松本清張「日本の黒い霧」に登場する"お風呂"
お洒落な銀座のヒストリーには、まず出てこない施設「東京温泉」をご紹介しましょう。場所は銀座6丁目で、GINZA SIX(旧・銀座松坂屋)の裏手あたりです。下の写真でいうと、ウェディングケーキのような形を中心とした横長の建物が「東京温泉」。「銀座松坂屋屋上からの展望-昭和通り方面を見る」(東京都中央区立京橋図書館蔵の画像に、矢印を加筆)
▽地図だと、「東京温泉」がすごく長いことがわかります。
松本清張『日本の黒い霧』
松本清張『日本の黒い霧』に東京温泉が登場するので、まずそれを引用してみますね。昭和29年(1954)、ソ連元代表部の二等書記官ラストヴォロフがアメリカに亡命する当日に、東京温泉で時間つぶしをするのです。
4時にこっそりと代表部を出て東京温泉に向かった。ここではスペッシャルトルコの係である園田というトルコ嬢に肩を揉んでもらった。東京温泉を出てから、しばらく銀ブラをし、7時にビフテキのスエヒロに入って夕食をした。そののち、約束の場所で『セ・シ・ボン』で会った米人と落ち合って、日本を脱出した。( 『日本の黒い霧』「ラストヴォロフ事件」)
亡命の直前に、「東京温泉」→「銀ブラ」→「スエヒロでステーキ」とは!!
▽【参考画像】 "A US Soldier on R&R in the Tokyo Onsen, a bathhouse."
Tokyo Onsen | Photographer: Unknown | m20wc51 | Flickr
▽1950年時代前半、日本を撮影したカラー写真が豊富な理由はこちら。
朝鮮戦争の頃の「東京温泉」
以下は、朝鮮戦争時の昭和26年(1951)、雑誌「LIFE」に掲載された写真です。引用元は「LIFE」の公式サイトでしたが、現在写真は消えています。(※2021.5追記:「LIFE」内を検索ができるようになっているけれど、画質は悪い。)
▽東京温泉が掲載されていた1951年12月3日号の「LIFE」
赤枠内に「トルコ風呂」の文字があるのがわかりますか?
超豪華な内装
敗戦からたった数年とは思えない、豪華な内装。
お風呂の内部
若人が、写真に釘付け!
すごい迫力の経営者、許斐 氏利(このみ うじとし)氏
この人は、東京温泉の経営者・許斐 氏利(このみ うじとし)氏。「LIFE」は「BATHMAN KONOMI 」と紹介しています。
「東京温泉」のフォロワー
小沢昭一・永六輔によるインタビュー集色の道商売往来では、「東京温泉」オープンの翌年に浅草でトルコ風呂を開業した人が語っています。
昭和24年に「東京温泉」ができて、わたしのところは翌25年です(略)。
わたしは上海に長くいたんです。引揚げてきまして…。上海でトルコ風呂を知っていたんです。こっちの部屋では阿片をすわせて非常に繁盛していて、なにも材料がいらない。売ったり、買ったり、仕入れたりということは必要ないしね。これは東京でできると思いましてね。ちょうどわたしが引揚げてきたのが22年。考えているうちに、24年に「東京温泉」ができた。(略)
根本的に違うところは「東京温泉」は大資本ではじめたわけです。前の警視総監だとか、消防総監だとか、そうそうたる人がたくさん来る。当時、木炭自動車がズラっととまるような勢いですよ。
当時は全国に「東京温泉」フォロワーが激増したことでしょうね…
映画と東京温泉
映画「銀座二十四帖」
こちらは東京温泉の外観。アマプラで「銀座二十四帖」(1955川島雄三)を見るとき、この写真を思い出してください。建物の一角に主人公「コニーさん」=三橋達也の花屋が入っているんですよ。螺旋階段の前あたりをヒロインの月丘夢路さんが歩きます。
映画「グラマ島の誘惑」にも
もうひとつ、川島雄三監督の作品を。漫画家の近藤ようこ先生から映画「グラマ島の誘惑」に「東京温泉」が出ているとの情報をいただきました。確認してみるとたしかに「東京温泉」の建物の外観が使われている!名称は「大銀座温泉」になっていましたけれど(笑)。内部はセットでの撮影です。この写真は森繁久弥が、若い市原悦子に「粉は少なめにね」と言っているシーン。
市原悦子、細い!この制服をきた大勢の女性が、ズラリ整列して館内を行進するシーンもあります。
東京温泉創始者と、ラッパーの孫
以上、お洒落な銀座のヒストリーには出てこない「東京温泉」のアレコレでした。最後にプロインタビュアー吉田豪さんが、【東京温泉の創始者・許斐 氏利と、その孫であるラッパーのUZI】について語っているラジオの書き起こしをどうぞ!情報量が異様に多くて、「東京温泉」の話題がかすんでいます。ぜひ読んでみてください。