佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

50年前(1972〜3年)のシニア世代

先日、50年前(1972〜73)の意外なほど派手な若者たちを紹介しました。

narasige.hatenablog.com

今回は、同時期のシニア世代をごらんください。当時の日本人が見逃していたであろう装いを、あるアメリカ人*1が旅行者の目線で大量に撮影していたのです。これはありがたい!以下、1972〜73年の写真です。※すべて元からカラー写真

[tokyo, japan fall 1972]スカーフと、真っ黒に染めた髪。

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[streetlife]「風呂敷を背負う」は、皆ある時期までやろうと思えばできたのか?

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[pedestrians streetlife, candid]背中の風呂敷と、手に持った風呂敷が同じ柄

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[japan, 1972]カラフルな割烹着で重労働。1972年は敗戦から28年。この写真には若くして戦争未亡人になった人がいるかもしれません

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[kyushu, japan, 1972]割烹着のスソは、モンペに入れる。

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tokyo, japan 1973 onbu (babywearing)]「昭和のテーマパーク」では再現しにくい姿。赤ちゃんはキムタク(1972生まれ)と同世代です

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[meiji shrine imperial garden]迫力!007の上司「M(ジュディー・デンチ)」みたい

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[shoeshine woman]くつみがき。屋外でじっと客を待つ…冷える環境です

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[elderly woman kameido tenjin shrine]亀戸天神社。華やかなショールだけれど、よく見ると前掛けをしている。

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[woman crossing moon bridge kameido tenjin shrine]ショールをおさえつつ亀戸天神社の太鼓橋を降りる人。見ていてハラハラします。両手はあけておきたい。

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[woman crossing moon bridge kameido tenjin shrine]これも亀戸天神社の太鼓橋

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old woman, smilingこの時代、「白髪の人」と「真っ黒に染める人」が分かれているようです。今はシロウトさんもクロウトさんも、白髪まじりの茶髪だったりするけれど。

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[two women street market]けんかが強そうなおばあさん。

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[parade crowd]若者たちとおばあさん。この若者も今や60代後半〜70代

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上品な装い。「夫も、息子も、娘ムコも、みな帝大出です…ほほほ」といった雰囲気18-335

おじいさん

数少ないおじいさんの写真もどうぞ。この人たちは愛すべき「おじいちゃま」なのか?あるいは「戦時中、要職についていて残酷な指令を出した人」なのか?……写真からはわかりません。

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 以上、1972〜3年の中高年でした。全体に茶色っぽい印象ですよね。しかし、彼らも若い頃から茶色い装いだったわけではないと思うのです。

彼らは戦中〜戦後とても苦労したはずですが、青春時代を過ごしたのは1930年(昭和5)前後。意外とモダン都市で“今どきの若者”をやっていました、というタイプも少なくないような気がします。

【例】1930年(昭和5)発行の本から「反り返って歩く」断髪のモガ。派手な着物で、いかにも生意気そう。行間に、“今時のムスメはまったく…”といった気配が滲み出ています。画は池部 鈞(俳優・池部良のお父さん)

昭和3年「現代世相漫画」池部 鈞

【参考画像】同じ人が撮影した同時期(1971)のアメリカです。服はグレーだけど小物が鮮やか。

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▽今回は都市部の写真中心でしたが、地方の様子はこちらをごらんください。

narasige.hatenablog.com

*1:撮影者Nick DeWolf氏は、wikiによればテラダイン社→□の創業者。現在は親族が写真をネットにあげているようです。アーカイブのインスタ→☆もあるので、フォローしてみてください

戦争末期の「あたしバカだからさあJAPAN」【獅子文六『一号倶楽部』】

自称「頭が悪い」女性が、軍人のあるべき姿を語る小説

 東京ポッド許可局の「あたしバカだからさあJAPAN」には笑ってしまいました。「私バカだから良く分かんないけど、アンタって◯◯だよね」。こうスバっと言ってくれる、美保純的な人をイメージした言葉だそうです。

miyearnzzlabo.com

 今回紹介する昭和の人気作家・獅子文六『一号倶楽部』の主人公は、「あたしア、生まれつき頭が悪い」が口グセの女性。もし【あたしバカだから選手権】があったら、優勝候補まちがいなしです。

『一号倶楽部』は戦争の末期も末期(昭和19〜20年)、「主婦之友」に連載されました。

▽右は敗戦の年=昭和20年6月の「主婦之友」。『一号倶楽部』は、このヨレヨレに連載されていたのです。表紙には「本土決戦 勝利の防衛生活」の文字が。(左は昭和14年。同じ雑誌とは思えない!)

 『一号倶楽部』主人公の「お竹さん」は、ひょんなことから海軍飛行予科練習生(予科練)たちのお世話をすることになった霞ヶ浦の「おばさん」です。

善良なお竹さんは「あたしア、生まれつき頭が悪い」と言いつつも、聞きかじった軍人さんの言葉をオウム返しにする形で、熱弁をふるいます。

つまり“お上”の言葉を、わかりやすく翻訳してくれるキャラクター。

お竹さんの茨城弁は、都会のインテリ夫人(←海軍飛行予科練習生の母親。息子の命が心配でクヨクヨしている)にも、深く深く刺さるのでした。

「わが子が軍人になったら、わが子と思っちゃいけねえ」

 脚本家の笠原和夫昭和2年生まれ)はエッセイ*1で、獅子文六のことを「筆力をもって若者たちを海軍に志向させ」たと書いていますが、『一号倶楽部』は、そんな若者たちの母親が対象といえるでしょう。

「お竹さん」の熱弁をちょっと引用してみます。

予科練さんは、学校の生徒なんかと、まるでちがうんでさア。子供みたいな顔してるけど、もう立派な軍人さんなんですよ。軍人てものは、天子様がお許しのない限り、自分の好き勝手に、休んだり、辞めたりできねえもんだそうです。つまり、わが子が軍人になったら、わが子と思っちゃいけねえんだそうです。 いいですか、奥さん、そこが、世間とだいぶ違うところだ…

「わが子が軍人になったら、わが子と思っちゃいけねえ」*2のあとに、「いいですか、奥さん」としめる。ここで当時の読者は、ハッ!としたのでしょうか。

私も、よくは知りませんが、予科練さんてものは、これからの海軍の飛行機を背負って立つ、たいした軍人さんなんだそうですよ。なんでも、これからの戦さ(いくさ)は、海軍でも、飛行機でやるんだそうで、その飛行機に乗るにゃア、パリパリの若い者でなきゃアいけねえそうです。日本中の男の子の中で、ふるいにかけて、粒選りにしたような、頭のいい、体のいい、勘のいい、パリパリの、ピカピカの若い者でなければ、いけねえんだそうで…

「私も、よくは知りませんが」と話しはじめ、「パリパリの若い者」「ピカピカの」「パリパリの」……と、いかにも「頭が悪い」ふうに繰り返すお竹さん。ちなみに彼女自身も、川の事故で幼い息子を亡くしているという設定です。

▽連載の様子はこんな感じ(「主婦之友」昭和20年6月)。各ページに激しすぎるコピーが。この時点で小説を連載しているのは、獅子文六ただ1人。

 獅子文六は、1893年明治26年)生まれなので、敗戦時に52歳くらい。戦場にいく心配がない年齢です。

しかし子供の頃、日露戦争の勝利を経験している。獅子文六はエッセイ「戦勝の春」(昭和32年『遊べ遊べ』)で、少年時代の日露戦争を「あの頃の戦争は短くて良かった」「一億総動員なんてことをやらなくても戦争ができた」などと回想しています。

戦場には行っていないけれど、「戦勝」の記憶をしっかり持っている世代。

そんな世代の獅子文六だからこそ、敗戦のその時まで「パリパリの、ピカピカの」軍人像を描くことができたのかもしれません。

※『主婦之友』の激しすぎるスローガンについてはこちらのブログが詳しいです→狂気の「ぶち殺せ標語」(虚構の皇国 早川タダノリ)

タオルに見る国力の差

 さて突然ですが、ここでアメリカの雑誌『LIFE』に載っていた広告をご覧ください。あらキレイ…とつい見逃してしまいそうになるけれど、昭和20年8月の広告だということに注目!!『LIFE』は戦時中であってもゴージャスな広告が珍しくありません。でも当時の日本はボロボロの焼け野原、玉音放送まで秒読みです。

 いいですか、奥さん。

こんな国に「パリパリの、ピカピカの若い者」を飛行機でブツけていた時代があったわけですよ。

雑誌『LIFE』(1945年8月13日号)

 一方、ちょうど同じ時期、獅子文六が『一号倶楽部』を連載していた『主婦之友』には、“アメリカがタオルや石鹸を投下してきたら、どんなに欲しくても絶対に拾うな”という哀しいメッセージが載っていました。ああああああ。

「敵は物資の乏しいところへつけ入ってタオルや石鹸、煙草、菓子類など無害でそのまま役立つ生活必需品を投下することもある 咽喉から手が出そうなものでも、敵のものなど一指もふれぬ心構えが肝要

「ただ利用するだけのつもりがいつの間にか感謝に変り、厭戦へ和平へと敢闘精神を鈍らせる原因になります」

▽敗戦目前の『主婦之友』(昭和20年3月)。紙質が悪すぎて字がよみにくい。

『主婦之友』(昭和20年3月)

 以上、戦争末期に書かれた獅子文六『一号倶楽部』の紹介でした。

『一号倶楽部』は『獅子文六全集』(朝日新聞社)の16巻に収録されています。16巻は戦時中の作品 *3が1冊にまとまっているので、人気作家の筆力が当時どう機能したかうかがえるはず。ぜひ読んでみてください。

narasige.hatenablog.com

*1:笠原和夫『破滅の美学』 ちくま文庫)「戦時中、私たちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六ペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光浴びているのが許せなかった。海軍の実態は、岩田氏が書いたものとは全く違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを隠して美化し、筆力をもって若者達を海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。」

*2:同様のセリフは獅子文六『南の風』(昭和16)にも出てきます。「男は殿様のお宝、殿様の御楯。女は、それを、殿様からお預かりしてる勘定なんですよ」https://twitter.com/inukosato/status/1626538195264622592

*3:「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす」( 獅子文六全集14巻「落人の旅」)原因となった作品

【戦場は君たちを待つ】少年兵募集の雑誌『海軍』

なかなかツラい本を入手しました。少年兵募集に重点を置いた雑誌『海軍』の創刊号です。(昭和19年5月/大日本雄弁会講談社)。表紙には「戦場は君たちを待つ」の文字が……

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

目次を見ると、もはや雑誌というより[海軍省の募集パンフレット]に、小説や漫画がのっているイメージです。「海軍省人事局」「大本営海軍情報部」をはじめとして、海軍関係者がずらり。

『社史に見る太平洋戦争』によれば、昭和19年講談社

海軍省後援の『海軍』、陸軍省後援の『若桜』の両誌を創刊した

とあります。戦局の悪化でいろいろな雑誌が休刊しまくっている状況で、新たに創刊された雑誌は軍のリクルート系…というわけです。

▽たとえば『海軍』の中身はこんな感じ。海軍省人事局指導のページ「海軍志願兵になるには」。早わかり!

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽巻頭には「想像絵 ワシントン大爆撃」。日本の最新鋭爆撃隊がアメリカを攻撃するイメージ画像です。説明文のすべてにフリガナがついている。小さい人むけ。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽漫画の魅力もすごい。「2023年のイラストですよ」と言われたら信じてしまいそう。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽かっこいいアニキ像。

僕たちもいくぞ。いのち捧げる時はきた。あとに続かん皇国の少年兵たち

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽玉砕を美化

天皇陛下の御ために、御国のために身をを捧げる時はいまだ。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽執筆陣には、人気作家・岩田豊雄獅子文六の本名)も。脚本家・笠原和夫の言葉を借りるなら、当時の獅子文六は「筆力をもって若者達を海軍に志向させ」*1る作家だったのです。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽ この広告、大人向けの雑誌でもよく見かけるけれど、少年向けの雑誌に出ていると余計にえぐい。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

以上、雑誌『海軍』の紹介でした。この雑誌は子供たちをその気にさせるために、一番効き目のある人たちをチョイスしているように見えます。ぬるい小説や、下手なマンガじゃ“効き目”が薄いですものね。

「新しい戦前」とされる昨今、誰が選ばれるのでしょう。やはり人気YouTuberですか?気になるところです。

narasige.hatenablog.com

 

*1:「戦時中、私たちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六ペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光浴びているのが許せなかった。海軍の実態は、岩田氏が書いたものとは全く違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを隠して美化し、筆力をもって若者達を海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。」(笠原和夫『破滅の美学』 ちくま文庫

アメリカの通販と、戦場(1950年代)

朝鮮戦争とカラフルな服

 朝鮮戦争(1950-1953)の前後は、韓国や日本のカラー写真がとても豊富。flickrには「祖父が撮ったKoreaとJapan」的なくくりで、多数の写真がアップされています。

戦場となっていた韓国で目をひくのが、驚くほどあざやかな服の存在です。

「この服はいったいどこから来たのだろう?」。長いこと不思議でした。以下、例をあげてみましょう。

▽[Korea, 1954]

2018-10-04-0013

▽The Korean War Photos of Sgt. Walworth, USAF 1. Suwon and Osan 1953

"My Joesan" Tommy,    June, 1953

▽[Korea, 1952]

2016-05-06-0010

▽[Koje (Geoje) Island, Korea 1953]

2016-11-06-0018
▽[Koje (Geoje) Island, Korea 1953]

2016-11-06-0020

▽[Korea, 1953]

2016-09-29-0016

Bar Blondie, 1953

▽街ゆく人たちと、服装のギャップがすごい。[Korean market scene, 1952]

Korean market scene, 1952

▽1950年のソウル。街並みとのギャップもすごい。[Ruins of Seoul, September 1950]

アメリカの通販で服を入手していた?

 戦争中の国に、いきなり存在するカラフルな服のナゾ。先日ようやくそのナゾがとけました。朝鮮戦争が舞台の『マッシュ 』(1968)という小説を読んでいたら、シアーズ」(アメリカの通販)が出てきたんですよ。どうやらカラフルな服は、アメリカの通販が関係していたらしい。

ソウルと最前線を結ぶ唯一の主要幹線道路に面しているという地の利を得て、「一流街頭サービス慰安所」は、トラック運転手が1人残らず一時停止することから、その評判がかなり高かった。(略)

さしまねく女たちはシアーズ・レーバック」のカタログをもとに仕立てた(原書ではavailable through the Sears Roebuck catalogue)、目もあやなアンサンブルを着込んで、雨にも負けず風にも負けずハイウェイずらりと勢ぞろいしている。

 ちなみに「シアーズ」のカタログはこんな感じ。画像はシアーズのカタログを年代順にまとめたサイトから。←すさまじいボリュームですよ。

日本でも、シアーズのカタログから注文していた

 さらに、同時期の日本(埼玉県朝霞)でも「パンパンガール」達がシアーズのカタログで注文していたという証言を発見!朝霞といえばキャンプ・ドレイクがあった土地ですね。

ハニーたちのよそほひ五六態つづき – 市民が集めた朝霞の歴史 Asaka History Gallery

運よくやさしく金離れのいい米兵のオンリーになれた女は、 米国最大の通信会社シアーズのカタログから彼に註文させた”アメリカの服”で街に出る様になります。 こうなるとパンパンばかりではありません 町の娘さんたちのあこがれの的となってしまうのです。

どんなもんだい、2・3年前の姿はどこにもありません。(略) あこがれの「アメリカのナイロンのストッキング」ももちろん着用です。 おっぱいが尖り過ぎですって?そうこの時ブラジャーは円錐状に巻いたはりがねに布をかぶせたものだったのですから。

こういう経緯って、まず記録に残らない。とても貴重な絵です。


 以上、極東のカタログ通販事情でした。韓国でも日本でも、兵隊と距離の近かった女性たちが、いちはやくアメリカの通販を経験していたといえるでしょう。

(余談ですが、資生堂の美しいCMで知られる杉山登志[1936 - 1973]は、子供の頃「シアーズ」のカタログを熱心に模写していました。*1。彼は米軍立川基地のそばで育った人。そして有名な遺書「 リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません」をのこし、37歳でこの世を去ります。)

通販カタログに限らず、朝鮮戦争の時期は「戦場となっている韓国」と「戦場のバックヤード=日本」で、相似の光景があらわれがち。たとえば混血児の孤児院などですね。ぜひこちらもあわせてご覧ください。

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朝鮮戦争と少年たち

最近、SNSで「ジャニー喜多川朝鮮戦争・少年」というキーワードが流れてきますね。

▽(例)4年前の美談記事についてのツイート

……このようなタイミングであれですが、今日は朝鮮戦争(1950-53)と少年たちの写真を紹介しましょう。flickrには「グランパやダッドが撮ったKoreaとJapan」的なくくりで、カラー写真が多数アップされているのです。※すべて元からカラー写真。

朝鮮戦争と少年たち

[Korea, 1951 Chunchon , Oct 1951]春川

John Gill, 2nd Replacement Co, Chunchon , Oct 1951

[Shoeshine Boys, Koje Island, June 1952]巨済島

Shoeshine Boys, Koje Island, June 1952

[Busan Station, 1952]釜山

Busan Station, 1952

[Korean Boy at Chunchon, Oct. 1951]春川Korean Boy at Chunchon, Oct. 1951

[Christmas Party 1955]

Christmas Party 1955

▽孤児たち[Orphans: Korea 1953-5]

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野戦病院で手当を受ける子供。【閲覧注意】野戦病院の写真はコチラにも。

Chow, Kombo, Kim (1952)


以上、朝鮮戦争と少年の写真でした。

今回引用した「flickr」には、【朝鮮戦争真っ只中のKOREA】と【特需で復興中のJAPAN】が一緒くたにアップされているんですよ。これは、なんともいえん気持ちになります。

▽一緒くたにアップされている「戦後」の日本の例。[Japan, 1950]

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日系2世のジャニー喜多川は、【朝鮮戦争真っ只中のKOREA】と【復興中のJAPAN】を同時に見ていたのでしょうね。冒頭で触れた2019年の“美談”記事から引用します→

ジャニーさん反戦訴え 日本と米国で2度の戦争体験 - おくやみ : 日刊スポーツ

帰国後に米国に戻ったが再び来日。そして再度の「戦争」を経験することになる。朝鮮戦争だ。52年に朝鮮半島に派遣された。ここでは、米軍キャンプの外にある児童養護施設で暮らす子どもたちに軍関係の仕事をあっせんし、小遣いを稼がせることもあったという。自身も3歳で母親を亡くし、日本で戦争孤児たちの苦労を目の当たりにした経験から、手を差し伸べずにはいられなかった。韓国滞在は約1年ほどだったが、この時の経験などから韓国語も堪能だった。

※もちろん【復興中のJAPAN】といっても、朝鮮戦争の数年前は日本だって焼け野原。いきなり復興とはいきません。画像は戦災孤児サザエさん*1。日本も戦後しばらくはこんな感じでした。日本にも韓国にも崖っぷちの子供がたくさんいた時代。

引用元:『サザエさん』(朝日新聞社)2巻114頁

▽【参考画像】日系二世と思われるカップル。背景にうつっているYURAKU HOTELは、接収された「有楽館」です(日本石油の本社ビル)。[Tokyo Nov. 1952]

Yuraku Hotel, Tokyo Nov. 1952

▽同時期の少女の写真はこちら

narasige.hatenablog.com

▽当ブログでは朝鮮戦争の時期の写真をまとめています。ぜひ他の投稿もあわせてご覧ください。当時の日本は、朝鮮戦争の“休憩所”として賑わっていました。

narasige.hatenablog.com

*1:戦災孤児かと思ったら実は親がいたというオチで、ギリギリ笑いをさそっています。正確な掲載日がわかりませんが、すぐ前には帝銀事件[1948]のネタがありました。

戦争と山名文夫

資生堂といえば、山名文夫

山名文夫といえば、資生堂

アイキャッチ画像は、資生堂のあぶらとり紙です。イラスト:山名文夫

資生堂ギャラリーで、山名文夫を中心とするグループが展覧会を行った”という文章を見た時、私たちがイメージするのは、やっぱり都会的な美女ですよね。こういう感じの↓

山名文夫 1897‐1980 』ggg Books 別冊3

軍艦を描く山名文夫

 ところが昭和16年の2月、銀座の資生堂ギャラリーで開催された《太平洋報道展》は様子が違いました。山名文夫は美女を描かずに、なんと軍艦を描いていたのです。その時の回想がコチラ。

山名文夫『体験的デザイン史〈太平洋報道展〉』)

私は、太平洋上の軍事力の比較を、21尺× 6尺のパネルに図表化することに携わったが、戦艦とか巡洋艦とか航空母艦などの型を写すのに苦労しながら、ふと少年時代を遊ぶ心地になった思いがのこっている。

あの山名文夫が、軍艦を描く?

銀座の「資生堂ギャラリー」に「太平洋上の軍事力」のパネル?

これは一体、どういうことなのでしょうか。

「一億進軍の時来る!」《太平洋報道展》@資生堂ギャラリー

 まずは、実際の《太平洋報道展》をごらんください。右に「一億進軍の時来る!」とラッパを吹いている絵が…。✨資生堂ギャラリー✨のイメージからほど遠い展示です。

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社

▽同じく《太平洋報道展》の「正面パネル」。フォントが妙にかわいいけれど、文章はものものしい!

これからの太平洋は刻々として有史未曾有の一大戦略的空間となりつつある。東亜民族の共存共栄を妨害せんとするアングロサクソンの執拗な侵略搾取政策は今や大規模なる軍備拡張計画を以て積極的攻勢に転じてきた

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社

山名文夫と「報道技術研究会」

「一億進軍の時来る!」「アングロサクソンの執拗な侵略搾取政策」といった、いかついノリの《太平洋報道展》@資生堂ギャラリー

 なぜ、美女のイラストで知られる山名文夫がこのような展示にたずさわったのでしょう?その理由は、《太平洋報道展》を開催した「報道技術研究会」というグループにありました。「報道技術研究会」……なんだか漠然とした名称だと思うのは私だけでしょうか。

 

この「報道技術研究会」は 、デザイナー・コピーライター・写真家などの制作集団で、国家宣伝の高度化と総合化を目指していました。発足は昭和15年秋。

で、山名文夫はそこの委員長だったというわけです。

山名文夫『体験的デザイン史〈報道技術研究会〉』)

どういうわけか、委員長のシャッポを私がかぶることになった。私は兵隊になって働くのが好きだったし、またそれ以上の能力もなかったので、委員長のシャッポはいつも帽子掛けにかかったままであった。

▽《太平洋報道展》での「報道技術研究会」会員。中央に「委員長」の山名文夫。となりに前川国男の姿も。

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社

花森安治と出会う

 山名文夫を委員長とする「報道技術研究会」がたずさわった《太平洋報道展》@資生堂ギャラリーは大成功!

《太平洋報道展》を「国家宣伝の元締めのような官庁」である情報局が買い取って、各地を巡回するほどのロング・ランになりました。

山名文夫『体験的デザイン史〈太平洋報道展〉』)

展覧会は昭和16年2月24日から28日まで、銀座の資生堂ギャラリーで開かれた。このギャラリーを使ったのは、他に会場がなかったからか、場所として良かったからか、もしくは私の関係で借りやすかったからかよくわからないが、企画された大型内容を展示するには狭く窮屈であった。

 やがて「報道技術研究会」は、大政翼賛会とも仕事をするように。

そう、ここで【大政翼賛会宣伝部の花森安治】と、山名文夫が出会うんですね。山名は、花森安治の第一印象をこう書いています。

山名文夫『体験的デザイン史〈翼賛会宣伝部〉』)

「花森氏は、パピリオで佐野繁次郎氏のイキのかかった人」「いったいこんな“民間人”がどんなかかわりで、こうしたポストに就いたのか、これも“徴用”なのか、そのへんのところはわからなかった」

戦後「暮しの手帖」のカリスマ編集長となった花森安治を、“パピリオ(化粧品)出身の民間人”呼ばわりとは…(笑)。大政翼賛会時代の花森安治は、頼りになる「アートディレクター」的な存在だったそうです。詳しくはこちらをご覧ください。

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大政翼賛会 戦意高揚ポスター(昭和18)

結果、生まれたポスターの一例です。企画構成は山名文夫

この地球上から、米国旗と英国旗の影が一本もなくなるまで、撃って撃って撃ちのめすのだ

『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(1978年/ダヴィッド社)に加筆

▽しかし、どんなポスターを作ってみても戦局は悪化。敗戦の年(昭和20)の山名文夫花森安治は、かなり疲れて見えます。

山名文夫 1897‐1980』(gggブックス別冊3)に加筆

 以上、山名文夫と戦争についてご紹介しました。今回引用した『体験的デザイン史』は、きらめく才能の持ち主(デザイナー・写真家・コピーライター等)が、長引く戦争でグンと仕事が減り、国策宣伝へと流れていく様子をうかがうことができます。

新しい戦前といわれている2023年。山名文夫の『体験的デザイン史』をおすすめします。

北国の友人から『体験的デザイン史』と、雷鳥の人形をもらいました

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おリボンと大政翼賛会

優美にラッピングされた大政翼賛会のメッセージ

当ブログでは以前から、戦時中の『婦人画報』に注目してきました。(やけに『暮しの手帖』と似ている点も含めて)。

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先日、戦中の『婦人画報』を読み解くヒントを、桑沢洋子桑沢デザイン研究所東京造形大学創立者)の夫だった写真家・田村茂の著書で見つけました。

桑沢洋子*1)『婦人画報』を辞めたのは、何でも統制、統制で、陸軍報道部が編集に口を出したり、編集会議にまで来るようになって、嫌になったんだろうね、勤めが。

1942年頃だったと思うけど、 『婦人画報』の扉に「大政翼賛会宣伝部」の署名入りで文章が入るようになったんだもの。編集長に軍関係の人がおさまったしね。( 『田村茂の写真人生』1986)

[雑誌の扉に「大政翼賛会宣伝部」の署名入りで文章が入る]……こう聞くと、灰色の固くるしい誌面を想像しますよね。

しかし『婦人画報』は違うんですよ。パッと見はとても可愛いのです。というわけで、今日は日米開戦の翌年(1942年=昭和17)の『婦人画報』をご覧ください。

おリボンの魅力炸裂

▽この時期の『婦人画報』は、巻頭の数ページに美しい色を惜しげなく使ってメッセージを発信しています。表紙をめくったとたんに、もう「大政翼賛会宣伝部」の文章が。(大政翼賛会宣伝部は、花森安治がいたことでも有名ですね)

軽やかな模様が描かれているけれど、内容はぜんぜん軽やかではありません。

今わたしたちが血みどろに戦っているこの大きな戦争は、どんなことがあっても勝たなければならない(略)戦っている日本に女の手の任務は重い。

婦人画報昭和17年6月号

▽同じ号の目次。おリボンの魅力がすごい。ほかの雑誌がどんどんみすぼらしくなる時期なのに、 『婦人画報』は鮮やかなカラー頁をキープ。他の号も、東京オリンピックのポスターで知られる亀倉雄策がデザインを手がけていたりして、すごくお洒落です。

婦人画報昭和17年6月号

▽同じ号の巻頭コラム「女性のための時局話題」。なにやら希望に満ちたイラストだけれど、よく見れば「空襲への自信」など、かなり無茶な内容です。

敵機がとうとうわが本土を襲撃しました。近代戦の性格からいって当然のことです。これほどの大戦争を平時の状態のままで片付けてしまおうと思ったらそれこそ虫のいい話ではありませんか。(略)「空襲何ぞ恐るべき」という標語そのままの自信を得たのです。

空襲に「自信」を持ったらダメでしょうが。

婦人画報昭和17年6月号

鮮やかすぎる地図

▽こちらも同じく『婦人画報』より「米英の強奪」を描いた地図。なんという気のきいたグラフィック!

ゴム・錫・タングステンキニーネ…その他の南方特産ともいうべき戦時必需物資は、米英の「強奪」から救われてアジアを潤すためにのみ活用されねばならない。その時が、今、来たのだ!

婦人画報昭和17年12月号

敵は常に反撃を狙っているのだ!

婦人画報昭和17年12月号

ほかの婦人雑誌と比べてみる

ここで比較のため、同時期の別の婦人雑誌を見てみましょう。これは『主婦之友』(昭和17年12月)の目次ですが、ゴチャっとしていかにも戦時中といった雰囲気です。

婦人画報』の洗練っぷりがおわかりいただけたでしょうか。※余談ですが、特集記事「海軍潜水学校」は、ユーモア小説家・獅子文六が本名の岩田豊雄で書いています。詳しくはこちら→獅子文六『海軍』と、出刃包丁 - 佐藤いぬこのブログ

『主婦之友』(昭和17年12月)

 以上、戦時中の『婦人画報』をご紹介しました。

そういえばクレイジーケンバンド横山剣さんは、横浜の税関で働いていた時、FAXのフォントを見ただけで「これはヤバい会社」とわかったそうです。しかし横山剣レベルの達人でも、『婦人画報』の可愛らしい「おリボン」は見逃してしまうかもしれません。

narasige.hatenablog.com

*1:「彼女は『婦人画報』を1942年(昭和17年)に辞めて、銀座の家のすぐ近くに、働く人たちの洋服をつくる「桑沢服装工房」という店を出したんだ」『田村茂の写真人生』

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