名取洋之助が撮った東京の芸妓(昭和10年5月アサヒカメラ)。襟が、けっこうグニグニ。
説明文を拡大「マツダ写真電球1個を使用」
上と同じ写真が、対外宣伝グラフ誌「NIPPON」1935年4月号の「日本女性の魅力はどこにあるか」という特集にも使われていました。対外宣伝グラフ誌「NIPPON」には、"YOUは、こんなJAPANお好きでしょ…? "みたいな写真が沢山ありますが、この特集では、①衣紋を抜かずに正座している女性と、②衣紋を抜いて、クニャッと座る芸者の両方の写真が出ています。シロウト女性とクロウト女性の両方の魅力を外国に発信しているのでしょう。(「名取洋之助と日本工房」毎日新聞社より)
このテの、衣紋を抜いた写真を見て思い出すのが、平身傾聴裏街道戦後史 遊びの道巡礼 (ちくま文庫)に出てくる元芸者のママのインタビューです。戦前、厳寒の京都で寒さに耐えた思い出話が、美談風になっているのが納得できません😭😭。命にもかかわる話なのに。ほら、昔って、ふとしたきっかけで若死にするじゃないですか!(もっともこの本は、これ以上にエグい話がてんこ盛りなのですが。)
【永六輔】京都の大学に入って、舞妓と恋愛するっていうのは夢だったな。
【ママ】一番印象に残っているのは、冬、寒い寒い時に、ラグビーの練習の帰りに「あした試合やさかい、来てくれよ」ておいいやす。みんな自分のひいきの妓を…。(略)同志社は祇園町どすねん。私ら、3年間、肩掛けできまへんねん。生意気なんで絶対に…。火鉢も当たれしません。怒られますねん。ほな雪が降ってきました。そしたら、応援に来てはる学生はんが、後から紙を襟へ入れてくれはるのどっせ。紙、ぬくおすな。
【小沢昭一】いい話だなあ
飲み屋のママの「紙、ぬくおすな」という言葉を見ると、うっかり"昔の人の芯の強さ・心意気"みたいに美化しそうになるけれど、寒さや病に負けて脱落した舞妓や芸者は、後年インタビューに応じることができません。私らは、生き残った勝者=健康運・ダンナ運など総合的に恵まれた芸者の思い出しか読めないわけです。(実際、このママも、有力者との関係が途切れないことを誇っている。)そのことを忘れずにいたいもんです。