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野坂昭如、逃げるスピード

現在、歌舞伎座が工事中なので、かわりに新橋演舞場を使っているそうですね。


同様のことが、敗戦間もない頃にもあったようです(つまり、歌舞伎座が焼けてしまったので、他の場所を使っていた。)それは、東銀座の「東劇」でした↓



昭和25年(1950年)、野坂昭如氏は「東劇」で歌舞伎を見ていましたが、新聞スタンドで朝鮮戦争がはじまったニュースを知るやいなや、大慌てで新潟に避難しました。

昭和25年7月25日のこと、まだ歌舞伎座は焼け落ちたまま、米を持たなければ寿司屋に入れず、銀座通りの主だった建物は、すべて占領軍が使用していた。ぼくは早稲田大学文学部の一年、東劇で歌舞伎を観て、表へ出ると。すぐ前の新聞売子のスタンドに、貼り紙があり「北朝鮮、韓国に宣戦布告」と書かれていた。


とたんに、ぼくは地下鉄で上野駅へ行き、そのままありあわせの汽車をつかまえて、上越国境は越後湯沢へ向かった。


ぼくはまた始まった、今度は原爆戦争に違いないと考え、焼夷弾なら、幾度も経験して、なんとか逃げる自信もあるけれど、ピカドンではどうにもならぬ、三十六計逃げるにしかずと、湯沢へ落ちのびたのであり、夏のこととて、他に泊まり客もない旅館で、ラジオにかじりつき、あの聞きなれた空襲警報が、今にも響くのではないか、東京が爆撃されたというニュースが入るのではないか、とおびえきっていた。


朝鮮半島はこれより二年近く、悲惨な戦場と化すのであるが、日本はいっこうに蛙の面に水、かえってその特需とやらで、経済の立ちなおるきっかけとさえなり、すっとんで逃げた僕など愚の骨頂であった。

[参考 1950年代の東劇]


銀座から勝ちどき橋の方向を見る。(晴海通り)右手にある茶色い建物が東劇*1


現在のガンセンター側から見た東劇。水だらけの写真で違和感があるかもしれませんが、以前の中央区は、けっこう、水だらけだったのです。(なので、今も東劇のそばに、形ばかりの橋が。)*2


進駐軍用観光地図より、東劇、歌舞伎座付近。歌舞伎座の脇にも、掘り割り。吉田健一によれば、中央区の掘り割りはテームス河に繋がっている