インドア派のための『地形を体感する午後』(5月20日・東京都国分寺)

本屋さんには、タモリの本やスリバチの本等、地形をテーマとした本が並んでいますね!私は地図が読むのが苦手な上、ゆるい傾斜を歩くとすぐ疲れてしまうタイプなので本当に憧れの世界です。

 

そこで、畳の部屋に座っているだけで自動的に地形が体感できる、都合の良い集いを開くことにしました!

なぜ畳の部屋でソレが可能かというと、明治末期〜昭和初期、国分寺の崖線沿いにお金持ち達が地形を生かす気まんまんで別荘をたてており、今回の集い「インドア派のための『地形を体感する午後』」は、そのうちの1つ殿ヶ谷戸庭園(旧岩崎邸)内の和室を借りて行うからです!

 

会場は途中入室退室可です。数分ほど見物したあと帰るもよし、読書・昼寝・園内散策でのんびり過ごしていただくのもOK。ご参加お待ちしてます。

 

日時:平成30年5月20日(日) 13時30分から16時(途中入室退室可)

場所:殿ヶ谷戸庭園「紅葉亭(こうようてい)」公式サイト

読書会という形で予約をとっています。

注意①:会場はデリケートな古い建造物のため、お子様の参加はご遠慮ください。

注意②:園内の起伏が激しいので、散策希望の方は滑りにくい靴でお越しください。

料金:庭園の入園料が150円かかります。

ご予約:不要

 

 

持ち物:ご自分用の飲み物(アルコール不可) 。もし皆さんに見せたい地形関係の本等があったらお持ちください。私も閲覧用に少し持っていきますー。

 

写真上方にちょっと見えるのが、会場の紅葉亭です。

f:id:NARASIGE:20180501150749j:plain

 

 

 

 

以下【参考資料】水と緑のひろば71号よりf:id:NARASIGE:20180425204040p:plain

 

国分寺の崖線沿いの別荘の例

日立中央研究所(旧今村邸)

三楽の森(旧前田邸)

はけの森美術館(旧小橋邸)

滄浪泉園(旧波田野邸)

はけの森美術館(旧小橋邸)

実篤公園(旧武者小路邸)

静嘉堂文庫(旧岩崎邸)

など!

 

 

グッバイレーニンの音楽にのせて

私が才能のある映画監督ならやってみたいこと。

それは、グッバイレーニン的な音楽にのせて、広池秋子の「オンリー達」を映画化すること。

「オンリー達」は、「基地そばの下宿のオバさんは見た!」のていで書かれている小説(小説だけど、地元の老人の説によれば作者の実体験に近いとか)、芥川賞候補にもなったそうですよ。敗戦間もない頃、基地の街K市を舞台に、フェンスの中の豊かさを手にしようと右往左往する人たち。特に女性の場合は一攫千金を狙うために、身を挺して!のシーンも多い。映画化にあたっては、陰惨になったり、妙に美化したり、の方向に走りそう。そこをグッとこらえて、グッバイレーニンぐらいのバランスに持っていくのだ。

 

どうしても陰惨に生臭くなるのであれば、グランドブダペストホテルみたいに、おもちゃっぽい乗り物(ケーブルカーとか)などを用い、中和を試みたい。

 

その映画が完成しても(基地の存在のお陰で本当にリッチになった階層の要望で)、ご当地では上映されないかもしれないけどね。

what a lovely day祭り

車椅子生活(難病)の夫が、よりによって年末に不調になった。市のホームページを調べ休日診療をしている市の会館、みたいな寂しげな建物に連れていった。

その寂しい建物が夫のツボに入ったらしく、入り口の昭和な天使の像(高島屋のローズちゃんが寝転がってるみたいなやつ)を見て、生来の森茉莉力を発揮。天使だ!!日光だ!!今日はなんて素晴らしい日だ!!と大はしゃぎ。喜びは人それぞれですな。

f:id:NARASIGE:20171230210345j:plain

 

銀座のオアシス

銀座松坂屋のあたりに、魅力的な施設がオープンすることを告げる看板です。

(看板の下方には MASTUZAKAYA  DEPT.の文字が見えます)

 

といってもギンザシックスが出来るのではありません。 

f:id:NARASIGE:20170517060557j:plain

この写真は師岡宏次写真集「想い出の東京」より。解説を引用します。

 

ダンスホール開場」

銀座松坂屋の地下室が焼け残った。そこは進駐軍専用のダンスホールになり、焼け野原に看板が立った。(昭和21年)

看板の文字には、英語でつぎのように書いてあった

 

開店

連合軍のための近代的ダンスホール

オアシスオブギンザ

モダンスウィングオーケストラ 500人の日本人の踊り子 また近々にこの建物の地下におみやげもの店、キャバレー、ビヤホール開店。日本食レストランもあり。

松坂屋百貨店

 

 

 

■参考画像 「オアシスオブギンザ」の入り口写真

Tokyo, fall of 1945 (文化社): 1946|書誌詳細|国立国会図書館サーチから

f:id:NARASIGE:20080124121810j:plain

拡大すると、R.A.A.特殊慰安施設協会)の文字が。

f:id:NARASIGE:20170517062328j:plain

 

■作家高見順の「敗戦日記」にも、「オアシス オブ ギンザ」が登場しています。ここでは、ごく一部を抜粋します。

 

10月1日 墨堤の大倉別荘が進駐軍慰安所になる。一度暇を見て向島の移り変わりを見に行かねばなるまい。

11月14日 松坂屋の横にOasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下に R.A.A.とある。Recreation and Amusement Associationの略である。(中略)

「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が
「地下二階までは行けるんですよ」

地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼り紙があった。(中略)

下階から音楽が響いてくる。栄養失調の身体を汚い国民服に包んだ日本人の群れが、空腹をかかえてうろうろしている。楽しそうな音楽も一向に気分を引き立てないようである。

 
 

 

お墓と、獅子文六「青春怪談」

 

獅子文六の「 青春怪談」がちくま文庫から復刊されました。山崎まどかさんの熱い解説が「ちくまweb」で読めます。この解説を読めば、青春怪談を買いたくなること間違いなし!

 

山崎まどかさんは「 青春怪談」の胸がキュンとなるロケーションとして、向島百花園の萩のトンネルをあげておられます。ちなみに花にすごくウトい私がキュンとしたロケーションは「多磨墓地」でした。「多磨墓地」で純情な中年カップルが、墓参りで偶然鉢合わせしてしまうのです。「墓地」なのにキュン、が可能な理由をちょっと考えてみました。

f:id:NARASIGE:20170216090127j:plain

平面図はhttp://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282291-00より

 

 

(1)多磨墓地は、豊かだった時代が冷凍保存されているから

多磨墓地は大正12年の春、つまり関東大震災のちょっと前に開園しました。「青春怪談」の中での多磨墓地は「日本が少しは裕福だった時代に、造られた墓地だけあって、規模が大きく、設計が行き届いていた。」と書かれています。戦前、恵まれたお家で育った中年カップルにとって「日本が少しは裕福だった時代」ならではのドーンと立派な施設は、もっとも馴染み深いモノだったのではないでしょうか。

 

「規模が大きくて設計が行き届いていた場所なんて、他にも沢山あるのでは?」と思われるかもしれません。しかし敗戦後しばらくの期間、都心の施設は立派なら立派なほど進駐軍に接収されちゃって、さらに周囲には豊かさの分け前を求める人々が群がったり、また接収を免れても妙な変化をしてみたり(日劇→■)、という経緯があります。なので戦前派カップルにとって、ちと複雑な思いがよぎる可能性有。

 

その点、都心を離れた多磨墓地は、そこまで時代の推移を感じさせない、ナイスなロケーションなのです!(厳密にいえば周辺エリアに京王閣→■だの、調布飛行場だの接収された場所もありますが、お墓参りにはそれほど影響なかったと思われます。)

 

(2)多磨墓地は、最新型だから

お墓でデートというと、ヒュ〜、ドロドロ〜なイメージですが、多磨墓地は違います。なにしろ、日本で初めて欧米の公園墓地を参考にして造られたんですから。「青春怪談」にも「中央の大道路は、見上げるような赤松の林立と、鐘楼風の噴水塔が、墓地というより公園へきた印象を与えた。」とあり、もうすぐ50歳を迎える蝶子さんは、その「大道路」を歩くのが好きという設定です。

 

開園に携わった東京市の担当者の手記→■を読むと、オープン当初、世間は新型の公園墓地にとても冷ややかで「当局の非常識に呆れた」という空気があったこと、関東大震災後に寺院の墓が壊滅状態になった人々が「移転先」としてやむを得ず多磨墓地を使うようになったこと、次第に社会的名士の利用者が増えて東京名所の一つになったこと、などが書かれています。

 

蝶子さんが慕いまくっている鉄也も、娘・千春の母の墓を建てる際のエピソードとして「あの頃は、多磨墓地も、開始匆々で、望みの場所が手に入りましたな」などと語っています。

 

さて現代人にとって多磨墓地は大正12年開園の古い場所。しかし「青春怪談」の書かれた昭和29年からみれば、大正12年は約32年前なんですね。ちなみに東京ディズニーランドの開園は今から約34年前です。ほら、同じくらいの年数ではありませんか?!

 

お若い方には想像しにくいかもしれませんが、中高年にとって30年前は「つい昨日」の感覚なのです!「青春怪談」の純情中年カップルにとって、多磨墓地はつい昨日オープンした新鮮な場所だったのかもしれません。

 

【参考画像 】 つい昨日(1983年)の人気者、イウォーク

f:id:NARASIGE:20170216104553j:plain

 

 

【参考画像 】 銀座松屋:昭和27年接収解除

Matsuya Ginza branch of the Tokyo PX, 1952 | The Matsuya Gin… | Flickr

f:id:NARASIGE:20170203123916j:plain

 

 

【参考画像 】東京宝塚劇場:昭和30年接収解除

FH000029-090104-22 | discovery2009 | Flickr

f:id:NARASIGE:20170203123925j:plain

 


 

万年筆

私は字を書くのが苦手です。だから手帖も使いません。

しかし万年筆なら、ある程度うまうく書けるのです。

うまい字が書けると生活の質があがる。

そして自分を愛せる感が高まるのです。

万年筆は高いものでなくてもOKです。

1,000円程度で買えるパイロットの「カクノ」(写真)や、ラミーでじゅうぶん。

f:id:NARASIGE:20130820171213j:plain

 

万年筆によって私自身のQOL(生活の質)がグッと上がったので、老母にパイロットの「カクノ」を与えてみました。

するとビックリ。

母は「万年筆使うの50年ぶり。」といいながら「カクノ」で、昔と変わらぬしっかりとした字と、正しい言葉使いの手紙を書いてよこしたのです。母は80歳代で体もかなり不自由です。しかし「書く」「言葉を選ぶ」という機能に関しては意外なほど好調なことが筆跡からうかがえました。

 

私は年寄り相手の窓口業務で、震える筆跡をたくさん見てきたから、母の字がしっかりしていることには余計に驚きましたね。

 

母は長いことウツなので、体調の悪い時はいかにも具合悪そうな小さな字をエンピツで書いていたのです。万年筆を使うことによって、自分がまだカッコいい字を書けることを発見したのでしょう。「笑顔を作ると幸せになるのさ」的な理論がありますが、のびのびした字が書ける自分はまだイケる!(同世代はどんどんあの世に行くけど!)と感じているのかもしれません。

あまり話し合わない親娘なので推測のみで書いてますが、たぶん合ってますよ。

 

 

邸宅のその後

 高見順「敗戦日誌」には、敗戦の年(昭和20年)10月1日の日記に、向島の大倉別邸(wiki)が、進駐軍慰安所になったという記載があります。

 

大倉別邸って、帝国ホテル帝国劇場とかを作った大倉財閥の設立者の別邸ですよ。

 

十月一日
三木清が獄死した。殺されたのだ!
墨堤の大倉別邸が進駐軍慰安所になる。
一度暇を見て向島の移り変わりを見に行かねばなるまい。

 

私は何年か前、墨堤の大倉別邸がなぜか千葉県の船橋に移築されているのをネットで知り、見に行ったものでした。

道路の向かいは「ららぽーと」、背景は団地群、といった環境の中、唐突に大倉別邸が立っていて違和感はすごかったです。大倉別邸は某ホテルの敷地内にあるのですが、この建物の由来を説明する掲示物等は無く、雨戸も閉められた状態でした。

 f:id:NARASIGE:20090921144644j:plain

↑大倉別邸

 

f:id:NARASIGE:20090921145013j:plain

↑隣接する団地

 

こんなに立派そうな建物を説明する掲示物が無いなんて。過去のアレコレがあるから、冷遇されているのかなって思っておりました。

 

 

 

 

それから数年たち、先日、墨田区の観光案内を見ていたら「大倉喜八郎別邸跡」というのがドーン!とマップで紹介されているじゃありませんか。写真はなく「財閥を築いた大倉喜八郎が、明治43年に建てた別荘。現在は千葉県船橋市に移築。」と文章が記載されているだけですが。

 

大倉喜八郎別邸が、船橋で冷遇(?)されているのを見た私としては、元々建っていた場所である向島に何の痕跡も残っているはずない!と思い込んでいました。しかし観光マップに堂々と出ているのだから何かしら残っているはずです。いったいどんなものだろう!と、見に行ってきました。

 

だって財閥を築いた大倉喜八郎氏にまつわる史跡ですよ。きっと墨田区の石碑(文化の散歩道☆的な)があったり、関連企業がこしらえた記念碑があったりするのかも、と予想していたのです。しかし、それは大きく裏切られました。

 

解体前の倉庫の草ボーボーの植え込みに、経年劣化でほとんど読めないプレートがあるだけという、かなり寂しい状況だったのです。しかもプレートを書いた主はその倉庫会社というテイになっていて、墨田区や大倉氏関連の企業が関わった形跡は無し。あららー。やはり敗戦時の出来事の余波が、堂々とした記念碑的なものを作らせないのでしょうか。

f:id:NARASIGE:20160529104730j:plain

 

 

 

f:id:NARASIGE:20160529105012j:plain

↑倉庫の解体を示す看板

 

 

参考資料「色の道商売往来」より、小沢昭一と、RAA関係者の対談(昭和40年代)

[小沢] マッカーサーの名前が出ましたが、進駐軍の高官の接待、これもいろいろご苦労があったと思いますが・・・・

[鏑木] そのために大倉別邸を手に入れたわけです。大倉さんの別荘には、有名な陛下がおいでになった部屋がありますね。あの部屋に、マッカーサーをはじめホイットニー中将をの他をよんだわけです。

[小沢]そういうご連中にご婦人は・・・・

[鏑木]やっぱり施設の若いコです。

[小沢]と、GIのあとから司令官が抱くというわけですか。

[鏑木]そういう点、アメリカは平等ですな(笑

[小沢]しろうとのお嬢さんを世話しろなんて、おねだりはありませんでしたか。

[鏑木]おねだりもありました。ただ日本の女は毛唐崇拝の念が強いから、案外こっちは苦労しないで喜んでいきましたね。

[小沢]あのころ、RAAの女性の平均年齢はいくつくらいでしたか。

[鏑木]22.3でしょうね。

[小沢]その方達は今生きていれば、50近い。当時のカネで相当ためた女もいるでしょうね。

[鏑木]ためた女は少ないです。

[小沢]あれで稼いだ金ってどうしてたまらないんですかね。

[鏑木]やっぱり荒稼ぎというんでしょうね。地道な稼ぎ方じゃないから・・・・・。