佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

朝鮮戦争・聖路加病院・立川基地

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聖路加病院を外側と内側から見る

 プロインタビュアー・吉田豪さんが[芸能人の本を読む時は、同じ出来事を複数の本で読むと、立体的になってくる]とラジオで言っていました。例えば、ある宗教について「勧誘する側の芸能人が書いた本」と、「その人に勧誘された経験のある芸能人が書いた本」を読み比べると、立体的になるのだとか…。

 

 私も吉田豪さんの真似して、何かを「立体的」にしてみようと思います。今回は朝鮮戦争(昭和25-28)の時期、アメリカに接収されていた「聖路加病院」について、2人の証言を並べてみますね。「聖路加病院」は、東京都中央区にある大きな病院です。

2人の証言とは

(1)朝鮮戦争の負傷兵を、聖路加病院まで連れてくる警官

(2)当時の聖路加病院を内側から見た看護師

▽これが聖路加病院。星条旗と、クリスマスデコレーションと。

Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

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(1)朝鮮戦争の負傷兵を、立川基地から聖路加病院まで連れてくる警官

まず、朝鮮から立川基地に「空輸」された負傷兵を、聖路加まで運ぶ様子をご紹介しましょう。日本の警官が、アメリカのMPと組んで運んでいたのです。MPのジープから見た占領下の東京―同乗警察官の観察記より

私は一般警備のほかに、しばしば特命で「カンボイ」の「エスコート」を命じられた。カンボイとは隊列を組んで移動する米軍部隊や輸送機のことで、エスコートとはそれらを先導、警備することである。(略)

 

朝鮮半島の戦闘が激しかったころは、立川空軍基地には朝鮮の第一線から負傷兵がぞくぞくと大量空輸され、彼らを米軍病院までエスコートする任務も増えた。兵士たちは戦場で応急手当てを受けてそのまま輸送機に乗せられたらしく、血のにじんだ包帯姿も多かった。とくに黒人兵が多かったように記憶する。たぶん黒人兵が多く前線に送られたからだろう。私たちはこうした負傷兵を乗せたバスを、当時築地明石町にあった第49陸軍総合病院(現 聖路加国際病院)まで先導した。

※偶然ですが、私は「聖路加病院」の近くで育ち、今は立川基地(昭和記念公園)の近くに住んでいます。

【参考画像】朝鮮戦争当時の写真。

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  【参考画像】TOKYO  ARMY HOSPITALに運び込まれる負傷者

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  【参考画像】負傷者を乗せた車を先導するパトカーと思われる写真。ガウン姿の入院患者たちが見えます。

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パトカーを拡大。「MILITARY POLICE」の文字。

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(2)朝鮮戦争時の聖路加病院を、内側から見た看護師

次に、「中央区女性史 聞き書き集」より、看護師さんの証言です。

昭和28年5月、わたしが来たときはアメリカ軍に接収されておりまして、都立整形外科病院、のちに築地産院になるところなんですが、そこをお借りして診療してました。総合病院でした。周りはまだ外人居留地の洋館がありましてね。ブラウン家っていうところが寄宿舎でした。

 

今の聖路加病院の場所は、アメリカが朝鮮戦争の負傷者を治療する陸軍病院して使っていたんです。外国の病院に興味がありますし、わたしは洗礼を受けていますから、パスポートを見せて教会に入れるんですね。すると、廊下には裸の兵隊さんがあふれていましたし、コーヒーの匂いはぷんぷんするし、お医者さんは車で乗りつけて、看護婦さんは白いキャップとユニフォームにケープを着てさっそうとしてましたね。

 裸の米兵があふれる聖路加を目撃したこの看護師さんは、その後もずっと聖路加病院で働いていて、なんとサリン事件(1995)の時もいらっしゃったとか。朝鮮戦争からサリン事件まで!歴史の生き証人ですね。


最後にオマケ。

(3)朝鮮戦争当時、立川基地付近で米兵相手に商売していたバーの店主

私が10年ほど前、立川で長年飲食店を営んできた当時80歳代男性(バー潮のマスター・通称ジミーさん)に、個人的にうかがった話です。

アメリカ兵は)ずっと戦地にやっておくと精神的におかしくなっちゃうんだよね。だから、交代で戦争に行ってました。行っているやつらと、日本の基地に待機しているやつらが順番になっていた。


(立川に)帰ってきたやつは、恐怖でボケて、精神的に変になっているのもいました。そういうのは「ああ、こいつボケてるな」と、見てすぐわかります。会計の時、日本人がごまかしても、気づかない。

 

戦地にいっている間の給料と危険手当がプールされているから、札束なんて財布に入りきらないくらい持っていました。札束をクリップで挟んでポケットに直接いれてた。


(戦争に)行くのが怖いので、ヤケっぱちになって金を使いまくってた。19歳20歳の、田舎から出てきたような奴らが、もう生きて帰ってこれないかもしれないので、酒を飲んで、気に入りのパンパン(※米兵相手の売春婦)に持っている金を全部やってしまう。金をもらったパンパンが、私の所に「ねえ、昨日、あたし、もらっちゃったよ」と言いにきました。 

 

立川は日本中から人が集まってきた。西部劇みたいだったんだから。その時に儲けた人達は、世の中が落ち着くと別の名前の会社になって、今はまったく関係ないような顔をしています。

 【参考画像】 立川の夜

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 「グランパ」が撮影した極東

以上、朝鮮戦争・聖路加病院・立川のエピソードでした。

ところでネットには、1950年代前半の日本を撮影したカラー写真がけっこう存在します。「グランパ」達が朝鮮戦争の頃に撮った写真を、子孫がアップしているらしい。当ブログではそのような経緯で撮られた写真を数多く紹介しています。日本人が決して注目しない切り口で撮った光景も多いので、ぜひあわせてご覧ください。

narasige.hatenablog.com

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