私が幼かった頃、有楽町にとても変なビルがありました。ゴチャゴチャした外観で、側面には裸の女の人の看板もかかっていて…。(私は中央区育ちなので、どうしても目に入ってくるのです)。だから、そのビルが有楽町マリオンに建て替わったとき、正直ホッとしました。以下、「子供の目にうつった変なビル」=「日劇」の変遷をご紹介します。
昭和8年(1933) 最初は「陸の竜宮」だった日劇
日劇は昭和8年(1933)に完成しました。オープン時は✨「陸の竜宮」✨だったんですね。
「陸の竜宮」と呼ばれる日本劇場が経営困難で閉鎖されるということが新聞で報ぜられた。翌日この劇場前を通ったら、なるほど、すべての入り口が閉鎖され平生のにぎやかな粧飾が全部取り払われて、そうして中央の入り口の前に「場内改装並びに整理のため臨時休業」という立て札が立っている。
昭和11年(1936)「日独防共協定の成立」
写真のタイトルは「日独防共協定の成立」。 昭和11年、師岡宏次撮影。日劇に隣接する朝日新聞がメインに写っていますけれども、“旗”を固定している部分は、日劇です。
日本劇場の前に大きなナチスの旗が掲げられていて驚いた。急に世界の渦中にあることを感じた。朝日新聞社が背景で、特に印象的であった。(昭和11年)
昭和12年(1937)「南京陥落」
やがて日中戦争がはじまります。昭和12年12月土門拳撮影。「南京陥落」「万歳」の掲示。
▽同時期、銀座の提灯行列は、こちら
昭和18年(1943)「撃ちてし止まむ」の大写真
「陸の竜宮」としてスタートしてからたった10年後。昭和18年は、戦意高揚のため「撃ちてし止まむ」の百畳敷写真が掲げられました。オープン時の「陸の竜宮」感はどこへ?小池都知事が新型コロナ 対策で「打ちてし止まん」を使った時、この写真を思い出した方も多かったのではないでしょうか。(毎日新聞社『さよなら20世紀』」より)
そして敗戦…
敗戦後、銀座4丁目は(和光・松屋などをのぞいて)ヒドい状態になりましたが、日劇周辺は空襲を免れています。日劇と朝日新聞の前をGHQのスクールバスが走っている。
スクールバス拡大。「学校バス乗降中は…」の注意書き。
▽銀座の中心部はこんな感じ
昭和27年(1952) 映画「私はシベリヤの捕虜だった」
昭和27年の日劇です。「春のおどり」の下に私はシベリヤの捕虜だったの文字。
拡大。「私はシベリヤの捕虜だった」のフォントが、やけにポップなんですけど…
▽1950年代前半は、日本を撮影したカラー写真が豊富です。その理由はこちらをご覧ください。
昭和39年(1964) 東芝とサントリー
さて「撃ちてし止まむ」の百畳敷写真から、約20年が経過しましたよ。東京オリンピックの年。東芝とサントリーが輝いています。Tokyo-Night-Street-08 | 1964. Nighttime shot of the Nichigek… | Flickr
昭和40年代末(1970年代)
昭和48年(1973)。日劇には相変わらず東芝の看板がドーン。背景の建物には「菊正宗」「ダイキンエアコン」「プレイボーイ」「non no」などの看板がずらり。
昭和45年頃(1970頃)、日劇5階の「日劇ミュージックホール」
日劇「秋のおどり ニッポンよいとこ」Japan, Nichigeki Music Hall Program 1975
日劇「秋のおどり」。美女とアメフト、魅惑の組み合わせ。Japan, Nichigeki Music Hall Program 1975
▽日劇5階の「ハダカ・レビュー」は敗戦まもない頃からあり、超満員だったそうです。
昭和55年(1980) 日劇の最終形態
1980年。シティポップが流行している頃の日劇は、混沌がマックスに。「来夢来人」(小柳ルミ子)の垂れ幕に注目です。現在なら、"昭和レトロ"として好まれる光景かもしれませんが…。そのほかにも「象物語」「影武者」「農林年金会館」「ホテル デン晴海」「後楽園矢野大サーカス」「いい色との出会い東芝カラーテレビ」「鶴田浩二特別公演」など、盛り沢山で地の部分が見えません!
以上、日劇の激しい変遷でした。小さい頃の私が、日劇を「なんだか変なビル」扱いしたのも仕方ないのです。広告にまみれて美しい原型が見えなかったのですから!その後、日劇は解体され、昭和59年(1984)に有楽町マリオンがオープンします。
日劇は、銀座4丁目の「和光」と同じく渡辺 仁が手掛けました。和光の「変わらなさ」と比較してみてください。