お墓で恋をはぐくむ 「青春怪談」(獅子文六)
獅子文六の『青春怪談』(昭和29)が、ちくま文庫から復刊されましたね。山崎まどかさんの愛にあふれた解説が「ちくまweb」で読めます。その中で山崎さんは「青春怪談」の「胸がキュンとなるようなロケーション」として“向島百花園の萩のトンネル”をあげていらっしゃいました。
私は、お花や庭園にうといので(笑)、キュンとするロケーションとして「多磨墓地」をおすすめしたい。
『青春怪談』では、多磨墓地に墓参にきた中年男女が偶然鉢合わせ、そこから恋が加速するんですよ。ではなぜ、よりによって「墓地」が恋の舞台なのでしょうか?その理由を考えてみたいと思います。
①『青春怪談』の多磨墓地は、裕福な時代が冷凍保存されているから
多磨墓地が恋愛の舞台になった理由の1つは、おそらくその贅沢さにあります。『青春怪談』の中で、多磨墓地は
日本が少しは裕福だった時代に、造られた墓地だけあって、規模が大きく、設計が行き届いていた
と説明されている。『青春怪談』の純情中年カップルは、戦前の恵まれた階級で育っているから、「日本が少しは裕福だった時代」につくられた施設と、相性がいいはずです。(当時の日本の“裕福さ”が何の上に成り立っていたかは、今はいったんおいておくとして。)
「いやいや、“日本が少しは裕福だった時代を思わせる場所”なんて、ほかに沢山あるでしょう?墓である必要はないよね?」と思われるかもしれません。
しかし、敗戦後しばらくの期間、都心の施設は、立派なら立派なほど進駐軍に接収されていました。当然、その周辺には豊かさの分け前を求める人々も群がります。
つまり「立派な施設=ピリピリとした施設」みたいな傾向があったわけです。 『青春怪談』が書かれたのは昭和29年。敗戦から10年近くたったとはいえ、まだ接収されたままの場所(日比谷の宝塚劇場・築地の聖路加病院など)も残っていました。
なまじ戦前を知っている中年にとって、敗戦後の都会は、なにかと雑音が多い場所だったことが考えられます。
▽たとえば、これは『青春怪談』より少し前の昭和27年、銀座4丁目交差点。右側のすすけた建物は「三越」。奥の「松屋」は接収されて「TOKYO PX」。画面手前には、進駐軍用の標識、とまあ、ゴチャついているわけです。Tokyo Ginza, 1952 | Photographer: Captain John Randolph Coup… | Flickr
青山墓地ではなく、多磨墓地が選ばれた理由
雑味の多い都心にくらべ、郊外の多磨墓地は戦後のゴタゴタを(比較的)連想させません。意外にも恋愛の舞台にぴったりといえるでしょう*1!
一方、同じお墓でも青山墓地は、近隣施設が接収されていたからアウトでしょうねー。早川良一郎のエッセイ『散歩が仕事』によれば
そうですから。
②多磨墓地は“最新型”だったから
昔のお墓は、ジメッとしてオバケが出そう。でも、多磨墓地はちがいます。日本初の公園墓地で、湿気もすくなめ。『青春怪談』に描かれた多磨墓地の様子はとっても明るいのです。
中央の大道路は、見上げるような赤松の林立と、鐘楼風の噴水塔が、墓地というより公園へきた印象を与えた
ヒロインの蝶子(アラフィフ)は、亡夫の墓参りをするときにに、多磨墓地の「大道路」を歩くのが大好きという設定なんです。
▽噴水を右に曲がると、蝶子さんの亡夫の墓があります。
▼平面図はこんな感じ。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282291-00より
上書きされる前の東京で、青春を取り戻す
現代人にとっての多磨墓地は、大正12年開園の伝統ある場所ですが、『青春怪談』の昭和29年からみれば、開演から約32年しかたっていません。 お若い方には想像しにくいかもしれませんが、中高年にとって30年前は、“つい最近”です。
『青春怪談』の純情中年カップルにしてみれば、多磨墓地は、“この間オープンしたばかりの、斬新な施設”といえるでしょう。
『青春怪談』に登場する若者たちは、新橋や渋谷など、雑味の多い街を平気で歩くことができますが、戦前の都会を知っている中年はそうもいかないはず。自分たちが青春を過ごした街が、復興途中にヘンテコな上書きをされているのですから。獅子文六も敗戦後の東京を「田舎酌婦の化粧のよう」*2と嘆いているし。
そんなわけで、敗戦国の中年カップルにとって、戦前の豊かさを残した郊外墓地は、けっこう恋愛むきのロケーションだったりするのです。
▽美しい建造物に、変てこな上書きが加えられた例:有楽町「日劇」
▽「青春怪談」の書かれた昭和29年の聖路加病院には、まだ星条旗がひるがえっていました
▽「青春怪談」が書かれた昭和29年、宝塚劇場はまだ接収されていました