獅子文六の小説「自由学校」に「舞鶴でスクラムを組む」という文章が出てきま
す。以下、引用。
とにかく、これで、一安心… シベリアで抑留されたわが子が、舞鶴でスクラムを組んだとしても、生きて還った事実を知った母親は、駒子と似た気持ちだったろう。(「自由学校」ちくま文庫384頁)
これは、行方不明だった超ボンクラ夫が、ひょんな手違いから逮捕されていたことを知った妻の気持ちです。現在の私たちからすると、なんのことやらという感じですが、「舞鶴でスクラムを組む」についての注釈を読むとなんとなく事情が掴めます。
終戦後、舞鶴港はソ連からの復員軍人や引揚者の上陸地として知られた。ソ連で暮らしていた人たちは、多く思想教育を受けていたので、上陸するや、出迎えの肉親には目もくれず、スクラムを組んで、「革命万歳!天皇島に上陸しよう」などと気勢をあげたものだった
「舞鶴でスクラムを組む」のくだりは、部分的な抜き書きだとニュアンスが出ませんが、敗戦5年後に書かれた「自由学校」は笑いドコロを大量に散りばめた新聞小説、そして当時の読者は皆、敗戦の当事者です。今もTwitterで不謹慎ギリギリの冴えたツイートが大人気ですよね。この喩えも当時そういう感じだったのかなと想像しています。
↓参考画像:京都・舞鶴港と、ナホトカからの引揚げ船第1号「高砂丸」。1949年(昭和24年)6月29日
↓品川駅の掲示。1949年6月(昭和24年)。
↓「シベリヤからご主人がおかえりですよー」の巻