佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

向島の大倉喜八郎別邸・その後

 高見順「敗戦日誌」には、敗戦の年(昭和20年)10月1日の日記に、向島の大倉別邸(wiki)が、進駐軍慰安所になったという記載があります。 

十月一日
三木清が獄死した。殺されたのだ!
墨堤の大倉別邸が進駐軍慰安所になる。
一度暇を見て向島の移り変わりを見に行かねばなるまい。

 

墨堤の大倉別邸とは、大倉喜八郎別邸のこと。

 

参考画像:大倉喜八郎が、憧れの成功者だったことを示す漫画(昭和3年

f:id:NARASIGE:20200522073929j:plain

 

私は何年か前、墨堤の大倉別邸がなぜか千葉県の船橋に移築されているのをネットで知り、見に行ったものでした。

道路の向かいは「ららぽーと」、背景は団地群、といった環境の中、唐突に大倉別邸喜翁閣が立っていて違和感がすごかった!

大倉別邸は某ホテルの敷地内にあるのですが、この建物の由来を説明する掲示物等は無く、雨戸も閉められた状態なのです。こんなに立派な建物を説明する掲示物が無いなんて…やはり敗戦直後のアレコレがあるから、冷遇されているのかなって思っておりました。

 f:id:NARASIGE:20090921144644j:plain

↑大倉別邸 

f:id:NARASIGE:20090921145013j:plain

↑隣接する団地

 

 

それから数年たち、ふと、墨田区の観光案内を見ていたらマップの中に「大倉喜八郎別邸跡」というのがドーン!と紹介されているじゃありませんか。写真はなく「財閥を築いた大倉喜八郎が、明治43年に建てた別荘。現在は千葉県船橋市に移築。と文章が記載されているだけですが。

 

大倉喜八郎別邸が、船橋で冷遇(?)されているのを見た私としては、【元々建っていた場所である向島】にも痕跡は残っているわけはない、と思い込んでいました。しかし観光マップに堂々と出ているとなれば話は違います。何かしら残っているはず。きっと区の石碑(文化の散歩道的な?)があったり、関連企業がこしらえた記念碑があるのかも?と予想していたのです。しかし、行ってみるとそれは大きく裏切られました。

 

解体前の倉庫の草ボーボーの植え込みに、経年劣化でほとんど読めない大倉喜八郎別邸跡」というプレートがあるだけ。かなり寂しい状況だったのです。しかもプレートを書いた主はその倉庫会社というテイになっていて、墨田区や大倉氏関連の企業が関わった形跡は無し。やはり敗戦時の出来事の余波が、堂々とした記念碑を作らせないのでしょうか。

f:id:NARASIGE:20160529104730j:plain

別邸跡に立つ倉庫の解体を示す看板

f:id:NARASIGE:20160529105012j:plain

参考資料1「色の道商売往来」より、小沢昭一と、RAA関係者の対談(昭和40年代)

[小沢] マッカーサーの名前が出ましたが、進駐軍の高官の接待、これもいろいろご苦労があったと思いますが・・・・

[鏑木] そのために大倉別邸を手に入れたわけです。大倉さんの別荘には、有名な陛下がおいでになった部屋がありますね。あの部屋に、マッカーサーをはじめホイットニー中将をの他をよんだわけです。

[小沢]そういうご連中にご婦人は・・・・

[鏑木]やっぱり施設の若いコです。

[小沢]と、GIのあとから司令官が抱くというわけですか。

[鏑木]そういう点、アメリカは平等ですな(笑

[小沢]しろうとのお嬢さんを世話しろなんて、おねだりはありませんでしたか。

[鏑木]おねだりもありました。ただ日本の女は毛唐崇拝の念が強いから、案外こっちは苦労しないで喜んでいきましたね。

[小沢]あのころ、RAAの女性の平均年齢はいくつくらいでしたか。

[鏑木]22.3でしょうね。

[小沢]その方達は今生きていれば、50近い。当時のカネで相当ためた女もいるでしょうね。

[鏑木]ためた女は少ないです。

[小沢]あれで稼いだ金ってどうしてたまらないんですかね。

[鏑木]やっぱり荒稼ぎというんでしょうね。地道な稼ぎ方じゃないから・・・・・。

 

参考資料2 墨田区図書館ニュースより抜粋

f:id:NARASIGE:20200522080127p:plain


 

 

narasige.hatenablog.com

 

 

東京湾のパノラマと、洲崎チェック☆

 幸田露伴の随筆に、初夏の晴れた日に東京湾を舟にのってボンヤリしていると、東京湾の周囲がぐるりと見渡せて「天の橋立の景色を夢にでも見るようである」といった心地になることが書かれていた。東京の近くにこんなに良い光景があるのを知らないなんてみんな人生損しているよッ!と云った口調である。

 

一部引用すると

すぐ鼻の先の芝から愛宕高輪品川鮫洲大森羽田の方まで、陸地のだんだんに薄くなって行って終に水天の間に消える。芝居の書割とでも云おうか又パノラマとでも云おうか何とも云いようの無い自然の画が、今日はとりわけいろ具合好く現れて、毎々の事ではあるが、人をして「平凡の妙」は至る所に在るものであるということを強く感ぜしめるのである。で、思わず知らずに又州崎の方を見ると、近い州崎の遊郭の青楼の屋根など異様な形をしたのが、霞んだ海面の彼方に、草紙の画の竜宮城かなんぞのように見えて(以下略)

 

 

洲崎は明治21年(1888)に根津から遊郭が移転したそうだから、この随筆が発表された明治39年には、出来てまだ十数年の歓楽街。「遊郭の青楼の屋根など異様な形」などは間近で見るとかなりキツいものがあったと想像されますが、海上から見るとウマい具合にソフトフォーカスがかかって「草紙の画の竜宮城かなんぞのように」見えるのですね。

 

下は昭和3年 現代漫画大観「日本巡り」より引用の画像。男性が東京湾巡りをするとやはり、洲崎方面に目がいってしまうもののようです。

f:id:NARASIGE:20150918060118j:plain

 

 


玉の井と京成バス

 

永井荷風玉の井ルポ「寺じまの記」(昭和11年)を読んでいたら、「京成乗合自動車」が出ていた。

「寺じまの記」によれば浅草から玉の井に行くには二通りあって、一つは「市営乗合自動車」、もう一つは「京成乗合自動車」。「市営」か「京成」かは、それぞれ車の横腹に明記してあり、永井荷風は「京成乗合自動車」をチョイスして玉の井へ向かうのです。

 

(そういえば、先日、激しく再開発された南千住を歩いていたら、やはり京成のミニバスと都営バスが交互に走っていて、さらにショッピングモールに入っているスーパーもリブレ京成で、「ああ、このあたりは京成の勢力圏なんだなあ」と思ったことでした。ちなみに南千住から橋を渡るとすぐ「鐘ヶ淵」。「鐘ヶ淵」のとなり駅が玉の井東向島です。)

 

f:id:NARASIGE:20160519123129j:plain

 

 

 

下の漫画は昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」。玉の井行きの乗合自動車が全盛であると書かれています。wikiによれば、「京成」が「昭和6年に、浅草を起点に玉ノ井・四ツ木・立石周辺に路線を有していた隅田乗合自動車を買収した」とあるので、この漫画が出版された昭和3年の段階では、乗合自動車は「京成」のものではなかったと思われます。

f:id:NARASIGE:20160507055553j:plain

武蔵野夫人

『武蔵野夫人』を読んだ。

占領下に発表された小説。

 

舞台となる場所は、“多磨地区は軍都だったッ”的な本でおなじみのエリア。なので、敗戦後は接収されてる場所もあるだろうに、進駐軍はほとんど出てこない。

 

唯一の例外は、

“近所の飛行場(調布飛行場)に進駐軍が来るから(自害用に)青酸カリ持っとく?”

みたいな会話。

しかし外国文学を学んだ設定の登場人物は、“自分は、米兵の礼節を信じているから☆”と青酸カリの件を一笑に付す。こいいう肯定的な表現はOKなのですな。

 

駅前にパンパンがいるシーンも「パンパンとその客」とだけあって、「客」がどういう人なのか一切書いてない。

 

そのほか、『武蔵野夫人』では

「街道には外国の車がひっきりなしに走っていた」

飛行場の将校集合所」

「碧の濃い秋空にはどこを飛ぶのか飛行機の爆音に充ち」

と、占領に関することは、すべてボンヤリした書き方。当時の読者はこれで十分すぎるほど理解できただろうけど、後世の読者にはわかりずらい!

 

(そうういえば久生十蘭の『母子像』も、厚木基地の米兵を「毎土曜日の午後、朝鮮から輸送機でつくひと」と、めちゃくちゃ曖昧にしていたっけ)

 

小説の中では、ぼかされているアレコレだが、銀座の標識には飛行場の場所としてバッチリ明記されている。武蔵野夫人のすぐそばの調布飛行場をはじめとして、府中、立川、入間など飛行場や通信施設のある場所までの距離が一目瞭然。flickrより

 

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

モボモガと村山貯水池

昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」より、村山貯水池付近を散策するモボとモガ。

 

Google マップ

 

 村山貯水池は、通称「多摩湖」。東村山音頭の「 庭先ゃ多摩湖 ♪」の「多摩湖」です。大正5年から昭和2年の間に建設されました。

 

地図で解明! 東京の鉄道発達史 (単行本)には、昭和13年西武鉄道が村山貯水池を日帰り可能な景勝地として大ブッシュしているパンフレットが掲載されています。パンフレットは、高田馬場からわずか30分!とうたっており、菊池寛による賛辞の言葉〝京都に行かなくたって村山貯水池で山紫水明気分が得られるよ(大意)〟を使って村山貯水池の良さをアピールしています。当時の西武は村山貯水池付近にお洒落な洋館ホテルも建てている。人造湖と洋館ホテルの組み合わせ。洋装のモボやモガはここに宿泊して、欧羅巴のどこかにいるつもりになれたのたかもしれません。

 

獅子文六の小説「カレーライス」では、さびれた洋食屋で働く若い男女が"今度の公休は一緒に村山貯水池へ行こう"と約束をしています。村山貯水池は、そういう階層のカップルでも手軽に行ける場所だったでしょう)

 

村山貯水池が登場する小説として大岡昇平の「武蔵野夫人」があります。村山貯水池脇のホテルで不倫カップルが、一線を越える・越えないで大騒ぎする話。この小説が発表されたのは、昭和25年です。西武が村山貯水池推しの派手なパンフレットを作ってからわずか12年後の話なのですが、その間に日本は敗戦を体験しました。湖畔のお洒落ホテルも、敗戦を経てすっかりさびれてしまった様子が描かれています。(この湖畔ホテルに限らず、戦前はモボモガの憧れであったモダン施設が、戦中に荒廃し負のオーラを放つというケースは「京王閣」「花月園」をはじめとして、かなり多かったのではないかしら。)

  

「武蔵野夫人」に出てくる村山貯水池の説明を読むと、冒頭の風刺漫画でモボとモガが軽薄そうに散歩している様子が、決して誇張ではなかったことがわかります。

この丘陵の懐は、つまり東京都の水道を賄う村山貯水池にほかならず、ちょうど富子の女学生時代にそれが竣工し、谷を埋めた人工の湖の景観が、東京市民ことに男女学生の興味を引いて、湖畔にいわゆるアベック休憩のホテルがあるのを彼女は知っていた。

文中に出てくる「富子」というのは、コケティッシュな発展家タイプの女性で、小説の中では30歳という設定です。西武のパンフレットが昭和13年に、村山貯水池を"身近な景勝地"として売り出していた時期は、まさに彼女の女学生時代に相当します。富子は女学生時代の記憶を元にして、村山貯水池のホテルに若い男を誘うのでした。

  

おまけ:村山貯水池には「狭山公園」が隣接しています。「狭山公園」も昭和13年の西武鉄道パンフレットで推している場所なんですね。そんな狭山公園ですが。かつては「アカハタまつり」の会場になっていたそうです。レッドアローとスターハウス: もうひとつの戦後思想史 (新潮文庫)には、西武鉄道が「アカハタまつり」の日程に合わせて新宿と池袋に特設切符売り場を設けていた歴史が書かれています。にもかかわらず西武の機関誌自体には「アカハタまつり」の記事はいっさい出ていないそうです。

 

幻の地下鉄

 

地図で解明! 東京の鉄道発達史 (単行本)を読んでいたら、大正に計画されていた幻の地下鉄路線が出ていた。

路線は以下の通り。

 

始発駅と終点の駅は、

 

築地→小村井

荏原町北千住

恵比寿→下板橋

渋谷→月島

角筈(現・西新宿)→砂町

池袋→大島

 

これを見て驚いた。

終点が、ほとんど東京の東側。しかも、かつての工場地帯。たぶん東京生まれの人も、「どこ?それ?」という地名が多いのでは。

 

昔の地下鉄って、繁華街と繁華街を結んだり、デパートの力で建物直結にしてみたりする浮かれたものだと思いこんでいたから、この地下鉄計画は意外だった。

 

(終点の1つである月島界隈は、今でこそ「古きよきエリア」みたいに思われているけど、もともと軍需工場の町だし。月島は私の生まれ故郷。幼い頃は廃工場で遊んだものじゃった)

 

しかし戦前の映画館が、銀座や浅草だけでなく、東京の東側に多かった点を考えると、かつては現代からは想像しにくい「盛り場」だの「お金を落としてくれる消費者層」の分布図があったのかも。なんで今の私達が昔を想像しにくいかというと、大工場地帯の跡地はその広大な敷地を生かして大公園・大団地群・ショッピングモール等に大変身しており、過去を感じさせないからだと思います。

 

narasige.hatenablog.com

獅子文六の小説によれば軍需工場の熟練工はかなり収入が多かったそうですよ。

 

narasige.hatenablog.com

 


 

 

 

荒川と桜草

 

昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」より、「赤羽」の図。

 

「渡し船で荒川を越えると桜草で有名な浮間ヶ原だ。草の中に桜草を取るなと書いた札が立っている。」

 

洋装のモボとモガが、桜草見物しています。あるいは密かに持ち帰ろうとしているかな?

f:id:NARASIGE:20160316080504j:plain

  

 

赤羽〜浮間ヶ原、荒川の改修で流れが変わっているから昭和3年の観光案内とは、様子

がかなり変わっているかも。

f:id:NARASIGE:20160316090452p:plain

 

浮間の桜草って、江戸時代から有名だったんですね。

浮間ヶ原の桜草とは?|北区観光ホームページ

しかし荒川周辺の環境変化で、桜草は衰退、と。

 

 

この付近に戸田斎場(民営の斎場火葬場)がありますが、出来た当時(昭和元年)は荒川が今とは違うところを流れていたそうです。

 

板橋にあるのに「戸田」斎場なのはなぜ?(wikiより)

板橋区内にありながら「戸田」と名乗っている理由は、1926年3月29日の設立当時は荒川が葬祭場よりも南側を流れており、葬祭場のある現在の舟渡4丁目が埼玉県戸田町(現在・戸田市)に所属していたためである。その後河川が改修され、1950年板橋区に編入された。戸田変電所が板橋区内にあるのも同じ理由である。

 

h3 { color: #FFFFFF; background: #000000; padding: 0.5em; } h4 { border-bottom: dashed 2px #000000; } h5 { border-bottom: double 5px #000000; }