームライフ 」より)。志賀直哉は「随筆 山の手の子」で、「山の手の子の正統を感じさせる」人物として紹介されています。

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 志賀直哉の一番上のお嬢さん志賀留女子さん(20才)。同じ雑誌内で、奈良での暮らしを綴っています。獅子文六いうところの「山の手の子」の装い。

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 【参考2】明治生まれの女性に、「粋」についてうかがいました。

私は、よその人から「粋ですね」と言われたくないなあ。 お友達をほめる時も「粋ですね」とは言わない。ほめる時は「素敵ですね」とほめるのが一番じゃないですか?そのへんの奥さんは、1人の人に好かれればいいんだから。ご主人が野暮ったいのが好きっていうなら、別 に野暮ったくていいんですよ(笑)。

 

芸者さんは内股で歩いていました。あの人達はそれが仕事なんです。いつも綺麗にしていないと、命に関わるんですから。でも私たちは着物で何でも家の用事をするから、普通 にまっすぐ歩いていました。それに私なんかがシャナリシャナリしたって、お金もらえないしね(笑)

↓全文はこちらをご覧ください。

narasige.hatenablog.com

 

 

【参考3】芸者が小唄の師匠になって「粋な浴衣」を着なくなった例。昭和11年8月 「ホームライフ 」より)。写真の説明に「芸者時代ならもっと粋な浴衣をきたかも知れない市丸姐三さんも、いささか堅気めいた浴衣をきているが」とあります。この「いささか堅気めいた」という言いまわしの微妙さよ…。ちなみに写真がのっていた雑誌は、通常は深窓の令嬢のファッションのみを載せていますが、浴衣に関しては記事の中に「下町趣味」という言葉を用い、例外的に芸者を取り上げているようです。

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【参考4】祖母の姉の家が、暮しの手帖(1世紀)に載っていた件…

narasige.hatenablog.com

 

 

東京温泉、日本の黒い霧など

お洒落な銀座の歴史紹介には、まず出てこない施設「東京温泉」。場所は銀座6丁目。GINZA SIX(旧・松坂屋)の裏手あたりです。

 

松本清張「日本の黒い霧」の「ラストヴォロフ事件」に「東京温泉」が登場するので引用しますね。昭和29年(1954)、ソ連元代表部の二等書記官ラストヴォロフがアメリカに亡命する日に「東京温泉」で時間つぶしをするのです。

4時にこっそりと代表部を出て東京温泉に向かった。ここではスペッシャルトルコの係である園田というトルコ嬢に肩を揉んでもらった。東京温泉を出てから、しばらく銀ブラをし、7時にビフテキのスエヒロに入って夕食をした。そののち、約束の場所で『セ・シ・ボン』で会った米人と落ち合って、日本を脱出した。

 

以下、ネットにあった画像を貼ります。Tokyo Onsen Flickrより。

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朝鮮戦争時の昭和26年(1951)に撮影された「東京温泉」モノクロ写真の数々。引用元は雑誌「LIFE」のサイトですが、現在は消えています。

 

 赤枠内に「トルコ風呂」の文字があります。

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「銀座二十四帖」(1955昭和30・川島雄三)では、東京温泉の一角に主人公コニーさん(三橋達也)の花屋が入っていました。「男子大浴場入口」という看板の前を、月丘夢路さんが歩きます。

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サントリーウイスキーの看板。
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 すごい迫力の人。

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 【参考1】小沢昭一永六輔の「色の道 商売往来」の対談で、「東京温泉」オープンの翌年にトルコ風呂を開業した経営者が語っています。

昭和24年に「東京温泉」ができて、わたしのところは翌25年です(中略)わたしは上海に長くいたんです。引揚げてきまして…。上海でトルコ風呂を知っていたんです。こっちの部屋では阿片をすわせて非常に繁盛していて、なにも材料がいらない。売ったり、買ったり、仕入れたりということは必要ないしね。これは東京でできると思いましてね。ちょうどわたしが引揚げてきたのが22年。考えているうちに、24年に「東京温泉」ができた。(中略)

 

根本的に違うところは「東京温泉」は大資本ではじめたわけです。前の警視総監だとか、消防総監だとか、そうそうたる人がたくさん来る。当時、木炭自動車がズラっととまるような勢いですよ。

 

【参考2】 映画「グラマ島の誘惑」(昭34)と「東京温泉」(2020.7.24 追記)

漫画家の近藤ようこ先生から、映画「グラマ島の誘惑」に「東京温泉」が出てくるとの情報をいただきました。確認してみると「東京温泉」の建物の外観が使われており、名称は「大銀座温泉」になっていました!内部はセットです。この写真は森繁久弥市原悦子に「粉は少なめにね」と言っているシーン。 

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市原悦子が細い。映画では、この制服をきた大勢の女性が整列して館内を歩くシーンもあります。

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 【参考4】東京温泉の創始者、許斐 氏利(このみ うじとし)氏とその孫について、吉田豪さんが語っています。

miyearnzzlabo.com

 

 

明治生まれの方に着物についてうかがいました

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2003年に、明治生まれの方から、着物についてうかがいました。以前、それを「着物イメートレーニング部屋」というサイトにのせていたので転用します。2003年に90歳半ばですから2020年の現在でいえば110歳くらいでしょうか。以下、2013年当時のままに転載します。

 

「明治末期生まれの90才代半ばの女性に、戦前の着物のことを聞きました。全員が着物を着ていた時代にすでに大人だった人。 21世紀は敗戦の年に子供だった世代が70才代を迎えていますが、この人の場合は、さらにその親の世代。戦前の昭和の豊かな一時期を「成人後に」享受できた人です。

 

1960年代からつい2001年まで現役で働いていたので(伝統のお稽古ごとの先生、生徒さんドッサリ)、質問するとユーモアのある素早い返事がかえってきます。九段下に住んでした裕福な人(ご主人は日本橋で会社を経営) の思い出なので、日本全国に通用するお話では無いかもしれません。

 

一般に本などで出回っている着物のアレコレは、どちらかというと着物姿が即、収入につながるクロウトさん・いろんな意味で百戦錬磨の方の着物話が中心でした。女優さん・夜の接客業・伝統芸能の人・呉服屋さんなど。

 

一方、今から書いてゆくのは、着物姿が収入に結びつかなかった人の思い出話。今でも着物姿で商売(勝負)するわけじゃない、いわゆるシロウトさんは多いと思いますので、ちょっぴり参考になれば、と。」

■着物と季節

「4月は袷。5月になるとセルを着ていました。セルは今でいうウールです。戦前は5月にしか着ませんでしたが、終戦後はいつでもウールを着るようになりました。だってどの人も、戦争で着物がどこかにいっちゃったんですから。 無いものはしょうがないよねえ。」

「家の中では衣替えに関係なく、臨機応変に着ていましたが、お出かけとなるとキチキチッと暦どおりに着物を変えました。間違ったって何か言われるわけじゃないけど、守らないと周囲から目立ってしまうんだよね。だから単の季節になったら寒くたってちゃんと単を着て、そのかわり下に着込んで調整してました。」(私の感想・このキチッとした風習は、まだヒートアイランド現象が無い時代のモノです。現代ではそこまで衣替えにがんばらなくても… )

「夏の夜は、今と違ってとっても涼しかったです。九段下や神楽坂には夜店がずらっと出てね。浴衣着て団扇もって子供達と行くのが楽しみでした。でも浴衣と帯なんて、昔が涼しいから出来たんですね、きっと。」

「夏の昼は暑いので洋服でした。姪が洋裁学校に通 っていたので、アッパッパを作ってくれたのです。でも出かける時はがんばって絽を着ました。だけどもう、汗ビーーーッショリでした。」(注:この「出かける」というのは、ゴージャスで公式なお出かけを意味しているようでした。社長夫人なので。

「ずっとお家にいるような職業の人は、絽や紗を着てなかったですね。持ってなければ、仕方ないですもん。」

 

■着物の柄と、季節感

「正式のおよばれの時には、季節の花と着物の柄をあわせるようにしましたが、普段着はそれほど気にしませんでした。」

「昔は服が全部着物だから、着物にだけ、お金をかけることができたけど、最近の人は洋服と着物と両方買うんだから、お金だって大変ですよ。季節にあわせた着物なんて、言っちゃいられないでしょう?だからなるべく季節のわからないものを買うといいよね。」(注: 言っちゃいられない、しちゃいられない、というのが口グセの人なんです。)

「むかし、よそゆき用の白い絽の帯に絵を描いてもらったことがあって、その時、菖蒲を描かれちゃったの。これには、困った!私が絵の柄を指定しなかったのが悪かったんだけど。」

 

■髪型

「私は病気したことないけど、若い頃からすごい肩こりでした。日本髪で高い枕なんて、とても出来ない。髪型は、襟足につかないくらいの短さにしてパーマをかけていました。まだパーマが珍しい頃だったけど、私は、新しいことはやってみるんです。新宿の美容院でした」

「日本髪を結った頭がかゆくなったら、カンザシを抜いて、静かにかきました。わーっとかくと、髪が壊れちゃうから。」

 

■着物と年齢

「母親になると、落ち着いた感じの着物を着ました。娘時代と同じような着物を着つづけることはありませんでした。ムスメ時代の着物は、人にあげてしまうか、自分の子に残すかするのです。私は子供が出来た頃には、よく紫紺の無地をきていました。私の着物はみんな無地でした。」

 

■浴衣
「浴衣は衣紋をぬきませんでした。家では素肌に着ていましたが外出するときは汗とりのために、サラシの襦袢を着ました。サラシの襦袢は手製でした。そういうの、売っていなかったんですよ。博多の半幅帯をあわせました。」

「 浴衣は時間帯で色をわけるというのはありませんでした。昼も夜も自分の好みの柄をきていました。紺でも白でも。」

「浴衣は普通は8月いっぱいなんだろうけど、単みたいなもんだから、9月に着てもいいんじゃない?」

 

■綿入れの着物

「冬は今と違ってすごく寒かったので、綿入れの着物を着ました。おはしょりもして。綿入れの着物はうすい綿が入っていました。ドテラの綿みたいに厚くないだから、そんなに太ってみえないよですよ。」

「 綿入れの綿はカイコからとった真綿で、着ているうちに布のすきまから綿が出てくるんですよね。そのつど切っていました。綿入れの着物は普段用で、よそゆき用ではありませんでした。」

 

■「粋」について

私は、よその人から「粋ですね」と言われたくないなあ。 お友達をほめる時も「粋ですね」とは言わない。ほめる時は「素敵ですね」とほめるのが一番じゃないですか?

そのへんの奥さんは、1人の人に好かれればいいんだから。ご主人が野暮ったいのが好きっていうなら、別 に野暮ったくていいんですよ(笑)。それにあんまり奥さんきれいだと、(よその男に)とられちゃうよ。

 

■着物まわりの小物等

 「ヒザの下くらいまである、長いショールが流行していました。みんなショールを蹴りながら歩いていましたね。綺麗でしたよ。なんでも流行しているものは綺麗ですね。今、若い人の頭が赤いのも、流行しているから綺麗。」 (私の感想・21世紀、自動ドアが沢山あるから長いショールは危険だと思う! )

「戦前は半襟に凝りました。すごく綺麗な刺繍の半襟が売られていたんです。銀座の、ゑり円によく行きました。ゑり円、っていうくらいだから、襟がいっぱいありました。でも、それは外出用。普段用の半襟は汚れが目立たないように、色や柄がついていました。

家(九段下)から銀座は、子供達と一緒に歩いていきました。皇居のお堀を眺めながら歩くのです。

「着物を沢山買う人は、呉服屋さんが家に来てくれました。少ししか買わない人は自分で呉服屋さんに出かけていきました。」

 

■メリンス(モスリン

「メリンス(モスリン)は薄手のウール。セルはそれより厚いウール。 メリンス(モスリン)は、お腰、長襦袢、うそつき襦袢の袖にしました。」

「メリンスは反物と切り売りがありました。反物は着物になりましたが、切り売りはお腰用でした。子供は大体メリンスの着物でした。」

 

■動作

芸者さんは内股で歩いていました。あの人達はそれが仕事なんです。芸者は置屋に“置いて”あるんですから。いつも綺麗にしていないと、命に関わるんですから。でも私たちは着物で何でも家の用事をするから、普通 にまっすぐ歩いていました。それに私なんかがシャナリシャナリしたって、お金もらえないしね(笑)」

 

■普段着の手入れ

「普段着は銘仙か木綿でした。汚れると、しぼったタオルみたいなもので拭いて。普段着の“洗い張り”は自分でやりました。石けん・ブラシ・ぬ るま湯・洗濯板で。」

銘仙は、ぬいこんであるところ(縫い代)をためしに洗ってみて、色が出ないようだったら自分で洗い張りしました。色が出るようだたったら染め物屋さんに頼みました。そのほか、よそゆきを洗うのも染め物屋さんに頼みました。」

半襟は、絹。昔はぬるま湯と石けんで洗っていました。今はアクロン。生乾きの時に、アイロンをかけるとキレイになります」

 

■ガソリンは血の一滴
主人は、日本橋で会社を経営していたので、家から日本橋まで車で送り迎えがありました。だけど、戦争がすすむにつれ、「ガソリンは血の一滴」といって、それが出来なくなりました。

 

【おまけ】

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この絵についてもこの方に聞いて見ました。すると「レースの袖口を見せるのがオシャレだった」という答えでした。(筒袖半襦袢の袖口のレース。この絵みたいにゴム入りのもあった気がするとのこと…)吊革につかまった時、レースが見えると綺麗だったんですって。また薄手の絹スカーフを巻くのが流行ったそうで、この絵の襟にもフワフワ描いてありますね。

パステルカラーの表紙に隠れていたもの

これは昭和14年(1939)3月号の「ホームライフ」です 。東郷青児の美しい表紙に、キャサリン・ヘップバーンの映画紹介、村岡花子杉村春子の生活エッセイ…。ほら、読みたくなってきませんか?

 

しかし昭和14年の日本は「100日後に死ぬワニ」的に言うならば「数年後に惨敗する日本」ですからね。ちょっと、内容を見てみましょう。

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キャサリンヘップバーンの映画は、2本も紹介されています。「ステージ・ドア」と「素晴らしき休日」と。ここまでは優美ですね。

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そして内幸町に立派な日本放送会館ができたよ!という記事。今のNHKですね。地下1階、地上6階。「3・4・5階をぶちぬいた演奏室は100人のオーケストラに1000人の合唱を放送することが出来る」と書いてあります。玄関ホールがツヤツヤです!

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しかし、いったんこの雑誌をはなれ、放送会館完成 | NHK放送史(動画・記事)という動画を見ると、この「日本放送会館」は、共栄圏や枢軸国にむけて「熾烈な電波線を戦う本拠なのである」とあります。「熾烈な電波線を戦う本拠」であれば、なるほど立派なつくりにもなりますね…

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さて昭和14年(1939)3月号の「ホームライフ」に戻ります。おやおや。7歳の少女による「大陸行進曲」の踊りが…。「呼べよ日本一億の いのちあふれる足音に 地平も揺れよ大陸の すべてのものはいま朝だ」という歌詞に、こまかく振付けがされています。「大陸行進曲」って、辻田真佐憲さんのたのしいプロパガンダ (イースト新書Q)に出てくるやつだ。f:id:NARASIGE:20200706162005j:plain

 

美人令嬢特集。この雑誌は常に令嬢特集をしていますが、この号は「勇躍大陸に赴任された」軍人の令嬢ですお父様が「聖戦第3年目を迎えた今年1月」に中支方面最高司令官に任命されており、「お父様が勇躍大陸に赴任されたあとは、かいがいしくお母さまをお助けして銃後のご家庭を守り、多忙と緊張の日々を送ってゐられます」とあります。f:id:NARASIGE:20200707105742j:plain

 

そして、「生活の無駄」という特集。羽仁もと子のエッセイは"国民精神総動員中央連盟で、冠婚葬祭には平服で良いと発表されたのに、いまだに正装をやめないのはいかがなものか? "という内容。この「生活の無駄」特集に、村岡花子杉村春子も含まれています。

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さらに、松屋洋服部仕入主任による「洋服事変考」。「いろいろな物資が制限を受けています。羊毛も、輸入がごく限られた数量した許されないので純毛の洋服がなくなりつつあります」「事変下のわが国としてはやむを得ない」「国家100年の大計のために耐え忍ばなければならないと思います」など、今後、事情が悪化してスフ混、純スフしか手に入らなくなった時の心がまえを説いています。

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巻末は「非常時の5分間お化粧法」…。「時局下の街頭」や「非常時にふさわしい」化粧の紹介。「アイシャドウやドウラン化粧に憂身をやつしてどきつい流行を追ったのは昔の夢。」とあります。でも、この雑誌はお金持ち向けなので、非常時とかいいながら、化粧のプロセスがけっこう多いです。

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森麻莉の妹、小堀杏奴のエッセイ「兵隊さん」も。「一昨年の秋、しばらくの間、出征兵士の宿舎をしていたことがあった」という書き出しです。演習帰りの兵隊さんの下着が「物凄い臭気」を発散させていたエピソードなどが書かれています。

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こうして見ていくと、東郷青児によるパステルカラーの表紙からは受ける印象と、実際の中身がずいぶん違います。しかし事変前のホームライフ は、表紙のパステルカラーと中身が完全一致していたのです!表紙も中身も贅沢万歳、舶来品万歳!だったのです…。ところが昭和12年7月の事変直後は、表紙も内容も極端に地味になりました。この時あんまり地味にしすぎた反省から、せめて表紙だけでも夢見るパステルに戻したのかもしれません。

 

パステルをやめて、地味にしてみた頃(昭和12年11月)

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↓こちらは、事変後、いきなり地味路線に変えた時の様子です。 

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