昭和12年、原節子はベルリンで映画『新しき土』の舞台挨拶をしていました
昭和12年の初夏(1937)、「原節子・ベルリン写真通信」が「主婦之友」に連載されました。なぜ彼女がベルリンに行ったかというと、日独合作映画『新しき土』(『Die Tochter des Samurai』)の主役だったから。10代の原節子が鏡で自撮りしてますよ!なんて豪華な自撮りでしょう。
昭和11年、ドイツの旗が有楽町に。日独防共協定の成立
ここで当時の状況を少しだけ。原節子がベルリンに行く前年(昭和11)、『新しき土』の撮影がすすめられています。そして昭和11年といえば、東京のど真ん中にこんな旗が掲げられていました…。写真のタイトルは「日独防共協定の成立」。場所は現在の有楽町マリオンです。
『想い出の東京 師岡宏次写真集』より
日本劇場の前に大きなナチスの旗が掲げられていて驚いた。急に世界の渦中にあることを感じた。朝日新聞社が背景で、特に印象的であった。(昭和11年)
原節子のベルリン写真通信
では「主婦之友」に連載されていた「原節子ベルリン写真通信」から抜粋してご紹介しましょう。
ベルリンに向けて東京駅を出発
昭和12年3月10日、原節子、義兄、川喜多夫妻の4人で出発しました。(ちょうど8年後の3月10日は東京大空襲ですね)
3月10日の夜、東京駅で皆様の物凄いばかりのお見送りをいただき、川喜多様ご夫妻(東和商事社長)、義兄(熊谷監督)私の4人は無事に希望の多い旅を続けました。18日、満洲里(マンチュリー)を離れてソヴィエットに入るまでは、どこの駅でもファンの方が多勢見えて、励ましてくださいましたので、少しも淋しくはありませんでしたが、シベリア鉄道の1週間の明け暮れは、本当に淋しく、 退屈でございました。
川島芳子の妹や、「半島の舞姫」崔承喜とのスナップ写真
満州を経てベルリンに向かう途中の写真です。【右】日満連絡船で川島芳子の妹、川島廉子と。【左】大連で「半島の舞姫」の崔承喜と。原節子は小さな日本家屋よりも、大連みたいな広い空間の方がしっくり見えるなあ。
ベルリン「カピトル座」に岐阜提灯がズラリ
ベルリンについた原節子は、監督のアーノルド・ファンクと再会。各地で舞台挨拶をしています。
その晩から『武士の娘』(『新しき土』の独逸名)が上演されているカピトル座に、ご挨拶に出ることになりました。カピトル座の正面には、浮世絵の赤富士に、小杉さん*1とエヴェラさんと私とを配した大きな看板が掲げられ、「新しき土」の岐阜提灯がずらりと下がり、「伊丹万作さん江」「早川雪洲さん江」「原節子さん江」などと書いた旗のぼりが立てられて、道行く人は皆しばらく足を停めて眺める有様でした。
ベルリンでヒトラーユーゲントと
謂ゆるヒットラー青年の、彼らの総統を尊敬していることは非常なもので、見るからに溌溂として、明るい若人達でした
ホテルの部屋以外は、着物姿
原節子は、この旅でずうっと着物姿だったようですね。(ホテルの自室以外は)。
コブレンツの『新しき土』封切場。(左前のキモノを着た受付嬢にご注意くださいませ)
以上、原節子のベルリン通信でした。ちなみにアイキャッチ画像は、flickrでたまたま見つけたドイツのカード(?)です。
原節子と小杉勇。ドイツのシガレットカード。(お茶漬けの東海道五拾三次カードのようなもの?)https://t.co/NckkMFBLCihttps://t.co/F4YQDlTjDO#原節子生誕祭#新しき土 pic.twitter.com/AuNGSpyoIN
— 佐藤いぬこ (@inukosato) 2021年6月17日
昭和12年初夏、「主婦之友」に連載されていた「原節子・ベルリン写真通信」ですが、ご存じのとおり同年の7月7日に盧溝橋事件が起こります。その後「主婦之友」は、“映画スター大好き💕お洒落大好き💕”といったノリから、だんだん雰囲気が変わっていく。そして最終的には、狂気の「ぶち殺せ!」標語の雑誌になったのだとか。ゾッ…。
▽原節子がベルリンに行った翌年(昭和13)、今度は宝塚がドイツ・イタリアに向けて旅立ちます。こちらもあわせてどうぞ。
▽「新しき土」の撮影風景はコチラ。