ベルリンの熱狂と、山口青邨『滞独随筆』
話題の書店、神保町のPASSAGE by ALL REVIEWSで*1、山口青邨の『滞独随筆』(昭和15年・三省堂)を書いました。びっくりするような表紙です!著者の山口青邨は俳人であり、かつ鉱山学者。
『滞独随筆』は昭和12〜14年頃(1937-1939)のドイツの様子を記した本で、俳句雑誌「ホトトギス」等に連載した文章*2がまとめられています。表紙はいかついけれど、日記や書簡の形で書かれているので意外にも読みやすい。
山口青邨は鉱物学者として、ドイツの「工業の心臓部」エリアを視察していました。その際、ヒットラーに熱狂する大群衆とたびたび遭遇しているのです。群衆の渦に巻き込まれた時は「ここで死ぬかもしれない」と圧死を覚悟したとか。
ベルリン子たちはヒットラーが来るとなると、朝からお弁当と折りたたみ椅子を持参してスタンバイ。「宣伝相ゲッベルス」による
「伯林の人々よ!街頭に出でよ、そして総統に感謝を捧げよ!」
という告示。小旗を満載したトラック。家の窓から「ハイル・ヒットラー!ハイル・ヒットラー!」と叫ぶ人々。押すな押すなの小競り合い。
中には“棒の先に鏡をつけた装置”(きっと見た目は、自撮り棒)を使って、人垣の後ろから見物する人もいたそうですよ。
このあたりの描写がとても生々しくて、1時間前にアップされたvlogを見ているような気分になりました。
宝塚少女歌劇団の歓迎会
そしてちょうどこの頃(1938/昭和13)、宝塚がドイツ・イタリー公演を行っています。『滞独随筆』には歓迎会の様子が記されていて興味深い。お寿司や煮〆が用意され、ベルリン中の日本人が大集合!しかし「可愛い娘達」はすぐに帰ってしまい、残された日本のオジサン達が淋しさにおそわれています*3。
自分の娘たちか、妹たちが歌ったり踊ったりしてゐるのだと思ふやうな気がしたのです。 はるばる祖国からから来たんだ、いたわってやり度いといふ気持ちがしました。 (略)さっと帰られたものですから、お父さん、兄さん達は寂しくなったのは当然です。(山口青邨『滞独随筆』)
▽『滞独随筆』から「虚子先生への手紙」(1938年11月10日付)より。前年に発表された「愛国行進曲」や「露営の歌」を歌っています。
『水晶の夜、タカラヅカ』
『滞独随筆』で上記のエピソードを見たときは、“せっかくの歓迎会なんだから、宝塚の乙女達は急いで帰らないで、ゆっくりすればいいのに…“などと思っていました。しかし『水晶の夜、タカラヅカ』という本を読んで、考えが変わりましたね。これは歓迎会に長居できないわ…と。
宝塚のドイツ公演って、なんとなくスムーズに行われそうじゃないですか?(同盟国になるわけだし)。ところがどっこい、日独でさまざまスレ違いがあり、直前まで“公演できるの?できないの?どっち?どっち?”的な綱渡り感がすごいのです。
会場は決まらないし、練習もままならない。しかもヨーロッパの冬は非常に寒い。いやあ、かなりキツそうです。宝塚のエピソード@ベルリンは、複数の本で読むと立体的になりますね。
ヒットラーを「好きになってしまった」
最後に山口青邨『滞独随筆』に話を戻しましょう。山口青邨は、昭和12年2月に日本を発ち、昭和14年4月に帰国する2年数ヶ月の間、ベルリンを拠点として欧米に滞在していました。
「ちょうど戦争が始まる前のいろいろな複雑な情勢の時にぶつかって」おり、その見聞を昭和15年3月に出したのが『滞独随筆』なのです。だから当然、現在とは歴史の見え方が違っている。たとえば「滞独」しているうちに「きびきび」したヒットラーを好きになってしまったり。
ヒットラーは今、英雄になりつつある。私はむかふに行くまではヒットラーは好きではなかった。しかし2年の間に、ヒットラーを眼のあたりに見たり、演説を聴いたり、きびきびと仕事をしたり、最後には一兵卒として先頭に立って敵地に進軍したりするところを見てゐるうちに、たうとう好きになってしまった。
この「好きになってしまった」気持ちは、『滞独随筆』の装丁にもあらわれています。カバーをとるとこんな感じなのですから。『滞独随筆』は「日本の古本屋」にもあるのでぜひ『水晶の夜、タカラヅカ』とあわせて読んでみてください。