佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

朝鮮戦争と少年たち

最近、SNSで「ジャニー喜多川朝鮮戦争・少年」というキーワードが流れてきますね。

▽(例)4年前の美談記事についてのツイート

……このようなタイミングであれですが、今日は朝鮮戦争(1950-53)と少年たちの写真を紹介しましょう。flickrには「グランパやダッドが撮ったKoreaとJapan」的なくくりで、カラー写真が多数アップされているのです。※すべて元からカラー写真。

朝鮮戦争と少年たち

[Korea, 1951 Chunchon , Oct 1951]春川

John Gill, 2nd Replacement Co, Chunchon , Oct 1951

[Shoeshine Boys, Koje Island, June 1952]巨済島

Shoeshine Boys, Koje Island, June 1952

[Busan Station, 1952]釜山

Busan Station, 1952

[Korean Boy at Chunchon, Oct. 1951]春川Korean Boy at Chunchon, Oct. 1951

[Christmas Party 1955]

Christmas Party 1955

▽孤児たち[Orphans: Korea 1953-5]

2015-12-09-0012

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野戦病院で手当を受ける子供。【閲覧注意】野戦病院の写真はコチラにも。

Chow, Kombo, Kim (1952)


以上、朝鮮戦争と少年の写真でした。

今回引用した「flickr」には、【朝鮮戦争真っ只中のKOREA】と【特需で復興中のJAPAN】が一緒くたにアップされているんですよ。これは、なんともいえん気持ちになります。

▽一緒くたにアップされている「戦後」の日本の例。[Japan, 1950]

2015-10-12-0012

日系2世のジャニー喜多川は、【朝鮮戦争真っ只中のKOREA】と【復興中のJAPAN】を同時に見ていたのでしょうね。冒頭で触れた2019年の“美談”記事から引用します→

ジャニーさん反戦訴え 日本と米国で2度の戦争体験 - おくやみ : 日刊スポーツ

帰国後に米国に戻ったが再び来日。そして再度の「戦争」を経験することになる。朝鮮戦争だ。52年に朝鮮半島に派遣された。ここでは、米軍キャンプの外にある児童養護施設で暮らす子どもたちに軍関係の仕事をあっせんし、小遣いを稼がせることもあったという。自身も3歳で母親を亡くし、日本で戦争孤児たちの苦労を目の当たりにした経験から、手を差し伸べずにはいられなかった。韓国滞在は約1年ほどだったが、この時の経験などから韓国語も堪能だった。

※もちろん【復興中のJAPAN】といっても、朝鮮戦争の数年前は日本だって焼け野原。いきなり復興とはいきません。画像は戦災孤児サザエさん*1。日本も戦後しばらくはこんな感じでした。日本にも韓国にも崖っぷちの子供がたくさんいた時代。

引用元:『サザエさん』(朝日新聞社)2巻114頁

▽【参考画像】日系二世と思われるカップル。背景にうつっているYURAKU HOTELは、接収された「有楽館」です(日本石油の本社ビル)。[Tokyo Nov. 1952]

Yuraku Hotel, Tokyo Nov. 1952

▽同時期の少女の写真はこちら

narasige.hatenablog.com

▽当ブログでは朝鮮戦争の時期の写真をまとめています。ぜひ他の投稿もあわせてご覧ください。当時の日本は、朝鮮戦争の“休憩所”として賑わっていました。

narasige.hatenablog.com

*1:戦災孤児かと思ったら実は親がいたというオチで、ギリギリ笑いをさそっています。正確な掲載日がわかりませんが、すぐ前には帝銀事件[1948]のネタがありました。

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