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獅子文六が、敗戦後、読売新聞の誘いで「平和号」という飛行機に乗った時のエッセイに、"道しるべ"としての富士山が出てきました。
じきに駿河湾。バカにならぬ景観である。富士山はどうしても、日本本土のヘソである。しかし、空からの侵入者には、さぞ道しるべとして、お役に立つだろう。(「へなへな草子」より「南の空の旅」昭和27年)
この、富士山を"道しるべ"とする「空からの侵入者」については
中島飛行機物語―ある航空技師の記録にも書かれています。
はるばるサイパンから飛んでくるB29は、ひときわ目立つ富士山を目標に飛来してきて、富士山の手前で日本の迎撃戦闘機群を避けるため1万メートルまで上昇する。そして、中央線に沿って東上し、三鷹上空で武蔵製作所へほとんど全弾を落とし、すぐそばの荻窪製作所へは残弾を落とし、日本の戦闘機と高専しながら九十九里浜から日本を離脱、サイパンへ帰るのがコースであった。
(略)武蔵野製作所の上空の雲が厚い時B29は、レーダーを頼りに宮城へ向けて投弾した。あいにくその弾がそれて神田の一帯に落ち、神田っ子はびっくりした。(略)荻窪製作所のそばの西荻窪駅周辺の商店街は、武蔵野製作所をめがけて投弾された連続9回の中島爆撃に震えあがり、多くの店が地方へ転居してしまった。たまたま移転先を血眼で探していた神田っ子は西荻の空き家を見付け、われ先にと引っ越してきた。
サイパン→富士山→三鷹→西荻窪→九十九里浜→サイパンのコース。中央線沿線の住民なら、うわあ……と想像できるコースですね。また、中島飛行機への爆撃の結果、西荻窪と神田がシャッフルされたという点も、うわあ…です。
参考画像:昭和17年(1942)のJapanese Empire。
これは、立川基地の米軍司令官室近くにあったという富士山とB 29の写真。やっぱり道しるべなのね…