敗戦から数年頃のカラー写真を見ていると、人力の乗り物=輪タク・人力車がけっこう目につきます。今日はそんな輪タクや人力車の写真をご紹介しましょう。
泣きながら「輪タク」に乗った桑沢洋子
まずはじめに、桑沢洋子(桑沢デザイン研究所・東京造形大学の創設者)が泣きながら「輪タク」に乗ったエピソードを引用させてください。「輪タク」とはどういう存在だったのかがわかると思います。
『MUJI BOOKS 人と物10 桑澤洋子』より
「輪タク」というのは戦後、自転車のリヤカーを人力車に仕立てたもので、敗戦の街の人たちの足としてたくさん出回っていた。おそらく戦争で帰ってきた男や戦災で家を焼かれた人たちが選んだ職業だったのだろう。私はこの「輪タク」を見るだけでも悲しい思いだったので、それに乗るなんてよほどのことだったのである。輪タクの男は、見たところきゃしゃな体つきの若者であった。まだ復興も遅遅としていた下町のわびしい街を、男は私を乗せて走った。 走るといってもその速度は歩くのと同じぐらいに遅かった。下町なので急な坂は無いのに、ちょっと傾斜した道にくると、彼ははあはあと苦しそうにあえぐのである。(略)
日本は戦争のおかげで何もかもあと戻りしてしまって、あらためて出直さなければならないのだ…。隅田川の夕陽はだんだんと沈みかける。ついに私はたまりかねて男にそう言った。“私は歩きますよ”と。しかし男は恐縮して私を降ろさなかった。おそらく私の顔は、涙でいっぱいの怒りと悲しみでおおわれていたのだろう。
この時桑沢洋子は、月島の石川島造船所で「通勤着のデザイン・ショウと講演」をしたあと、大急ぎで京橋に向かうために、やむを得ず「輪タク」を使いました。そして泣いてしまった、と。
戦前は雑誌記者として、リッチなお宅の「機能的で素晴らしい台所」を見てきた桑沢洋子。それだけに「焼けあとのバラックの台所」や「戦争のおかげで何もかもあと戻り」した光景はキツかったのでしょう。*1。
▽もちろん、気軽に「輪タク」を利用する人も(笑)。おじさんの服には上下ともツギハギがあります。
客を待つ輪タク・人力車
以下、実際の写真をご紹介しますね。すべて元からカラー写真。これは帝国ホテルの脇にズラリと並んだ人力車。
こちらは佐世保の輪タク。サンドイッチマンも英語の看板を掲げています。“Japan, 1955-59”
千歳基地の「リキシャステーション」“Ricksha station 1953 Chitose Hokkaido Japan”
“Hachioji Train Station, 1952” 八王子駅。中央に人力車乗り場。異様に洒落た駅舎だけど、写真にうつっていない部分の空襲はひどかった。総務省|一般戦災死没者の追悼|八王子市における戦災の状況(東京都)
拡大しました。「人力車・厚生車」の乗り場。右手にカメラを構える男。
一瞬、外国かな?と思ってしまう写真
横文字が多くて、どこの国かわかりにくいけれど、キャプションには東京1950とあります。背景に「履き物の店」の看板も見える。“Tokyo, 1950”
兵士と
“1952-54” 皇居付近でしょうか。
モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1946年頃)
▽「ricksha」の列 (『TOKYO JOE』より)
Tokyo Joe : Ed Doughty : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
そのほかの人力車
“Japan, 1953-54”
以上、輪タク・人力車の紹介でした。一見のどかに見えてしまう輪タク・人力車の写真。しかし冒頭の桑澤洋子のエピソードを読むと、けっして“車社会になる前の、古きよき光景”ではないことがわかります。敗戦間もない頃のガソリン不足については、以下の投稿もぜひあわせてご覧ください!
▽なぜこの時代に、カラー写真が豊富にあるのかは、こちらを。