高速道路以前の光景
前に、“生まれも育ちも中央区”のお年寄りに、以下の写真を見せて「ここはどこですか?」と聞いたことがあります。彼女曰く
川は、高速道路と西銀座デパートになった。道路は、外堀通り。左の円形の建物は現在の有楽町マリオンの一角(映画館のピカデリー)。ピカデリーに突っ込んでいるように見える橋は、有楽町駅につながっていた。
とのことでした。
敗戦間もない頃の写真ですが、なんだかコレだけ見ると、 静謐な「水の都」だと錯覚しそうですよね!有楽町に「ラク町のお時」(パンパン)がいた世相は読みとれません。
▽関連話題:銀座の「水」は、かなり臭かったそうです。
私にも、〇〇から同じような写真が撮れた!
先日、私も似たような写真が撮れたので見てください。左側が有楽町マリオン。そして高速道路。さて、この写真はどこから撮ったものかわかりますか?
どこから撮った写真かといえば……正解は「東急プラザ銀座」でした。「東急プラザ銀座」は、かつての数寄屋橋阪急(モザイク阪急、マツダビルなど、呼び方がいろいろあってややこしい)。現在の「東急プラザ銀座」は、外国の富裕層を対象にしたビルですが、たまたま入ってみたら似たような光景が撮れたのでした。
▽冒頭の写真と、2021年を並べてみた。右下の三角形の緑地は、西銀座チャンスセンターのあたり。
東急プラザ(数寄屋橋阪急)の場所から、見おろす
冒頭の写真が、ズバリ「東急プラザ銀座」(元の数寄屋橋阪急)から撮ったものかどうかはわかりませんが、参考までに敗戦間もない頃の「東急プラザ銀座」をご覧ください。手前は銀座4丁目交差点、遠くに見える高い建物が、現在の東急プラザです。そのあたりから銀座や数寄屋橋を見渡せたのでしょう。その頃の高いビルって、限られているから。ちなみに 右手は接収されてTOKYO PXの看板がついている「和光」。左側には「三愛」が見えます。
FH000058-090103-17 | discovery2009 | Flickr
▽こちらにも、「東急プラザ銀座」(数寄屋橋阪急)。1952年の地味な銀座です。
Ginza, Tokyo June 1952 | Japan, 1952 Photographer: Lt. Woodr… | Flickr
東急プラザ銀座(数寄屋橋阪急)の場所が、極東空軍宿舎だった時代
かつて東急プラザ銀座(数寄屋橋阪急)の場所は、極東空軍宿舎でした。しかも「 模範兵士」の写真が飾られるショーウインドーもあったとか。以下、MPのジープから見た占領下の東京より引用します。
この男は朝鮮戦争の捕虜交換の時、米兵になりすまして共産圏の国から送り込まれたのだという。(略) 勤務態度もなかなか優秀で、模範兵士と言うことで銀座数寄屋橋の角の阪急のショーウインドーに彼の等身大の写真が飾られたことすらある。日本警察にも大変協力的で、PXで何か買い物頼むといつも気軽に買ってきてくれる。
彼が急に姿を消し、数日後の「スターズ・アンド・ストライプス」紙に スパイとして逮捕され、やがて軍事裁判にかけられるであろうという記事があったときに、われわれは目を疑ったほどであった。
ビルに等身大写真が飾られるような「 模範兵士」がスパイって、びっくり!それとも、当時はよくあることだったのかしら…。
▽参考:こちらも、華のない銀座を見おろしている写真。左手の「和光」にはTOKYO PXの看板。手前のビルは焼けっぱなしで、 窓の中が真っ黒。
以上、銀座を見おろす写真のご紹介でした。
話はちょっとそれますが、戦後間もない頃の映画を見ると、銀座の撮り方がすごく不自然だなあ、という印象を受けます。接収中のビル・焼けたビル・補修中のビル・進駐軍用の標識なんかをいちいち避けて撮影するのはとっても大変そう。いわば散らかった部屋でインスタライブをやるようなものじゃないですか?
とまあ、そんなわけで、私は銀座に行くと脳内プチ時間旅行に忙しいのです。
▽関連話題:銀座松屋から見おろした風景。教文館の塔がうつっていました。
▽「積木くずし」の穂積隆信は、将校クラブのトイレを掃除をしながら、現在の有楽町マリオンの方角を見つめていました。