読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

お墓と、獅子文六「青春怪談」

終戦から10年 獅子文六

 

獅子文六の「 青春怪談」がちくま文庫から復刊されました。山崎まどかさんの熱い解説が「ちくまweb」で読めます。この解説を読めば、青春怪談を買いたくなること間違いなし!

 

山崎まどかさんは「 青春怪談」の胸がキュンとなるロケーションとして、向島百花園の萩のトンネルをあげておられます。ちなみに花にすごくウトい私がキュンとしたロケーションは「多磨墓地」でした。「多磨墓地」で純情な中年カップルが、墓参りで偶然鉢合わせしてしまうのです。「墓地」なのにキュン、が可能な理由をちょっと考えてみました。

f:id:NARASIGE:20170216090127j:plain

平面図はhttp://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282291-00より

 

 

(1)多磨墓地は、豊かだった時代が冷凍保存されているから

多磨墓地は大正12年の春、つまり関東大震災のちょっと前に開園しました。「青春怪談」の中での多磨墓地は「日本が少しは裕福だった時代に、造られた墓地だけあって、規模が大きく、設計が行き届いていた。」と書かれています。戦前、恵まれたお家で育った中年カップルにとって「日本が少しは裕福だった時代」ならではのドーンと立派な施設は、もっとも馴染み深いモノだったのではないでしょうか。

 

「規模が大きくて設計が行き届いていた場所なんて、他にも沢山あるのでは?」と思われるかもしれません。しかし敗戦後しばらくの期間、都心の施設は立派なら立派なほど進駐軍に接収されちゃって、さらに周囲には豊かさの分け前を求める人々が群がったり、また接収を免れても妙な変化をしてみたり(日劇→■)、という経緯があります。なので戦前派カップルにとって、ちと複雑な思いがよぎる可能性有。

 

その点、都心を離れた多磨墓地は、そこまで時代の推移を感じさせない、ナイスなロケーションなのです!(厳密にいえば周辺エリアに京王閣→■だの、調布飛行場だの接収された場所もありますが、お墓参りにはそれほど影響なかったと思われます。)

 

(2)多磨墓地は、最新型だから

お墓でデートというと、ヒュ〜、ドロドロ〜なイメージですが、多磨墓地は違います。なにしろ、日本で初めて欧米の公園墓地を参考にして造られたんですから。「青春怪談」にも「中央の大道路は、見上げるような赤松の林立と、鐘楼風の噴水塔が、墓地というより公園へきた印象を与えた。」とあり、もうすぐ50歳を迎える蝶子さんは、その「大道路」を歩くのが好きという設定です。

 

開園に携わった東京市の担当者の手記→■を読むと、オープン当初、世間は新型の公園墓地にとても冷ややかで「当局の非常識に呆れた」という空気があったこと、関東大震災後に寺院の墓が壊滅状態になった人々が「移転先」としてやむを得ず多磨墓地を使うようになったこと、次第に社会的名士の利用者が増えて東京名所の一つになったこと、などが書かれています。

 

蝶子さんが慕いまくっている鉄也も、娘・千春の母の墓を建てる際のエピソードとして「あの頃は、多磨墓地も、開始匆々で、望みの場所が手に入りましたな」などと語っています。

 

さて現代人にとって多磨墓地は大正12年開園の古い場所。しかし「青春怪談」の書かれた昭和29年からみれば、大正12年は約32年前なんですね。ちなみに東京ディズニーランドの開園は今から約34年前です。ほら、同じくらいの年数ではありませんか?!

 

お若い方には想像しにくいかもしれませんが、中高年にとって30年前は「つい昨日」の感覚なのです!「青春怪談」の純情中年カップルにとって、多磨墓地はつい昨日オープンした新鮮な場所だったのかもしれません。

 

【参考画像 】 つい昨日(1983年)の人気者、イウォーク

f:id:NARASIGE:20170216104553j:plain

 

 

【参考画像 】 銀座松屋:昭和27年接収解除

Matsuya Ginza branch of the Tokyo PX, 1952 | The Matsuya Gin… | Flickr

f:id:NARASIGE:20170203123916j:plain

 

 

【参考画像 】東京宝塚劇場:昭和30年接収解除

FH000029-090104-22 | discovery2009 | Flickr

f:id:NARASIGE:20170203123925j:plain

 


 

万年筆

私は字を書くのが苦手です。だから手帖も使いません。

しかし万年筆なら、ある程度うまうく書けるのです。

うまい字が書けると生活の質があがる。

そして自分を愛せる感が高まるのです。

万年筆は高いものでなくてもOKです。

1,000円程度で買えるパイロットの「カクノ」(写真)や、ラミーでじゅうぶん。

f:id:NARASIGE:20130820171213j:plain

 

万年筆によって私自身のQOL(生活の質)がグッと上がったので、老母にパイロットの「カクノ」を与えてみました。

するとビックリ。

母は「万年筆使うの50年ぶり。」といいながら「カクノ」で、昔と変わらぬしっかりとした字と、正しい言葉使いの手紙を書いてよこしたのです。母は80歳代で体もかなり不自由です。しかし「書く」「言葉を選ぶ」という機能に関しては意外なほど好調なことが筆跡からうかがえました。

 

私は年寄り相手の窓口業務で、震える筆跡をたくさん見てきたから、母の字がしっかりしていることには余計に驚きましたね。

 

母は長いことウツなので、体調の悪い時はいかにも具合悪そうな小さな字をエンピツで書いていたのです。万年筆を使うことによって、自分がまだカッコいい字を書けることを発見したのでしょう。「笑顔を作ると幸せになるのさ」的な理論がありますが、のびのびした字が書ける自分はまだイケる!(同世代はどんどんあの世に行くけど!)と感じているのかもしれません。

あまり話し合わない親娘なので推測のみで書いてますが、たぶん合ってますよ。

 

 

広告を非表示にする

邸宅のその後

 高見順「敗戦日誌」には、敗戦の年(昭和20年)10月1日の日記に、向島の大倉別邸(wiki)が、進駐軍慰安所になったという記載があります。

 

大倉別邸って、帝国ホテル帝国劇場とかを作った大倉財閥の設立者の別邸ですよ。

 

十月一日
三木清が獄死した。殺されたのだ!
墨堤の大倉別邸が進駐軍慰安所になる。
一度暇を見て向島の移り変わりを見に行かねばなるまい。

 

私は何年か前、墨堤の大倉別邸がなぜか千葉県の船橋に移築されているのをネットで知り、見に行ったものでした。

道路の向かいは「ららぽーと」、背景は団地群、といった環境の中、唐突に大倉別邸が立っていて違和感はすごかったです。大倉別邸は某ホテルの敷地内にあるのですが、この建物の由来を説明する掲示物等は無く、雨戸も閉められた状態でした。

 f:id:NARASIGE:20090921144644j:plain

↑大倉別邸

 

f:id:NARASIGE:20090921145013j:plain

↑隣接する団地

 

こんなに立派そうな建物を説明する掲示物が無いなんて。過去のアレコレがあるから、冷遇されているのかなって思っておりました。

 

 

 

 

それから数年たち、先日、墨田区の観光案内を見ていたら「大倉喜八郎別邸跡」というのがドーン!とマップで紹介されているじゃありませんか。写真はなく「財閥を築いた大倉喜八郎が、明治43年に建てた別荘。現在は千葉県船橋市に移築。」と文章が記載されているだけですが。

 

大倉喜八郎別邸が、船橋で冷遇(?)されているのを見た私としては、元々建っていた場所である向島に何の痕跡も残っているはずない!と思い込んでいました。しかし観光マップに堂々と出ているのだから何かしら残っているはずです。いったいどんなものだろう!と、見に行ってきました。

 

だって財閥を築いた大倉喜八郎氏にまつわる史跡ですよ。きっと墨田区の石碑(文化の散歩道☆的な)があったり、関連企業がこしらえた記念碑があったりするのかも、と予想していたのです。しかし、それは大きく裏切られました。

 

解体前の倉庫の草ボーボーの植え込みに、経年劣化でほとんど読めないプレートがあるだけという、かなり寂しい状況だったのです。しかもプレートを書いた主はその倉庫会社というテイになっていて、墨田区や大倉氏関連の企業が関わった形跡は無し。あららー。やはり敗戦時の出来事の余波が、堂々とした記念碑的なものを作らせないのでしょうか。

f:id:NARASIGE:20160529104730j:plain

 

 

 

f:id:NARASIGE:20160529105012j:plain

↑倉庫の解体を示す看板

 

 

参考資料「色の道商売往来」より、小沢昭一と、RAA関係者の対談(昭和40年代)

[小沢] マッカーサーの名前が出ましたが、進駐軍の高官の接待、これもいろいろご苦労があったと思いますが・・・・

[鏑木] そのために大倉別邸を手に入れたわけです。大倉さんの別荘には、有名な陛下がおいでになった部屋がありますね。あの部屋に、マッカーサーをはじめホイットニー中将をの他をよんだわけです。

[小沢]そういうご連中にご婦人は・・・・

[鏑木]やっぱり施設の若いコです。

[小沢]と、GIのあとから司令官が抱くというわけですか。

[鏑木]そういう点、アメリカは平等ですな(笑

[小沢]しろうとのお嬢さんを世話しろなんて、おねだりはありませんでしたか。

[鏑木]おねだりもありました。ただ日本の女は毛唐崇拝の念が強いから、案外こっちは苦労しないで喜んでいきましたね。

[小沢]あのころ、RAAの女性の平均年齢はいくつくらいでしたか。

[鏑木]22.3でしょうね。

[小沢]その方達は今生きていれば、50近い。当時のカネで相当ためた女もいるでしょうね。

[鏑木]ためた女は少ないです。

[小沢]あれで稼いだ金ってどうしてたまらないんですかね。

[鏑木]やっぱり荒稼ぎというんでしょうね。地道な稼ぎ方じゃないから・・・・・。

 

広告を非表示にする

東京湾のパノラマと、洲崎チェック☆

 幸田露伴の随筆に、初夏の晴れた日に東京湾を舟にのってボンヤリしていると、東京湾の周囲がぐるりと見渡せて「天の橋立の景色を夢にでも見るようである」といった心地になることが書かれていた。東京の近くにこんなに良い光景があるのを知らないなんてみんな人生損しているよッ!と云った口調である。

 

一部引用すると

すぐ鼻の先の芝から愛宕高輪品川鮫洲大森羽田の方まで、陸地のだんだんに薄くなって行って終に水天の間に消える。芝居の書割とでも云おうか又パノラマとでも云おうか何とも云いようの無い自然の画が、今日はとりわけいろ具合好く現れて、毎々の事ではあるが、人をして「平凡の妙」は至る所に在るものであるということを強く感ぜしめるのである。で、思わず知らずに又州崎の方を見ると、近い州崎の遊郭の青楼の屋根など異様な形をしたのが、霞んだ海面の彼方に、草紙の画の竜宮城かなんぞのように見えて(以下略)

 

 

洲崎は明治21年(1888)に根津から遊郭が移転したそうだから、この随筆が発表された明治39年には、出来てまだ十数年の歓楽街。「遊郭の青楼の屋根など異様な形」などは間近で見るとかなりキツいものがあったと想像されますが、海上から見るとウマい具合にソフトフォーカスがかかって「草紙の画の竜宮城かなんぞのように」見えるのですね。

 

下は昭和3年 現代漫画大観「日本巡り」より引用の画像。男性が東京湾巡りをするとやはり、洲崎方面に目がいってしまうもののようです。

f:id:NARASIGE:20150918060118j:plain

 

 


玉の井と京成バス

 

永井荷風玉の井ルポ「寺じまの記」(昭和11年)を読んでいたら、「京成乗合自動車」が出ていた。

「寺じまの記」によれば浅草から玉の井に行くには二通りあって、一つは「市営乗合自動車」、もう一つは「京成乗合自動車」。「市営」か「京成」かは、それぞれ車の横腹に明記してあり、永井荷風は「京成乗合自動車」をチョイスして玉の井へ向かうのです。

 

(そういえば、先日、激しく再開発された南千住を歩いていたら、やはり京成のミニバスと都営バスが交互に走っていて、さらにショッピングモールに入っているスーパーもリブレ京成で、「ああ、このあたりは京成の勢力圏なんだなあ」と思ったことでした。ちなみに南千住から橋を渡るとすぐ「鐘ヶ淵」。「鐘ヶ淵」のとなり駅が玉の井東向島です。)

 

f:id:NARASIGE:20160519123129j:plain

 

 

 

下の漫画は昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」。玉の井行きの乗合自動車が全盛であると書かれています。wikiによれば、「京成」が「昭和6年に、浅草を起点に玉ノ井・四ツ木・立石周辺に路線を有していた隅田乗合自動車を買収した」とあるので、この漫画が出版された昭和3年の段階では、乗合自動車は「京成」のものではなかったと思われます。

f:id:NARASIGE:20160507055553j:plain

広告を非表示にする

武蔵野夫人

武蔵野夫人を読んだ。

占領下に発表された小説。

 

舞台となる場所は、「多磨地区は軍都だったッ」的な本でおなじみのエリアなので、敗戦後は接収されてる場所 もあるだろうに、進駐軍のことはほとんど出てこない。唯一出てくるのは、登場人物の間で「近所の飛行場(調布飛行場)に進駐軍が来るから(自害用に)青酸カリ持っとく?」みたいな話になった時に、外国文学を学んだという設定の登場人物が、自分は米兵の礼節を信じているから☆と青酸カリの件を一笑に付すシーン。こいいう肯定的な表現はOKなのですな。

 

駅の前にパンパンがいても「パンパンとその客」と書いてあって、「客」がどういう人なのか一切書いてない。

 

そのほか、

「街道には外国の車がひっきりなしに走っていた」

「飛行場の将校集合所」

「碧の濃い秋空にはどこを飛ぶのか飛行機の爆音に充ち」

と、占領に関することは、全部、漠然とした書き方。当時の読者はこれで十分すぎるほど理解出来ただろうけど、後世の読者にはわかりずらいかも。

 

久生十蘭の「母子像」でも、厚木の米兵のことは「毎土曜日の午後、朝鮮から輸送機でつくひと」と、びっくりするほど曖昧に書かれています。

 

小説の中では、ぼかされているアレコレですが、銀座の標識には飛行場の場所としてバッチリ明記されているのでした。武蔵野夫人のすぐそばの調布飛行場をはじめとして、府中、立川、入間など飛行場や通信施設のある場所までの距離が一目瞭然。

 

narasige.hatenablog.com 

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

広告を非表示にする

モボモガと村山貯水池

f:id:NARASIGE:20160415203053j:plain

 

昭和3年「現代漫画大観 日本巡り」より、村山貯水池付近を散策するモボとモガ。

 

Google マップ

 

 村山貯水池は、通称「多摩湖」。大正5年から昭和2年の間に建設されました。

 

地図で解明! 東京の鉄道発達史 (単行本)には、昭和13年に西武鉄道が村山貯水池を日帰りできる景勝地として大ブッシュしているパンフレットが掲載されています。パンフレットは、高田馬場からわずか30分!とうたっており、菊池寛による賛辞の言葉〝京都に行かなくたって村山貯水池で山紫水明気分が得られるよ(大意)〟を使って村山貯水池のステキさをアピールしています。

当時の西武は村山貯水池付近にお洒落な洋館ホテルも建てている。人造の湖と洋館ホテルの組み合わせ。洋装のモボやモガはここに宿泊して、欧羅巴のどこかにいるつもりになれたのたかもしれません。

 

村山貯水池が恋愛の舞台になった小説に大岡昇平の「武蔵野夫人」があります。村山貯水池脇のホテルで不倫カップルが、一線を越える・越えないで大騒ぎする話。この小説が発表されたのは、昭和25年です。西武が村山貯水池推しの派手なパンフレットを作ってからわずか12年後の話なのですが、その間に日本は敗戦を体験し、時代は大きく変わりました。湖畔のお洒落ホテルも敗戦をはさんで超さびれてダサくなってしまった様子が描かれています。(この湖畔ホテルに限らず、戦前はモボモガの憧れであったモダン施設が、戦中戦後に荒廃し負のオーラを放つというケースは「京王閣」「花月園」をはじめとして、かなり多かったのではないかしら。)

 

narasige.hatenablog.com

 

 

「武蔵野夫人」に出てくる村山貯水池の説明文を読むと、冒頭の風刺漫画でモボとモガが軽薄そうに散歩していたことが、誇張じゃなかったことがわかります。

「この丘陵の懐は、つまり東京都の水道を賄う村山貯水池にほかならず、ちょうど富子の女学生時代にそれが竣工し、谷を埋めた人工の湖の景観が、東京市民ことに男女学生の興味を引いて、湖畔にいわゆるアベック休憩のホテルがあるのを彼女は知っていた。」

文中に出てくる「富子」というのは、コケティッシュな発展家タイプの女性で小説の中では30歳という設定。西武のパンフレットが昭和13年に、村山貯水池を身近な景勝地!として売り出していた頃が、まさに彼女の女学生時代。富子は女学生時代の記憶を元にして、村山貯水池のホテルに若い男を誘うのです。

  

 

 

■さて、村山貯水池には隣接する狭山公園というのがあります。狭山公園も昭和13年の西武鉄道パンフレットに大きく美しく描かれている場所。

レッドアローとスターハウス: もうひとつの戦後思想史 (新潮文庫)には、狭山公園が1960年代に「アカハタまつり」の会場となった歴史が取り上げられています。西武鉄道は「アカハタまつり」の日程に合わせて新宿と池袋で特設切符売り場を設け往復割引券を発行しましたが、西武の機関誌にはアカハタ祭りの記事はいっさい出ていないそうです。