高級住宅街と「イミテーションゲーム」
井の頭線・浜田山にある高級住宅街に行ってきました。ウソかと疑うレベルで綺麗なところです。
なぜ行ったかというと、立川市が出しているお年寄りの聞き書き集に、“戦争末期、浜田山駅の近くにあった三井のグラウンドでソ連の暗号を解読をしていた”という話が出ていたから。
「はて、三井のグラウンドとは?」と検索してみたところ、現在は高級住宅街になっているというじゃありませんか。
陸軍中央気象部で暗号解読
聞き書き集の話し手は「陸軍中央気象部」に勤めていた人。陸軍中央気象部は、もともと高円寺にありました。しかし戦争末期は空襲を避けるため、浜田山の「三井のグラウンド」を接収して移転したのだとか。
ヤルタ会議等の極秘暗号も傍受できていたので、日本の戦局が悪いことは早くからわかっていた。(『私の戦争体験記』より「陸軍中央気象部亜欧係」立川市教育委員会)
ああ。せっかく情報を傍受しても、多くの犠牲が出てしまうんですね…。映画「イミテーションゲーム」にも、そんなもどかしいシーンがありましたっけ。
昭和11年に出来たグラウンド
ということで、戦争末期に陸軍中央気象部があった(とされる)「グラウンド」跡地に行ってきました。本当に高級住宅街で緊張した…。でも生協パルシステムの車が配達している様子を見かけて、ひと安心。私もパルシステム使ってます(笑)
▽これは敷地入り口にあった案内板。レリーフっていうんでしょうか、デコボコしてる。(当たり前ですが、戦中についての記載はありません。暗号解読うんぬんは、敗戦間際の一時のことですしね)
拡大。「1936年(昭和11年)11月、三井浜田山グラウンド開場」
ヒマラヤスギ。表示板には「グラウンド整備当初からこの地にあった」と書かれていました。このヒマラヤスギは暗号解読にたずさわった人たちを見ていたのかもしれません。
敷地内にある昭和11年築の建物。モダンというわけね。今も使われています。
敷地の突き当たりにある「三井の森公園」。神田川「崖線」の説明です。
映画化するなら、「かまいたち」の2人で
以上、もと「グラウンド」だった場所の様子でした。最後に、グラウンドに行くきっかけとなった文章を抜粋します。
「陸軍中央気象部亜欧係」(『私の戦争体験記(平成28)』より立川市教育委員会)
突然、異動を命じられた。そこは「予報課亜欧係」。それまで部内にそのような係がある事は全く知らなかった。業務は、気象予報とは関係のない、ソ連主要地の天気予報の暗号文を解読する極秘任務であった。その日から営内居住になり、外部との接触及び外出も禁止となる特務機関であったが、営内の待遇は良かった。(略)
ソ連の暗号の組み立て方は1から9までの数を羅列したものであった。担当はおよそ15名。皆が甲種幹部候補生出身者「座金組」で、東京帝国大学数学の教授をはじめ、優秀な人材ばかりで士気も高かった。通信担当が傍受したソ連のモールス信号を、電話帳ほどの厚さの乱数表を駆使して解読していった。(略)
昭和20年7月下旬の夜中、当番だった私は「生文」を傍受した。その頃は空襲を避けて、馬橋から浜田山駅の近くにあった三井のグランドを接収して、亜欧係は移転していた。電波を傍受されていたからか、浜田山移転後も米軍の空襲が続き、裏にあった女学校は一夜で焼けてしまった。(略)
我々は、ソ連が日ソ中立条約を破って満州に攻め入ることも傍受していたが、戦争は終わらず、多くの方が犠牲となった。(略)
馬橋の陸軍中央気象部には、「気象神社」があった。空襲で焼けてしまったが、戦後、高円寺南の氷川神社に映された。6月1日が例大祭である。例大祭は陸軍中央気象部の同窓会のようなもので、私は今でも毎年例大祭には参拝している。例大祭に集まる当時の仲間は、私ともう1人だけとなってしまった。
もし、このエピソードを映画化するなら、オープニングは「気象神社(高円寺)の例大祭」ですね。そして、例大祭に集まってきた普通の老人達が、「イミテーションゲーム」や「ブレッチリーサークル」みたいな回想をはじめるのです。
メインキャストは「かまいたち」の2人がいい。“夢中で暗号を解読する主人公 ”と、“憂鬱そうなエリート上司”と。どちらがどちらの役をやっても似合うと思います!
【参考】ネットにも「陸軍中央気象部」に勤めていた人の体験談が出ていました。しかしこの方は、「陸軍中央気象部」が浜田山のグラウンドに移転する前に異動しています。