小津映画と、ブルーインパルス
河野大臣とブルーインパルスについて、賛否両論が巻き起こっていましたね。
「ブルーインパルス」で検索していたら、行進曲「ブルーインパルス」があることを知りました。作曲者・斎藤高順は、小津映画の音楽(「東京物語」「秋刀魚の味」など)を手がけていたとか。吹奏楽に縁のない私は、聞いてビックリ。東京物語の曲調と全然違う!
軍楽隊は、東京大空襲の直後にもパレード していた!
行進曲「ブルーインパルス」の作曲者・斎藤高順は、芥川也寸志や團伊玖磨と同じく陸軍戸山学校出身。その軍楽隊は、なんと東京大空襲の直後にも、人々を鼓舞するためにパレードをしていたのだとか!!
1945年3月10日、東京大空襲の日。
実はこの日は「陸軍記念日」で
軍楽隊は毎年恒例のパレードを都心で行う予定にしていました。
しかしその日の未明に、東京への大空襲があり、
下町を中心に東京は焼け野原となったのです。
果たしてこんな状況でパレードをしていいのか。
軍楽隊のメンバーは躊躇したといいます。
「とにかく陸軍省にお伺いを立てようと聞いてみたら、
『士気を鼓舞するためにやれ』という命令が下って。
パレードに出ると、道が消防の水でびしょびしょに濡れている
状態だったのを覚えています」
大空襲直後、町は焼け野原となりましたが、軍楽隊は人々の沈んだ気持ちを鼓舞するために、
3時間休むことなく行進しました。
「人々の沈んだ気持ちを鼓舞するため」って、音楽のパワーにも限界がありますよ!?と言いたくなります。
陸軍戸山学校音楽隊と「軍国のリズム」
ちなみに、こちらは手持ちの雑誌にあった陸軍戸山学校軍楽隊の記事(「ホームライフ」昭和12年11月号)。日中戦争勃発から間も無い頃なので、「軍国のリズム」というタイトルが“勇ましい・たのもしい”というニュアンスで使われています。
時局下の緊張と興奮を美しい戦時交響曲に高めてゐる。
(音楽の力を重視しているといえば、マッドマックス。こちらの音楽隊も「時局下の緊張と興奮を美しい戦時交響曲に高めてゐる」のでしょうか?)
伊勢丹の近くで軍楽隊がパレードしていた時代
私の母は幼い頃、陸軍戸山学校の近くに住んでいました。なので新宿伊勢丹近くで軍楽隊を見たんですよ。(戸山学校と伊勢丹は、すぐそば)。その記憶スケッチがこちら。裏面のメモには「軍隊が時々、月に一度位、ザックザックと通る。軍楽隊も交えて沢山の兵隊さんがパレードを行う。壮観なものだった」とありました。
母は「画力がなくて」と嘆いていましたが、まあ雰囲気は伝わってきます(笑)
ピクニックat戸山ヶ原
そうそう、吉屋信子の短編『女の子』(小さき花々 /河出文庫収録)にも、陸軍戸山学校のある「戸山ヶ原」が登場していました。お嬢様2人が、お弁当を持って戸山ヶ原でピクニック。昭和10年に「少女の友」に掲載された作品です。
「あのね、あなた戸山ヶ原御存知?」
私は、その頃、毎日省線電車の窓から、戸山ヶ原を見て、学校へ通っていた、というのは、登校時間の省線は腰かけられた事なんか、決してなかったし、立っていればいやでも、窓から、その原っぱが見えるのだった。(略)
騎兵が、馬で松の木立の間を駆け廻る戸山ヶ原、塹壕を掘って、歩兵が演習していることもある。雪の降った朝は、物珍しそうに、スキーを持ち出して、そのゆるい傾斜で滑っている人影のある冬の戸山ヶ原、そして今頃の青草が萌えて、朝から、うらうらと陽がさし、陽炎が燃えて、まどろみたいような、春の戸山ヶ原。
「陽炎が燃えて、まどろみたいような、春の戸山ヶ原」って、のどかですな。この作品は昭和10年。しかし、昭和12年の日中戦争勃発後なら“歩兵の演習を眺めながらピクニック”なんて、まず無理でしょう。
それにしても、ピクニックの10年後、軍楽隊が焼け野原を行進することになるとはね…。